捜査編(Cパート)
夕方になるまで横になっていたが、うまく眠れなかった。仕方がなく、軽く食事を済ませて、ユウジはマンション地下──住人個別にスペースのあるガレージに降りた。そこには、ほとんど廃車になった状態の愛車──ポルシェの姿があった。スタントの結果、ボディはガリガリにひん曲がり、バッテリーは破損、オイルパンからオイルダダ漏れ、エンジン庫内にオイルが流れ出しひどい状態だ。
ユウジは時折、大学時代──自動車部にいた頃を思い出して、スパナやレンチの金属の触感や、オイルの臭いが懐かしくなる。ボロボロになったポルシェはいい機会だった。修理をするところを少しずつ動画に撮るのが、今のユウジの精神統一だ。
「ウエゲさあん。……ごめんなさいねえ、お忙しかったかしら」
エンジン庫内からバッテリーを交換して戻したところだった。ため息をついたのが見えないように、ユウジは頭を上げた。
「三条さん、どうしてこちらが?」
「溝口さんから伺ったの。あなたこないだのスタントで壊しちゃったポルシェを少しずつ直してるって。……それにしてもボロボロなのねえ?」
つばめの後ろには、さくらの姿もあった。物珍しいのか、中を覗き込もうと背伸びをしている。
「これはもう、走れないのではないでしょうか!」
「そんなことはないですよ。どんなにダメになっても、直せばなんとかなる。元通りにはならないかもしれませんけどね」
自分に言い聞かせるように──そしてもはや元には戻らないレンに思いを馳せながら、ユウジは静かに言った。さくらは妙に感心した様子でユウジにそろそろと近づくと、手帳とペンを差し出した。
「サイン頂けますか!」
突然サインを求められるのは初めてではなかったが、複雑な気分ではあった。しかし、ウエゲはファンを大切にする男だ。彼は笑顔でそれを受け取った。
「もちろん。お名前は?」
「菊池さくらと申します!」
「きくち……さくらさん……はい、どうぞ」
返してもらった手帳の一ページにサインが刻まれているのを確認すると、さくらは満足げに頭を下げた。
「感激です! ありがとうございました!」
「良かったわねえ、さくらちゃん」
つばめは嬉しそうにしているさくらにそれだけ声をかけると、ポルシェの前にある作業台を見る──ジャンクになったパーツや、バッテリー補充液の空容器、交換用のパーツらしきものが並んでいた。
「すごいわねえ……わたし、メカは全然駄目なのよ。スマホはなんとか大丈夫なんだけど、ネジとか回路とかは全く……」
「僕、大学の工学部卒なんですよ。HOMETUBEだって始めたばかりの頃は発明とか修理動画をアップしてて。今のスタイルに変えたのはわりと最近なんです」
つばめが振り返り、ユウジと目が合う。違和感を覚えたのか、彼は首をひねった。
「あらあ……? 眼鏡、してらっしゃるの?」
「ああ、普段はコンタクトなもので。……ところで、なんの用事です? 捜査は確かもう──」
ユウジは黒縁の眼鏡を押し上げながら言った。三条は言いにくそうに、手を擦り合わせながら言葉を選んだ。
「ええと……大変言いにくいのだけれど、実は──天田さんのことで」
「レンの? 何か新しいことでも分かったんですか」
「検視報告が上がってきましてね。それによると、どうも天田さんは自殺ではなく他殺のようなのよ」
握っていたレンチを、音が鳴らないように手から離すのに苦労した。動揺が大きすぎては怪しまれる。ユウジは眼鏡を取り、シャツの裾で乱暴にレンズを拭った。
「……殺人ってことですか」
「ショックの上塗りになってしまってごめんなさいねえ。取り急ぎ報道発表はまだ何もしていないけど、マスコミもバカじゃないわ。天田さんのことで、明日にはあなたのところに殺到するかも」
「勘弁してくれよ……」
それは偽らざるユウジの本音でもあった。レンがいない以上、ユウジ自身が何かしらの報告はしなくてはなるまい。彼は裏方の人間であったが、ウエゲの重要なスタッフの一人だった。無視はできぬ。
「警察としても、まだなんとも言えない情報だから……ウエゲさんには是非、情報発信を控えて頂きたいの」
