2-4 屋上の景色
明は膠着する体をなんとか動かし、攻撃を避けた。一瞬、明の体に鋭い牙が突き刺さったかのようにみえたが、痛みはなく、なんとかすんでのところでよけることができた。その証拠に、蛇の頭が明のすぐそばにある。
蛇はゆっくりと頭をあげて、明をにらみつける。明は後退し、エレベーターの鉄の扉に背中をつける。蛇は舌を出し入れし、その冷たい瞳が狙いを定める。明が動けばすぐにでもとびかかってくるだろう。明は視線をめぐらせた。蛇の背中側で、女性が不安げに明をみつめ、さらに向こうから、別の蛇たちがのぼってきている。明の右手側――階段の向かい側の壁に赤い消火器が見える。このままじっとしている訳にはいかない。視線を前に戻すと、もう幾ばくも時間がないことを理解した。明は腹を決め、力をこめて地面をけり、消火器に向かって走り出した。その動きに反応し、蛇は口を開けて明にとびかかる。背後で、金属になにかがぶつかる音がした。
明は、消火器を持ち上げて振り返る。蛇の牙は、エレベーターの扉に突き刺さり、ひっかかっているのか、頭を後ろに引っ張る動作を繰り返している。
「これでも、くらえ」
明は、蛇の頭めがけて消火器を投げつけた。鈍い音とともに投擲物は命中し、蛇はその衝撃に地面に体を落とした。気絶したのか、目を見開き、ピクリとも動かない。
蛇を退治したことを喜ぶ間もなく、別の大群がもうすぐそこまできていた。
「屋上へいきましょう」
気絶した蛇を迂回して、女性がさらに上へ続く階段をのぼる。
明は女性の言葉に従って、立ち入り禁止の紐を乗り越え、屋上へ駆け上がる。先行する女性が、外へと続くドアに手をかける。幸いなことに、鍵は開いていたようで、屋上に出ることができた。外の景色は、いつの間にか夕日がさしていた。
「ここから向いのビルにいけそうよ」
明が屋上のドアを閉めると、女性が明に向かって叫んだ。
屋上にはフェンスがなく、女性のいる方向には、隣のビルの屋上が見える。ビルとビルの間は三メートルの距離が空いている。なぜだか屋上の風景に明は違和感を覚えた。考える間もなく、女性がもう一度叫んだ。
「さあ、はやく」
女性は、隣のビルを指さしている。
「飛び移るってこと?」
「他に方法はないわ」
尻込みする明だったが、女性は力強く断言した。
「もうあの化け物たちがすぐそこまで来ているのよ」
閉めた屋上の扉に、硬いものが何度もあたる音がした。
もう一度、向こうの屋上を見る。そこまで離れていないため、助走をつけて跳べば向こう側にとどくだろう。だが、もし万が一、距離が足りなかったら。明は屋上から下をみる。
下に見える小さな人だかりが、明の足をむずむずさせた。
「おーい」
動けなくなった明の耳に、待望の声が聞こえた。
「姫宮さん!」
顔をあげると、向いのビルの屋上に姫宮の姿があった。彼女の登場に、明の顔が明るくなる。
「どうしてそこに」
「そっちのビルは入れなくてな。それより急げ、もう時間はないぞ」
姫宮は真剣な表情をしている。
明は後方へ振り返ると、屋上のドアはすでにひしゃげていた。間もなく蛇たちが屋上におしよせてくるだろう。
「先に行くわ」
女性は、深呼吸を一度すると、助走をつけて駆け出した。屋上のへりで勢いよく跳び、あっという間に向かい側のビルに着地した。
「あなたもはやく!」
「はやくこい」
姫宮と女性が同時に声をあげる。運動が得意でない自分があの距離をとべるだろうか。ゆがんだドアの隙間からは、蛇たちが顔が見えた。明はごくりと唾をのみこむと、十分に後ろにさがり、走り出した。心臓の鼓動が明の耳に響く。後ろで何かはじける音がした。
屋上のへりに近づくにつれ明の鼓動は速くなり、体中に心臓の鼓動が響きわたる。
下を見るな。前だけ見ろ。明は足を止めないよう自分に言い聞かせた。そして、もうすぐへりにさしかかるときだった。
突然、目の前に金髪の少女が現れた。
明は、前へとだした右足を、斜めにして地面に落とす。ブレーキをかけてよけようと体重を左によせるが、うまくバランスが取れず、後ろに倒れ、頭をコンクリートにぶつけた。
「いってー」
明は自分の身に何がおきたのかわからなかった。少しの間、明は頭の痛みに目を閉じ、そのまま倒れていた。体をおこすと、目の前の光景に明は驚いた。
さっき現れたはずの少女はいなくなっていた。それだけじゃない。すぐそこにあったはずの向いのビルはいつのまにか姿を消していた。屋上の外周には、三メートルほどの高さフェンスが屋上を囲んでおり、明の目の前だけ、唐突にフェンスが途切れている。人が一人出ていくには十分な空間がそこにはあった。
立ち上がりフェンスの穴から覗くと、向いのビルと明のいるビルとの間には、深い深い谷が広がり、谷底には二車線の道路と広い歩道がみえる。向かいのビルまでは、三メートルどころかそれ以上の距離がある。到底、跳んで渡れる距離ではない。姫宮たちの姿は当然見えない。今この光景は現実なのか。さっきまで広がっていた景色はなんだったのか。明の背筋が寒くなった。
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