第3話
「どういうこと?誰?この女。」
「俺の新しい、恋。」
「は?」
もうこの男に対して、ひらがな一文字以外の言葉が浮かばない。むしろ“は”というひらがな一文字の無限の可能性すら感じる。
「だからごめんね、莉緒。」
まるで買い物で頼まれた物を一つ買い忘れたみたいなテンションで、10年間一緒にいた男は言った。
「私もう帰る。」
「うん。わかった。でもちょっと待って。」
不機嫌そうにテキパキと服を着るギャルに、彼は言った。こんな状況で「わかった」なんていわれて、ムカつかない女がいるんだろうか。
そもそも私があの女に同情する必要なんて一切ないんだけど。
「じゃあね。」
「待って、萩花ちゃん。」
「待つのはあんたの方。」
私から出たひらがな以外の言葉は、自分のものとは思えないくらい鋭かった。それでも尚「わかった」とだけ私にいうこの男を、私は10年も追いかけていたんだろうか。
☆
「お、お邪魔します。」
次の夜、私は何のためらいもなく名前も知らない男の家にやってきた。相当バカだったと思う。それでも当たり前のように足が向かっていたのは、どうしてだろう。
彼の言った通り、家は真っ暗で誰もいなかった。彼のマンションは決して綺麗とはいえない見た目だった。築年数も結構経っていそうだ。でも中だけはリノベーションをされているみたいで、コンクリート造りの壁がおしゃれでかっこいい。
生活感ゼロのところが、またかっこいい。
誰か当時の私を引っ叩ける人がいたのなら、全力でお願いしたい。
「よいしょ。」
そしてよりにもよって、私は夕飯の食材なんかを買ってきた。一人暮らし歴1年だからそこまで料理が上手なわけではないけど、人並みには出来る。
その腕でも見せびらかしたかったんだろうか。アホだ。
彼がご飯を食べて帰るのか何時に帰るのか、なんなら何度も言うが名前も知らないのに、私は一生懸命オムライスを作った。
「お腹、すいた。」
塾講師のバイト終わり。彼の家でオムライスを作り終わった頃には、時計は23時半を回っていた。それでも彼が帰ってくる気配なんて微塵も見えなくて、私は途方に暮れた。
ほとんど使ってないお皿みたいなものも勝手に使っちゃったし、火も勝手に使っちゃった。
その上ここで1人でご飯を食べていたら、ただの丁寧な泥棒じゃないか。
「待とう。」
お腹が減ってお腹と背中がくっつきそうだったけど、私は健気に机の前にちょこんと座って彼を待つことにした。
よく知らない家でよく知らない人をただ待つだけの時間は、永遠にすら感じられた。
「…ん。」
どうやら私は知らないうちに、机に伏せて寝ていたらしい。次私が目を覚ましたのは、誰かが鍵を開ける音だった。
「あれ?」
机の前で目を擦っている私を見て、彼はにっこり笑った。そして私の目の前でしゃがんで、手を頭の上に置いた。
「待ってたの?」
彼の背中には、あの日のギターが抱えられていた。何故か私の心を掴んで離さない、あのギターが。
「うん。」
ほんのりタバコの匂いのする彼からは、彼のにおいではない匂いがした。なんとなくだけど、多分バンドの練習か何かから帰ってきたんだろうなって思った。
寝ぼけた私がそんなことを考えていると、彼は頭の上に置いた手で、私の髪の毛をくしゃくしゃに撫でた。
「いい子。」
まるで犬になったみたいな気持ちだった。でも悪い気はしなかった。多分気持ちの悪い顔でにやけて「へへへ」と言うと、彼も嬉しそうに笑った。
「これ…。」
すると彼はラップをかけたオムライスをやっと見つけて指さした。私は小さく「うん」とだけ言って、待てをされている犬みたいに彼を見つめた。
「食べよっか。」
彼はそう言って、背中のギターを壁に立てかけた。そして立ち上がって冷蔵庫に向かったと思ったら、ケチャップを手に戻ってきた。
「書いたげる。」
そして私のオムライスに、おもむろに字を書き始めた。ギターを弾くくせにすごく不器用な字で、“りお♡”と書いてくれた。
ダサい。ダサすぎる。
でもまだ19歳の私は、書いてくれた不格好な“♡”にすらキュンとした。
「りおも書いてよ。」
彼はそう言って、私にケチャップを手渡した。私も彼のオムライスを自分の方に引き寄せて、名前を書こうとした。
「あ…。」
そこで動きを止めた私を、彼は不思議そうな顔で見つめた。私は遠慮がちに彼を見つめて、「あの…」と言った。
「名前…。」
「あっ。」
そうだったって顔をして、彼は笑った。
私も同じように笑っていると、彼は「バカだな」と言ってまた私の髪の毛をぐちゃぐちゃにした。
「名前も知らない人の家に、来ちゃダメだよ。」
お前が言うなと言うセリフを、彼は堂々と吐いた。そして今度は右手でわたしの顎をくいっと持ち上げて、にっこり笑った。
「凛(リン)。」
彼はそれだけ言って、唇を重ねた。オムライスを食べるのが、朝になってしまった。
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