第36話 やっぱりいい奴

 翌朝、俺はいつもより早く家を出た。

 すると、玄関前で隣の家から出てきた紗季姉とばったり出くわしてしまう。

 お互いに視線が合い、紗季姉が驚いた様子で尋ねてくる。


「あら海斗おはよう。今日は随分と早いじゃない、どうしたの?」

「おはよう紗季姉。珍しく目が覚めたから、たまには朝の新鮮な空気を吸いながら学校に行こうと思って」

「そう、いい心意気だわ」

「ってことで、また学校で」

「えぇ、また学校でね」


 お隣りさん同士の他愛のない話を終え、俺は電車で、紗季姉は車で学校へと向かう。

 もちろん、俺はたまたま朝早く起きたわけではない。

 ちゃんとした目的があったからだ。

 学校へ到着したのは朝の七時三十分。

 普段とは違う学校の静寂した雰囲気に違和感を覚えつつ教室へと向かう。

 教室のドアをスライドして教室内へと入ると、まだクラスには誰もおらず、室内は閑散としていた。

 俺は自席へと座り、鞄の中から教科書を取り出して、早速英語の基礎問題に取り組む。

 木下さんみたいに夢を持っているわけじゃないけど、そういう人たちと受験は戦わなくてはならない。

 そう考えたら、俺も今の内から出来ることをしておこうと考えたのだ。

 目標が無くても、日々の努力をコツコツ積み上げることで、最後にはむくわれると信じて……。

 俺が英語の文法問題を解き進めていると、突如教室の前の扉がガラガラっと開かれる。

 ちらりと前を見れば、教室前には紗季先生が立っていて、こちらの様子をうかがっていた。


「あら、勉強してるの?」

「うん、大学受験に向けてね」


 そう言って再び目線を机の演習問題へと戻す。

 すると、紗季先生の足音が次第にこちらへと近づいてくる。


「私で良ければ、分からない所教えてあげようか?」

「それは嬉しいけど、分からない所だけアドバイスしてくれればいいよ」

「えぇーっ。たまには私のことを頼ってよ。こう見えても私、教師なんだから」

「分かったよ。なら今度、どこか分からない部分があったら質問しに行くから、今はほっといてくれ。誰かに見られたらまた噂される」

 

 修学旅行の夜に投稿されて以降、俺と紗季姉に関する情報がリークされることはないものの、校内での個人的な接触は、警戒態勢を続けておいた方がいいだろう。


「ほら、他の生徒が来る前に、職員室に戻った戻った」

「はぁーい……」

 

 俺が手で払うと、紗季先生は唇を尖らせつつも、渋々と言った様子で踵を返して教室を出て行く。

 紗季先生が後ろ手でガラガラっと教室のドアを閉めた直後、後ろの扉が無造作に開かれる。

 俺がぴくりと肩を震わせながら振り返ると、教室内に入ってきたのは京谷だった。

 入れ違いで良かったぁ……!

 危うく紗季先生と二人きりでいるところを京谷に目撃されるところだった。

 ほっと安堵する俺の気持ちなど知る由もなく、京谷は物珍しそうな目で俺を見つめてくる。


「あれ、こんな朝早くに海斗が登校してるとか珍しいじゃん。何してんの?」

「勉強だよ。大学受験に向けてな」

「なーるほどね」

「お前は気楽でいいよな。スポーツ推薦で大学進学できるんだから」

「別に、俺だってまだ正式にオファーが来たわけじゃねぇよ」

「でも、お前の実力なら間違いなくスカウトが目を付けるだろ」

「まあな」

「うわっ、自慢かよ……」


 京谷の自信満々な表情に、俺は思わず嫌悪感をあらわにする。

 それに対して、京谷は嫌な顔一つせずに取り繕う。


「確かに海斗たちみたいに受験勉強はあんまりしなくていいけど、俺の場合プロを目指すなら、大学に入学してからが本番だからな。全国から集められたエリート集団と四年間競い合わなきゃならねぇ。一年間勉強頑張るより、そっちの方が大変だと思わないか?」

「まあ、それはそうだと思うけど……」

「それに、プロになれなかったら違う道に進まなきゃならねぇ。もしかしたら海斗たちみたいに普通の社会人として働くために就職活動をしなきゃならないことだってあるんだぜ」

「確かに……そう考えると、スポーツ推薦も大変なんだな」

「だろ? まっ、でも、俺からしちゃ勉強の方がつらそうだなとは思うけど。からだ動かせねぇし、覚えることもいっぱいだし」

「だよなぁ……」


 この先待ち受けている受験という大きな壁に、俺は思わずため息が漏れてしまう。


「でもまあ、海斗がその気なら、俺は静かにしてるから、勉強頑張ってくれ」

「おう、サンキュ」


 そう言って京谷は自席へと向かうと、それから海斗がHRホームルームギリギリまで勉強している間、声を掛けてくることなく集中させてくれた。

 本当に気を使えるいい奴だなぁ……。

 コイツが本当にあのSNSの写真を流した犯人なのか、俺は分からなくなってしまうのであった。

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