「動画の投稿をやめろということですか?」
「しばらくの間はそれが賢明ねえ。……それで、もうひとつお願いがあるの」
HOMEチューバーとして納得はいかなかったが、ユウジも炎上──即ち、視聴者やファンの批判的論調を引き出すのは避けたかった。同情されこそすれ、攻撃材料を与えるような真似はしたくないし──なによりつばめの言うことに反発するのは、怪しいのは自分であると宣言するようなものだったからだ。
「僕にできることであれば」
「実は、昨日の生配信を見て、どうも気になっちゃって……血糊を撒いていたでしょう? 壁とじゅうたんに」
「ええ」
「あれって偽物よね?」
「当然です」
「じゃあ、見せてもらうことってできないかしら」
「……それは僕を疑ってるんですか」
つばめは困ったような笑顔で手を振って、それを否定した。
「まさかあ。形式的なものよ。あなたのアリバイは生配信で証明されてるでしょう? 逆に言えばあなたのファンが沢山見ている中で、あんなことをしていたら、他ならぬあなたに余計な疑いがかかると思うの。警察としても、そういうのは避けたいし──反証となるものを確保しておけば、あなたも堂々と大手を振れるってものよ」
ユウジは少しばかり悩んだふりをして、仕方なしに首を縦に振った。
これは俺がそうしろといったわけではない。他ならぬ三条がそうしたほうがいいと言ったのだ。それに意味がある。
「わかりました。鑑識でもなんでも呼んでください」
「いいええ。そういうわけにもいかないの。もしもあなたが犯人で
キットの入った箱を掲げながら、さくらは自信満々にうなずいた。
「はい! お任せください! こう見えてもわたし、初任科で教官に筋がよいと褒められたこともあります!」
さあ、ここからが最大の勝負だ。ユウジはごくりと唾を飲み込んだ。すでに仕掛けは済んでいる。おそらくこの刑事は、自分の部屋が犯行現場なのではないかと疑っている。だからわざわざ部屋を調べたいと申し出ているのだ。
しかし、それは無駄に終わるはずだ。ユウジは願いを込めるようにそう口の中でつぶやくと、二人の刑事を自宅へと案内した。
ルミノール反応は、ルミノール溶液と過酸化ナトリウムを蒸留水に溶かし、混合薬液を怪しい箇所に噴霧することで、血液の中にある鉄分に反応し青い光を発する現象のことである。
現在においては、もう少し高度で正確な検査様式もあるのだが、さくらにはこの方式しか扱えないらしかった。そもそも被疑者とはいえ、この程度の検査でも実施するためには捜索差押許可状が必要だ。
ユウジにとって、いつか自分の部屋が調べられるのは想定の範囲内だった。それが早まっただけのことだ。そのほうが都合がよくもあった。
「はあ〜……沢山おもちゃがあるのねえ」
「それに、白いです! 家具もソファも──かっこいい部屋かと!」
さくらの素直な反応に、ユウジは少し笑顔をほころばせた。しかし他ならぬ彼女が、今からユウジの命運を握るのだ。
「これが血糊の──ふうん、たしかにリアルねえ」
血糊で描かれた何らかのキャラクター──さくらによれば有名なアニメキャラクターらしい──が、こちらに向かって笑顔を振りまいている。
「ホラー映画でも使うものですからね。専門の業者から取り寄せて、この間アクション動画を撮ったときに使ったんです」
「なるほど……さくらちゃん、この辺やってちょうだい。じゅうたんもね」
さくらがキットを広げ始めると、つばめはソファの周りに所狭しと置かれたおもちゃやぬいぐるみ──ウエゲとしてのグッズも含まれる──に興味を移し、じろじろと見比べていた。
「あら、これ懐かしいわねえ。ガンボーイでしょ。わたしが子供くらいの時にやってたアニメのロボットだわ」
ソファの隣──サイドテーブルに、HOMETUBEからの認定盾に混じって立っていたフィギュアに、つばめが手を伸ばそうとしたのを、ユウジは言葉で制した。
「あっ、三条さん! それは大事にしてるやつなんで、触らないでもらえますか」
「あら、ごめんなさいねえ。これ、子供のころ欲しかったのよ。スーパー合金製で、三万円くらいして──」
