第4話 紗季姉こと大津紗季

 部活動を終えて家に帰宅する頃には、すっかり日は暮れて、夜空には星空が広がっていた。


「ただいまー」


 家の中に声を掛けても、当然返事は返ってこない。

 誰もいない静寂な空気感が家の空間を包み込んでいる。

 それもそのはず、俺の両親は仕事で海外を飛び回っているので、ほとんど家に帰ってこないのだ。

 まあそのせいで、例の盗撮写真がSNSで出回ってしまったわけだけど……。

 俺は制服から部屋着に着替えて、リビングで早速夕食の準備に取り掛かる。

 明日のお弁当のおかずも兼ねて、きんぴらごぼうと生姜焼きを手早く作っていく。


 ピンポーン。


 すると、丁度出来上がったタイミングで、家のインターフォンが鳴った。

 時刻を確認すれば、夜の八時を過ぎたところ。

 この時間にやってくる人物は、俺が知っている限り一人しかいない。


「はーい」


 インターフォンの受話器を取ってカメラを覗き込むと、玄関前のモニターに映っていたのは、薄いニットに紺のジャケットを着こなした、つやのある茶色の長髪をなびかせた一人の女性。


「海斗、あーけーて!」


 学校にいる時の落ち着き具合は何処いずこへ?

 まるで駄々をこねる子供のように叫ぶ紗季先生こと紗季姉さきねえ


「早く―!」

「分かってるっての!」


 これ以上大声で叫ばれたら近所迷惑になりかねないので、俺は受話器を戻して急いで玄関へと向かい、鍵の施錠を解除してあげる。

 刹那せつな、ドアノブが回されて玄関の扉が素早く開き、インターフォン越しに立っていた紗季姉が上がり込んでくる。


「たっだいまー海斗!」

「いや、ここ紗季姉の家じゃないから。『お邪魔します』でしょ……」

「何よ、いまさらそんな細かいこと気にして? 海斗の家は、もはや私の実家みたいなものじゃない」


 まあ、それはそうなんだけどね……。

 そのせいで色々と俺が被害をこうむっているから、少し気持ち的に心の距離を置きたかったのだ。


「はぁ……まあいいけどさ。もうすぐご飯できるから、上がって待ってて」

「おっじゃま―」


 そう言って、紗季姉は軽快にパンプスを玄関の土間どまてる。

 学校では隠しているのだが、実は俺と紗季姉は隣に住むご近所さん。

 物心ついた頃から、紗季姉は俺のお姉さん的存在としてよくお世話になっているのだ。

 今もこうして、両親が仕事で家にいないことを心配して、紗季姉は様子を見に来てくれる。

 つまり、俺と紗季姉のSNSで出回っている例の写真は、先週紗季姉と買い物帰りに一緒に帰宅する所を偶然撮られてしまったもの。

 別にやましいことなんて全くないし、紗季姉はただの近所の年上お姉さんという存在というだけ。

 だというのに、今や学校中で俺と紗季姉は付き合っているという、なんとまあ馬鹿げた噂のせいで、俺は失恋という大きな傷まで負ったわけだ。


 俺は先にキッチンへと戻り、夕食の準備を進めた。

 フライパンから大きめのお皿に生姜焼きときんぴらを盛り付けて、テーブルへと運ぶ。

 紗季姉は近くのソファに荷物を放り投げると、テーブルに並べられた夕食のラインナップを見て、ご満悦の笑みを浮かべる。


「うん、今日も美味しそうだ」


 料理の出来を確かめてから、紗季姉はそのままずかずかとキッチンへと侵入し、悪びれる様子もなく勝手に人の家の冷蔵庫を開け放つ。

 そして、当たり前のように事前に冷やしておいた缶ビールを中から一本取り出して、テーブルへと戻っていく。

 ちなみに、さっき冷蔵庫の中を確認したら、1ダースくらいの缶ビールが我が家の冷蔵庫を占拠していた。


「あのな……ビールくらい自分の家で飲んでくれ」

「何言ってるの! 夕飯のお酒があるからこそご飯が進むんじゃない!」


 豪語する紗季姉は、俺を軽く小ばかにしたような口調で言ってくる。

 俺はまだ高校生だから、お酒のたしなみ方などは正直分からない。

 まあ、紗季姉なりの楽しみというのがあるのだろうけど、せめて人の家の冷蔵庫にお酒をストックしておくのだけはやめてほしいんですけどね。

 心の中で愚痴をこぼしつつ、苛立いらだつ気持ちをぐっと抑えて、俺はエプロンを脱いでから、紗季姉の座る席とは向かい側の椅子へと腰かける。


「それじゃ」

「いただきます」

「いただきます」


 二人同時に手を合わせて、いただきますの挨拶をする。

 大津家おおつけのご両親も共働きで夜が不規則なため、こうして時々紗季姉と一緒に夕食を共にするのが小さいころからの日課で、それが今でも続いている。

 どちらも一人で自立できる年になったものの、紗季姉が『海斗が高校を卒業するまでは面倒を見る』と言い出して聞かなかったため、今でも定期的に一緒に食卓を囲んでいるのだ。

 紗季姉は生姜焼きを口へ放り込み『んんっ!』っと舌鼓したつづみを打ちながら、喉へ流し込むようにしてビールを煽る。


「ぷはぁー……やっぱり海斗の料理はお酒のつまみに最高だわ」

「おじさんみたいなこと言ってるぞ」

「それくらいしないと教師なんてやってられないのよ」


 仕事の愚痴を零しつつ、今度はきんぴらを箸で掴んで口に運ぶ。

 やっぱり、教師って大変な仕事なんだろうか。

 俺は絶対に、紗季姉みたいには働けないな。

 そんな教師のブラック事情を紗季姉にぐちぐちと聞かされながら、夕食は進んでいった。

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