2-5 正体

 明は落ちないように後ろに下がる。

 「なるほど。『死なない』とは聞いていたが、まさか直前で術が破られるとはな」

 女の冷たい声が聞こえた。

 振り向くと長身の女がいた。背格好は先ほどまで一緒に逃げていた女性と同じだ。だが、明は女性が別人に見えた。腕をくみ、見下ろしているさまは、化け物におびえていた女性の姿ではない。そこには一切の感情はなかった。

 「あなたは、一体……。さっき向こうに飛び移ったはずじゃ。どうして」

 「知る必要はない。これから死ぬ者には価値のない情報だ」

 「もしかしてあんた、アルカスの仲間なのか」

 「そうだ」

 女性ははっきりと大きな声で答えた。一瞬、女性の顔が歪んだように見えたが、すぐに能面のような表情に戻り、沈黙が続いた。

 冷たい風が明をなでる。屋上は静かだった。ひしゃげたはずの扉が、一切の傷がない状態であった。まるで蛇の化け物なんていなかったようだ。

 飛び移ろうとしていたビルがなくなり、蛇の化け物がいた痕跡もなくなっている。今までの出来事は幻だったのだろうか。もしかしたら、女性が幻をみせたのかもしれない。明はそう思った。

 しばらく、お互いの視線が交差するだけの時間が続く。

 「お前、死ぬ気はないのか?」

 先に口を開いたのは女性だった。

 「ないよ。誰が死ぬもんか」

 「聞いているぞ。お前の場合、完全な死ではないのだろう。死んだところで、幸せな来世が確約されている。なぜ拒む」

 「死ぬなんていやだよ。……俺はまだこの世界でやりたいことがある。だから絶対に死ねない」

 「そうか。……私も説得が成功するとは思っていないが、後悔するなよ」

 そう言うと、女性は明の体をつかんだ。次の瞬間には、明の体は勢いよく硬い金網にぶつかった。

 「落とそうとしたのだがな。狙いがそれた、いやそらされたか」

 ゆっくりと明に近づいた女性は、再び明を投げ飛ばした。

 フェンスに激突したところに金網が食い込み、前につんのめると今度は蹴り上げられ地面に転がった。それから抵抗する間もなく暴行が続いた。

 「やはり、殺すのは難しいか」

 明は起き上がることもできず地面に寝そべる。口からは血の味がし、体のあちこちが痛む。女性は明のそばで、佇んでいる。

 「どうだ、心変わりはしないか」

 「……しないね」

 明は吐き捨てるように言った。

 女性は、明の腕を背中にまわし、そのまま明を押さえこんだ。

 「痛みや恐怖は感じているか?」

 耳元で女が囁く。

 「これから私はお前に、夢を見せてやる。誰もお前に気にかけず、認識などしない。叫んだところで誰にも届かない。ただ孤独で生きる冷たい夢を見せてやる。堂前明。君とってそれが一番嫌だろう」

 うつぶせの状態から明は顔を回す。女と目が合う。そこには感情と呼べるものはなかった。ただ、彼女の眼の中に吸い込まれそうな闇が広がっているだった。

 明は血の気が引き、手に汗が噴き出す。思わず、ぎゅっと目をつぶる。

 いくつものあの冷たい視線を思い出す。自分は我慢できるだろうか。今も体中痛い。女の言う通り、死んだところで来世がある。だけど、死ぬのは嫌だ。なぜ自分がこんな目に合わななければならないのか。

 恐怖の次に湧きあがったのは哀しみ、そして怒りだ。自分ひとりを転生させるためになぜここまでするのか。なぜ明は死ななければならないのか。明の中に浮かんだのは憧れのブラックと、姫宮の顔だった。