ガンボーイは他のフィギュアとは扱いが違うのか、ピカピカに磨き上げられているかのようだった。金属の持つ光沢が美しい。
「僕の宝物ですよ。ファンの方が、チャンネル登録者数百万人突破した記念に譲ってくれたんです。シリアルナンバーも入ってるレア物ですよ」
「それはそれは……羨ましいわねえ。わたし、誕生日でろくなものもらったことがなくて。十歳の時の誕生日プレゼントなんて、野草の辞典だったのよ。せめてもっと別の辞典が良かったわ」
ユウジはどうでも良い話を聞き流すように、茶でも淹れようとキッチンへと向かった。
「お茶でいいですか。コーヒーは切らしてて準備してないんです」
「おかまいなくう。……ところでウエゲさん。会社のほうはどうだったの?」
「銀行は大丈夫でした。なんとかなりそうですよ。あとは税務署かな……」
「税務署?」
「遺書にもあったでしょう。税金を三百万円ほど支払わなくちゃいけませんから。今度支払日が来るんです」
「ふうん……大変ねえ、会社の社長さんって」
お茶を運んで、リビングのテーブルに置く。さくらが頭を捻っていた。
「キャップ! よろしいでしょうか」
「はいはい、どうしたの?」
「反応が出ません。この血糊は血液ではないようですね!」
つばめは大きく目をみはった。当然だ。ユウジは顔に出さないように二人に背中を向けた。出るわけがないのだ。痕跡は残っていないのだから。
「じゅうたんはどう?」
「毛がボロボロなのが気になりますが、血の反応は出ないですね」
「そう」
つばめはさくらが吹きかけた薬液を観察しながら、唇を指でなぞる。答えはでない。出るはずがない──ユウジは半ばそれを祈るように、ゆっくりと口を開いた。
「結論は出ましたか? 三条さん」
「いや〜……まあそりゃそうよね。ちょっと考えすぎだったのかしら。ウエゲさん、ごめんなさいねえ。なんか気を揉ませちゃって。わたしの思い過ごしだったのかも」
「三条さんの言うとおり、これで俺は事件には関係ないって大手を振れますかね?」
「ん〜……まあそうね。今のところは」
つばめは苦笑いを浮かべて、さくらの肩を叩いた。彼女は目を丸くしていたが、なんとか伝わったのか、キットをしまい始めた。
「それじゃあ、ウエゲさん。また何かわかったらお知らせします」
「もうお帰りに? 良ければお茶、飲んでいってください」
「おかまいなくう。それじゃ、また何かわかったらお邪魔しますわ」
さくらが出て、つばめがヒールを履き終えて外に出る。ドアが閉まり──オートロックで鍵がかかる。
その直後のことだった。ドアをノックする者がいる。当たり前だが、三条だろう。
ユウジはいい加減うんざりしながら、カギを開けて再び扉を開けた。
「何ですか」
「ごめんなさいねえ。ここもしかしてオートロックなの?」
「セキュリティにも気を使ってましてね。それで、何ですか?」
「ごめんなさいねえ。さくらちゃんがルミノール反応キットの箱を置き忘れちゃったの。それだけ取ったら帰るから」
さくらが頭を下げ、大急ぎで中へ入っていく。忘れ物なら仕方がない。ユウジはため息まじりに彼女が出てくるのを待った。
「失礼しました! このキットを忘れると、始末書ものなのです!」
さくらが箱を持って出てくるまで、つばめは不気味に沈黙を保っていた。
あらぬ想像が鎌首をもたげた。この三条という刑事は、全て見通しているのではないのか。そんなはずはない。現に、俺の部屋のトリックにも気づいた様子はないのだから。
「じゃ、ウエゲさん。お邪魔しました。……また何かわかったら、報告させていただくわねえ」
そう言ったつばめの目がいつになく鋭かったのに、ユウジは戦慄した。何もわかっていないはずなのだ。何も恐れることはない。何も──。
うまく行っているはずなのに、ユウジはその場に釘付けになり──結局、二人の姿がエレベーターで見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
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