1-3

 校舎を出ると、ちょうど正門から右に曲がる廻廊院の姿が見えた。明が普段通学で利用している駅とは反対方向だ。

 明は、吹奏楽部の演奏や運動系の部活動のかけ声を背中に受けながら、下校中の生徒の集団をかわして走った。

 正門を出て右手に、廻廊院の姿が遠くに見えた。いつも使っている帰り道とは反対の方向へと駆け出す。

 不思議なことに、明と廻廊院の距離は縮まることなかった。近づいたと思えば、曲がり角を曲がると、手の届きそうだった廻廊院の姿が遠くに見えた。どんなに走っても、逃げ水のように、廻廊院はつかまらない。

 「ちょっと待ってよ。廻廊院」

 声をあげるが、廻廊院には明の声は聞こえていないのか止まる気配はない。

 明は、仕方なく廻廊院を追いかけ続ける。もともと体力のない明は、だんだんと疲れて息が切れていった。

 路地に入った廻廊院を追って、明も路地に入る。追いつこうと駆け出した足がもつれ、明は前につんのめる。アスファルトに強く打ち付けた手の痛みを感じていると、パリンと何かが割れる音が聞こえた。前をみると、目の前に、土と茶色い植木鉢の破片が広がっている。

 背中に寒気を感じた。もし転ばずに走っていたら、どうなっていたのか。立ち上がると、頭から土が落ちてきた。植木鉢が壊れた拍子についたのであろう。

 見上げると、古いアパートのベランダがあり、干された洗濯物や無機質な室外機が点在している。その中に、プランターや植木鉢が手すりの上に固定されず置かれているベランダが見えた。おそらくあそこから落ちてきたのだろう。

 明は、割れた植木鉢から先に足を進めることが不吉な気がして、来た道を引き返すことにした。廻廊院の話は、ゴールデンウィーク明けに聞き出すことにした。

 明は、いったん高校の正門がある通りまで戻ってから駅に向かうことにした。廻廊院を追いかけてきた今いる場所から駅までの帰り道を明は知らなかった。連絡用として持ってきているスマホは、電池残量は少なく、地図アプリを起動することもままならない。明は、自分の記憶力に自信があったので、自分が来た道を戻ることは問題ないと判断した。

 住宅街をゆっくりと歩いている時だった。後ろから、車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。嫌な予感がして振り返ると、車がうなりをあげて、勢いよく迫って来ていた。明は、自分がトラックにはねられる場面が脳裏に浮かぶ。逃げなければと思うが、足がすくんで動かない。このままでは、死んでしまう。

 明は喝を入れるために、脚を拳で叩く。まだ、自分は青春をしていない。姫宮さんとも仲良くなっていない。こんなとこでは、死ねない。

 向かってくる車とは反対の方へ走り出し、少し先にあった駐車場に飛び込んだ。

 車は、駐車場を通り過ぎていった。

 「いやぁ、危ないところでしたね」

 明は、目を丸くした。黄色いぬいぐるみが明の目の前に浮いているのだ。

 「おやおやぁ。どうしたんですか? まるで、幽霊でも見たように、顔が真っ白。体調でも悪いのですか? いけませんいけません。いいお医者さんを紹介しますよ。ヤブ医者ですけど」

 アルカスはケタケタと笑う。人を馬鹿にしたような喋り方も、笑い方も昨日みたまんまだ。明は、自分の頬をつねった。

 「おや、夢だと思っているんですか。やだなあ、現実ですよ。こんなに可愛い僕がいる世界が夢なわけないじゃないですか」

 冗談だと思って二回目は思いきり強く引っ張るも、やっぱり痛かった。

 「もしかして、今の車は、お前らが」

 「せっかく会いに来たのに、ひどいなー。私たちは「あなたを殺さない」と契約したじゃないですか。お忘れですか。ただの偶然ですよ。偶然」

 昨日の出来事が本当なら、明は彼らと契約をかわして生き返った。明は次に死んだとき転生することを受け入れる。一方でアルカスたちは明を殺さないという契約をした。偶然にしては、危うい場面が立て続けに起こっている。

 「どうして、お前がここにいるんだ」

 「会いに来てはいけないという約束はしてないですよね。お迎えにきたんですよ。あなたが、今日、死ぬ運命にあるので。わざわざ来たんですよ」 

 「死ぬ運命ってどういうことだ! やっぱり約束を破ったのか」

 明は、アルカスから距離をとるように、後ろに下がる。先ほどの、暴走車も、思い返せば植木鉢だって偶然にしてはできすぎている。明確な殺意を感じたのだ。アルカスなら平気で契約を破ってもおかしくないと明は思った。