 明は固く閉じたまぶたを開けて、女をにらみつける。

 「……あんた、友だちはいるの?」

 明は唇を震わせ、声を絞り出す。質問の意図を理解しかねているのか、女は答えない。

 「あんた、いなさそうだよね。俺もいないからなんとなくわかる。……俺は友だちをつくりたいんだ。」

 いつの間にか唇の震えは止まっている。

 「あんたたちの理不尽に、俺は屈しない」

 「いいたいことはそれだけか」

 明の人差し指が逆方向に曲げられる。

 「ぐっ……」

 明は叫びそうになるのをこらえ、唇を噛む。叫び声を聞かせたくないと思ったからだ。

 女は明の顔を固定して、無理やり顔を上げる。女と目が合い、目をそらそうとするも、女の深い闇にくぎ付けになる。

 「では、くだらない決意ごと死ね」

 明の頭上で風を切る音がした。

 女性の姿がふっと姿が消え、感じていた女の重みもなくなっていた。

 女性の姿は明から離れたところにおり、なぜだか上を見上げている。明を見ていないことに疑問を感じていると、明の側に、光り輝く白い剣が突き刺さっていることに気づいた。彼女はどうやら、あの剣から逃げるために、明の上から飛びのいたようだ。

 「よく言ったな。それでこそ、オレの友人ダチだぜ」

 声は頭上から降ってきた。そして、目の前に少女が勢いよく着地した。風が舞い、少女の髪がかきあげられる。

 「姫宮さん!」

 「よう」

 にやりと姫宮は笑う。

 「来てくれたんですね!」

 明の体の中から、暖かさがわいてくるのを感じた。

 「あいつ、俺を殺しに来たんです」

 「知ってる。なんとなく話は聞いていた」

 姫宮は明に見えるようにスマホを掲げる。画面には明と通話中であることが示されていた。明はズボンにいれっぱなしにしていたスマホを取り出す。真っ暗だったはずの画面はいつの間にか通話中の画面が表示されていた。蛇から逃げる際に、ポケットにいれていたが、通話は切れていなかったらしい。

 「途中から聞こえるようになってな。おかげでとわかったから、こうして力を使って跳んでこれたわけよ」

 姫宮は明の一歩前にでる。

 「よう、姉ちゃん。オレのダチによろしくしてくれたらしいじゃねぇか。お礼させてもらってもいいかな」

 姫宮はドスのきいた声を女性に向けて放つ。暗殺者は冷たい表情を崩さず、姫宮の様子をうかがっている。

 「このビルには誰も入れないはずだが。どうして入ってこれた? 侵入しようとしてもその意識ごと忘れるようになっていたはずだが」

 「確かに、面倒な結界だったぜ。俺が気づかずにビルから追い出されるほどだしな。だけど、異世界の力だとわかれば、認識阻害なんて関係ないね。壊すのが面倒だったんで、上から侵入させてもらったけどな」

 「そうか、お前が、『異世界殺しノイズスレイヤー』か?」

 「おいおい、なんだ、そのかっちょ悪い呼び名は。いやだなー、もっと可愛い名前で呼んでくれ」

 姫宮は心底嫌そうな顔をする。

 「そう、これからは、スーパー・プリティー・グレートアイドルの姫宮桃華と呼べ!」

 姫宮は決めポーズをとる。その笑顔はかわいらしく、誇らしげだった。女性の目が逸れ、明と目が合う。

 「あんた、名前は?」

 姫宮は体を元に戻し、手だけ前に出す。地面に刺さった剣がひとりでにゆっくりと持ち上がり、姫宮の手にその柄が収まった。

 「……レグルス。ここではそう名乗っている。」

 しぶしぶといった様子でレグルスは口を開く。

 「お前はなぜそいつの助けにきた? 関係ないはずだが」

 「関係ないとは、ご挨拶だな。俺は堂前のダチだ。ダチが殺されそうになっているのに黙ってみているられねーだろ」

 「そうか」

 そういうと、レグルスはくるりと明たちに背を向けた。

 「もう帰るのか」

 「異世界殺し。お前と正面からやりあうのは得策ではないからな。次会う時は、私の使命を果たさせてもらおう」

 女はそれから振り返ることなく、ふいに姿を消した。

 レグルスの姿が見えなくなって、明は急に足に力が入らなくなり、膝から崩れ落ちた。そのまま、大の字になる。体のあちこちが痛みを思い出した。曲げられた指に力を入れようとすると叫びそうになった。明は、姫宮を見上げる。夕日に照らされた顔は、きれいというよりかっこよく見えた。

 「助かったよ。ありがとう。姫宮さん」

 「さんづけは無しだ」

 姫宮は笑いながら、手を差し出す。

 「ありがとう。……姫宮」

 「おう」

 明も痛む腕をあげ、姫宮の手を力強く握った。

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