第5話 お別れと後輩

そのあと、矢賀さんとは何事もなく食事を終えた。彼女が発した一瞬の繊細さはすぐに雲散霧消し、そのあとはいつもの元気な彼女だった。

私にもう少しコミュニケーション能力が、あるいはもう少し踏み込む勇気があれば何かしてあげられたのかもしれない。

そんな後悔というほどには具体化していない曖昧な感情が、残雪のように心に残ってしまった。

別れ際、お店の前にて、

「そういえば、せんぱい。チャットアプリのIDを交換しましょう! 会社のアドレスとかではなく私的なやつで!」

矢賀さんからそんな提案を受ける。

一瞬だけ躊躇したものの、心に残った「もやもや」が私の背中を押す。

「いいですが……私、そのアプリを使っていないんですよね」

「それって断るときの常套句じゃないですかっ!」

両手をぶんぶんと振り回しながら、矢賀さんは私に強く抗議してくる。

確かに、そのようにとらえられても仕方ないのだが……

「いや、本当に」

私はそう言いながら彼女にスマートフォンの画面を見せる。

「えーっと……うわあ、これデフォルトのアプリしか入っていないじゃないですか……枯れてる枯れてるって半分ジョークのつもりだったんですけど、まじじゃないですか」

見ようによっては「ドン引き」と表現するしかない表情で、矢賀さんはこちらを見てくる。

「あまりスマートフォンを利用しないもので。三十路の男なんてそんなもんですよ」

「いや、誠司さんみたいな人は三十路にもなかなかいないっすよ。四十路、いや、もう定年退職をしているくらいの……これ以上はやめます、すいません」

こんなに殊勝に謝られるのは初めてかもしれないが、別に嬉しくもなんともない。

「アプリの入れ方、わかります?」

彼女の表情からしてからかっているとかそういうわけではなく、本気で心配しているように見えてさすがにちょっと悲しくなる。

「流石に大丈夫ですよ……」

といったが、若干まごついていたのを見かねてインストールからIDの交換まで全て矢賀さんがやってくれた。

……うん、年末年始にはシノさんに色々と教えて貰おう。

「はい、これでOKです。暇なときに連絡するっすね! そんじゃ、よいお年を!!」

矢賀さんは私にスマホを返すと元気よく頭を下げてから、大きく手を振りながら行ってしまった。

「良いお年をー」

その背中に届いたかはわからないがそう返してから……私は手に持ったままのスマートフォンの電話帳から目的の番号を探す。

が、探し当てたその番号にかける瞬間、狙いすましたかのように相手から電話がかかってくる。

その人はもちろん――

「もしもし」

「お疲れ様、誠司さん」

その人の声はスマートフォンからではなく、自分のすぐ後ろから聞こえてきて飛び上がらんばかりに驚いてしまう。

「……そ、想定よりも驚かせちゃった、かも」

「し、シノさん。なんで後ろにいるの?」

私―いや、俺が通話しようとしていたシノさんは、申し訳無さそうな顔で立っていた。濃いグレーのトレンチコートにタータンチェックのマフラー。やぼったくないスクエアフレームの眼鏡をかけた彼女は、どこか所在なさげだった。

「いやあ……その、話を聞いていたら、私もハンバーガーを食べてみたくなって、みたいな?」

レンズの無効の大きな瞳は明らかに泳いでいて……

「本当のところは?」

意地悪をするつもりは全然ないのだけど、ついそんなことを聞いてしまう。

「……誠司さんの仕事姿が見たくて、と、後輩さんが気になってしまいました」

彼女は恥ずかしそうに両手のひらで顔を隠してしまう。そんな仕草は大変かわいらしいのだけど、もしかしたら少し嫉妬させてしまったのかもしれない。

「あー……そうでしたか」

なんて返すべきかわからず、曖昧に納得したかのような返事をしてみる。

そう。昨日の時点で、このランチが終了したらデートをするという約束をしていたのだ。だから、終了したら合流するために電話するという流れになっていったのだけど。

「お、怒って、ますか?」

最近、俺の前ではあまり出さなくなっていたコミュニケーション下手なシノさんが少しだけ顔を出しているようなその反応に、つい笑ってしまう。

「ちょっと驚いただけ。全然怒ってないよ」

「よ、よかったあ」

彼女はほっとしたのか、顔から手のひらを離してようやく笑顔を見せてくれた。

「ま、道すがら感想は聞かせてもらうとして……行こうか」

左手を彼女に対して差し出すと、シノさんはとても素敵な太陽の笑みを浮かべながら、俺の手をそっと握ってくれた。


このときの俺は全く知らなかった。

これが矢賀エル失踪前の最後の姿であることを。


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