 「だから、違いますって。ほら、私ってばこの世界の神的な存在なので、人間の運命ってやつが簡単にわかっちゃうんですね。だからわかっちゃったんだなー。あなたが今日、事故で死んじゃうんだってことがね」

 「今までの、事故はお前らがやったことじゃないの?」

 「私じゃないです。それとも証拠でもおありで? 信じてください。運命があなたを殺そうとしているんです。私はできれば、あなたを救いたいんですよ」

 アルカスは、怪しく笑う。軽薄さの塊であるアルカスを明は信じきれなかった。

 目の前のぬいぐるみは、明の理解を超えた存在だ。自分は逃げ切ることができるだろうかと不安になった。人知を超えた不思議な力を使って、殺すことだってできるのだろう。

 弱気になっていることを自覚した明は、深呼吸をして『レッドライズ』のブラックを思い出した。彼なら、自分の不可能なことを諦めたりしない。どんなときも冷静に状況を分析し、危機を脱してきた。なら、俺だって。

 「俺は、絶対お前たちに殺されない」

 アルカスに向かってそう宣言して、明は、駐車場を出て走り出した。

 とにかく、家へ帰ろうと思ったのだ。超常的存在を相手にして、安全な場所なんかないだろう。だが、逆に言えばどこにいたって一緒だ。

 ブラックの言葉を声に出した。

 「俺が諦めるのは、自分に負けた時だ」

 目的が達成されずに死ぬものか。ブラックならば、どんな希望が見えない時でも、諦めずに立ち上がっていくのだ。

 明は、この状況を打破するための手段を思いつかなかったが、逃げながら考えるという決断を明はしたのだ。

 明は、周囲に警戒しながら、道を進む。

 「どうせ、無理ですよー」

 アルカスの声が 背後から聞こえた。

 無視して走った先の十字路で、右からトラックが明を跳ね飛ばさん勢いで迫ってきた。明は、咄嗟に後ろにとびのいた。

 「死の運命からは逃げられませんよー」

 明は、後ろを振り返らず、再び前へと進んだ。

 そのあとも、不幸は続いた。暴走する車に轢かれかけ、狂暴そうな野良犬に追いかけられた。空からは、ガラスの破片やレンガが時折降ってきた。

 どの場面も、どうにかすんでのところで、致命傷を避けることができた。

 ——死の運命からは逃げられませんよ

 アルカスの言葉が、じわじわと明の体をむしばむ。

 明は、あらゆる方向を警戒心ながら進んだ。一歩歩くごとに、神経が磨り減っていく。

 どれくらいたっただろうか。あたりが暗くなるころに、明はやっと学校の前まで戻ってこれた。

 明は、ちょうど正門の前から、校舎の外壁に備え付けられている時計を見る。時刻は18時10分を過ぎていた。

 妙な胸騒ぎを感じた。明の高校では、完全下校時刻は19時だ。だが、校舎からもグラウンドからも、人の姿が一切見えず、声も音も全く聞こえない。運動部のかけ声すら聞こえない。

 校舎は、不気味な静けさがただよっていた。

 「いやあ、これだけ不運な目にあっているのに、明さんってば、まだ生きているんですもの。私、驚天動地です」

 目の前に、唐突にアルカスが現れた。アルカスの甲高い声は、夜の闇によく響いた。

 明はアルカスに悪態をつく気力もなかった。

 アルカスがいう通り、明は自分でもよく幸運が続いているものだと不思議に思った。だが、それもいつまでもつか。明の体力はすでに限界に達している。足は疲れ切って棒のようで、もう歩けない。

 何か打開策を考えなければ、このままでは命を落とすことは明白だった。

 「ですが、どうやらあなたの幸運もここまでです」

 アルカスは怪しく笑った。その笑顔の意味を理解する間もなく、鼓膜が破れると思うほどの叫び声がした。両手で耳を塞ぎながら、音のした方を見る。

 明は自分の目を疑った。

 校舎の右側、明から見てグラウンドの奥の方に、忽然と巨大な物体が立っているのだ。巨大な物体が人型の生物であることはすぐに理解できた。

 巨人は、4階建ての校舎と同じくらいの高さだった。皮膚は月明りに照らされ青白く光っており、紅く輝く4つの眼光が、明の方に向けられている。

 怪物は、喉を鳴らすとゆっくりと明の方へと歩み始めた。怪物が地面を踏みしめるたびに、どすんどすんと地響きがなる。

 「あれは人食い巨人ビロコ! はたして少年は、あの獰猛で狂暴な巨人から逃げ切ることができるのか! 少年の運命はいかに」

 アルカスは楽しげに小躍りしている。

 まるでアニメや漫画の世界だな。明の口から乾いた笑いがこぼれていた。これが漫画の世界で、自分が主人公なら、容易に目の前のビロコと呼ばれた巨人を倒せるのだろう。そう、これが漫画なら。でも明は漫画の主人公でもないし、ただの非力な高校生だ。

