第52話 海斗の選択肢

 家庭科室を後にしても、俺はすぐに教室に戻れる気になれず、特別棟の屋上へ足を向けていた。

 朝から吹き付ける涼しい風で、俺の手元に開かれた婚姻届がぱたぱたと揺れている。


「……帰って来い……か」


 紗季姉の目は本気そのものだった。

 俺のことが好きで、ただ他の人に取られたくないから……ここまでの試行錯誤をしていたのだろう。

 だからといって、今まで行ってきた紗季姉の非道な行いを許すわけにはいかない。

 けれど、俺は怒るに怒れなくなってしまった。

 それは、少なくとも俺の心のどこかに、紗季姉に好かれていて嬉しいという気持ちがあるからなのだろう。

 

 紗季姉と田浦さん、どちらを選ぶのか。


 これは俺にとって、今後の人生の分岐点ともなりうる選択かもしれないのだ。

 結局、俺が田浦さんへ相談したところで、答えが出ることはない。


「それは、須賀君が決めるべきことだと思う」と言われて終わりだ。


 最初は紗季姉と戦う姿勢で挑んだにも関わらず、とんでもない返り討ちにあうとは思ってもみなかった。


「はぁ……ったくよ。俺はどうすればいいんだよ」


 そんな独り言を呟きながら、雲ひとつない秋空を眺めて、ふと昔のことを思いだす。

 あれは、田浦さんへ告白する一週間ほど前。

 SNSで拡散された写真を撮られた日のことだ。

 あの日、俺はいつものようにスーパーで買い出しを終えて、帰路へ着く途中だった。

 そんな時に偶然、研修帰りの紗季姉とたまたま遭遇したのだ。


「おっ、海斗。お疲れ様」

「お疲れ紗季姉。今研修帰り?」

「そうそう! やっぱり、慣れない所に行くと疲れるわね。肩がバッキバキよ」


 そんな愚痴をこぼしつつ、肩を揉みほぐしながら首を回す紗季姉。


「そうそう。今日はカレーにしようと思ってるんだけど、紗季姉も食べてく?」

「食べたい!っと言いたいところなんだけど、今日はこの後まだ課題が残ってるから遠慮しておくわ」

「そっか」

「その代わり……てい!」


 すると紗季姉は突然、何を血迷ったのか勢いよく俺の腕にしがみ付いてくる。


「うわっ……ちょ、何すんだよ!」


 俺は腕をいきなり掴まれて、激しく抵抗してその腕を振り払った。


「誰かに見られてたらどうすんだよ?」

「大丈夫だって、そんな簡単にうちの生徒と出会う確率なんて少ないわよ。それとも、私とそう言う風に見られたら何かまずい理由でもあるのかしら?」

「……べ、別にねぇけど?」

「なら、問題ないわよね?」

「いやいやいや、問題大ありだから!」


 そんな会話を交わしつつ、家路までの道のりを二人仲良く歩いて行ったことを覚えている。

 今思えば、あの時紗季姉は既に、俺が田浦さんに好意を寄せているという情報をリークしており、探りを入れていたのではないだろうか?

 だとしたら、あぁやってわざとらしくスキンシップを取ってきたのも、わざと京谷に写真を撮らせてSNSで拡散を図るための計画的犯行だったのではないか。

 となれば、紗季姉はいつごろから俺が田浦さんのことを気になっているのを知っていたのだろう?


「まっ……そんなことを考えても、今は答えなんて出ないんだけどさ」


 そう独り言を呟いて、踵を返す。

 時刻はそろそろ登校時刻間近となっており、校内は先ほどまでとは違い喧噪にあふれていた。

 俺はその日一日中、紗季姉と田浦さん、どちらを選ぶのかについて考えさせられる羽目になったのである。

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