 すぐに逃げるべきだと脳が警告を発する。だが、足を一歩も動かすことなんてできやしなかった。蛇ににらまれたカエルのように体が固まってしまった。

 怪物はゆっくりと明に近づいてくる。

 怪物の足音とは別に、大きな物が落ちる音がした。校舎の正面玄関のそばに女子生徒が立っていた。暗くて顔まではわからなかったが、未知の怪物を見上げて呆然としているようだった。その傍らに女子生徒のものであろうリュックが落ちていた。ぼんやりとだが、リュックに、大きな3つのぬいぐるみストラップが見えた。明の心臓が跳ね上がる。明はそのリュックの持ち主に覚えがあった。

 「あれれ、なんで人間がいるの」

 アルカスが驚いたような声を上げる。

 怪物も、女子生徒の姿に気がつくと、彼女へ向かって歩き出す。女子生徒に逃げる様子はなく、じっと固まったままだ。数十秒後には、彼女が……。最悪の未来が頭をよぎる。

 振動が、明を揺らす。明は、唾をのみこんだ。怪物が、自分から視線をそらしたのだ。今なら、逃げられるかもしれない。心の中の臆病な自分が叫んでいる。泣きながら自分をいさめている。

 でも、と明は思い、顔を上げる。

 怪物は、少女を今にも手を伸ばして捕まえられる距離だ。

 自分の中の正義の憧れが、心の片隅から、叫んでいる。

 憧れのブラックは、これから危険な目に合う人を見捨てて自ら助かろうなんてしない。

 明は、気づけば駆け出していた。心臓の鼓動が、ただ彼を突き動かした。走らなくちゃいけない。彼女を守りたい一心だった。近づくにつれて、女子生徒の姿がはっきりしてきた。

 「危ない! 姫宮さん!」

 明は、姫宮に向かって叫ぶ。

 「逃げて!」

 明は、姫宮の前に両手を広げ、のどの奥底から声を絞り出す。すでに怪物は、明のすぐ目の前だ。怪物の顔が月明りに照らされてはっきりと見えた。醜悪な顔、獰猛な牙が口元からのぞき、獲物を前にして、よだれが滴り落ちている。

 「堂前……」

 後ろで、姫宮が驚く声が聞こえた。明が突然現れたことに驚いたようだ。

 「早く、逃げて!」

 明は、もう一度声を上げる。それが明の精一杯の行動だった。

 明は眼前の敵から目を離すことはできなかった。自分はすぐ怪物に食べられてしまうだろう。だが、自分を殺しにでてきたであろう怪物に彼女が食べられるのは、避けたかった。

 足が震えて、膝から崩れ落ちそうになる。だけど、だめだ。まだ、立ってくれ。明は、歯を食いしばって、自分の臆病な心を必死に鼓舞する。

 「――」

 怪物は、邪魔が入ったことに怒るかのように、咆哮する。眼光が、明をとらえ、邪魔者の彼めがけて腕を高くをふり上げる。

 明は、自分の運命を悟り、目をつぶる。後ろで、硬いコンクリートを蹴る音がした。姫宮を逃がせたのだろうと知り、安堵した。死ぬことを嫌がっていた明の心は、不思議なことに穏やかだった。

 目を閉じてから、どれくらいたっただろうか。一秒かもしれないし数時間も経ったかのような気分だった。いまだ自分が意識を保っていることを怪しく思い、ゆっくりと目を開ける。

 怒りの形相でこちらを見下ろす怪物の姿が見える。だが、奇妙なことに、怪物は全く動かない。目をつぶる前の、腕を振り上げた姿のまま、まるで時が止まったようだった。

 奇妙なことが起きた。怪物の体が縦二つに割れ、音を立てて倒れた。怪物の巨体に隠されていた月の光が、あたりを照らす。

 明の目の前に女子生徒が立っていた。逃げたと思った姫宮の後ろ姿がそこにあった。

 彼女は振り返り、明の顔をみる。姫宮は、白く光り輝く剣を肩に担ぎ、普段の学校で見たことのない、勇ましい笑顔をしていた。

 普段の可愛らしい姫宮とは違ったようすに驚いた明だったが、彼女が発した言葉にさらに驚いた。

 「よう、堂前少年。さっきのはかっこよかったぜ。おじさん、惚れちゃいそうだったぜ」

 明の頭は処理の限界を超え、膝から崩れ落ちた。

 足の震えはいつの間にか止まっていた。

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