第3話 日常と後輩
12月27日午前7時。5分ほど前に自動でカーテンが開き、冬の寒空の日光が柔らかく差し込んでくる。このIOT?がどうとかという装置のお陰で、今までより抜群に気持ちよく起きられるようになった。
もちろん、隣で布団にくるまっている彼女のお陰なのだが……。
「先に起きるよ」
件の彼女は、その恩恵を受けられている様子は全然ない。こうして一緒に寝起きするようになって数週間経ったのだが、とにもかくにも寝起きだけは全然駄目な様子である。
「……」
俺の言葉に返事はなく、シノさんは横になったままやんわりと手を振って送ってくれる。ベッドから起き上がるにはまだ少し時間がかかるだろう。
俺はそのまま仕事着――オフホワイトのオックスフォードシャツにベージュのイージーチノパンツ――に着替えて、その上から黒のクルーネックセーターを身に着ける。
すっかり整いつつある習慣に従い、軽く洗面台で身だしなみを整えてからキッチンに向かう。
今日のご飯は――
「トースト、目玉焼き……は面倒だから」
冷蔵庫の中身を軽く整理しつつ、朝食を吟味する。
「そういえばこんなの買っていたなあ」
と、ここで重厚な瓶入りのブルーベリージャムを発見した。先日二人で外出した際に「これ! これ食べたい!」なんて勢いに押されて購入したちょっとしたお値段のジャムだ。もちろんジャムにしては、という程度だけど俺一人なら絶対に買ったりしないものだ。
こんなところで彼女の息遣いを感じて、少し顔がほころんでしまう。
今日の朝食に頂こう。
そして、しっかり焦げ目のついたトースト、濃いめのコーヒーとカフェオレ、そしてジャム。リビングテーブルにそろえて並べて……といったところで、彼女がリビングに現れる。洗面所の冷たい水で顔を洗った様子で、少なくともソファーに座った途端に夢の世界に旅立つようなことはないだろう。
「おはよう」
「おひゃようございましゅー……」
テレビを点けるのは彼女の役目だ。ソファーにぽすんと腰を下ろして、のろのろとニュースを流してくれる。今日もどこかで事件があったり、猫が生まれたり……大変恙無い素晴らしき平日。
「いつもありがとうございます……」
シノさんは深々と頭を下げるが、この「いつも」もまだ数日しか経過していない。
「役割分担役割分担」
「……お風呂掃除は任せてー」
彼女の発案により、床はロボット掃除機、洗濯機はドラム式なので、主要な家事はせいぜいお風呂掃除と料理くらいだ。ちなみに、彼女自身も料理はできるのだが、なんとも男らしい料理が多く、恥ずかしがってあまり作ってくれない。というわけで、基本的には俺が食事当番というわけだ。
『いただきます』
二人でソファーに並んで、手を合わせる。彼女がカフェオレで身体を温めている間に、俺が新品のジャムを明けて、ほどほどの量をトーストに乗せる。
「……美味しいな」
トースト3分の2、ジャム3分の1くらいの割合で口に入れると、甘さ控えめだが濃厚な果実の香りと食感がトーストの小麦の香りを引き立てて、口中から脳髄まで幸福を伝達してくれる。流石、一瓶2000円もしただけはある。
「美味しいねえ」
彼女もそういいながらトーストをかじっているのだが、中央に乗せられたジャムにはまだ届いておらずその口中はオンリー小麦だろう。どう見てもまだ寝ぼけているに違いなかった。
朝のこの時間はだいたいこんな感じで、お互いにほとんど会話はない。テレビの中のキャスターのほうが随分と雄弁だ。しかし、始まったばかりのこの時間は何にも変え難く、すでにとても愛おしく思っている自分がいるのも間違いない。
「それじゃあ、今日も一日頑張ろう!」
「おー」
朝食を食べ終わったあたりでようやくシノさんのエンジンがかかり始める。彼女は元気にそう宣言すると、隣の自室に行ってしまう。いや、出勤というのが正しいのかもしれない。
「さて……私も出勤しようかな」
もちろん隣の書斎に移動するだけである。
そして、仕事中は恐ろしく語るべきことがない。雑務を処理して、ほんの少しだけ会議をしたりしなかったりして、あっという間に終業時間になる。今日のランチはシノさんと別々に食べた。彼女の仕事も大詰めで、菓子パンをかじりながら作業を進めているようだ(と、壁の穴越しに聞いた)。
「終わったよー!」
18時半になって、仕事も終えて夕食を作っているところでシノさんが満面の笑みとともにリビングに入ってくる。さっぱりした部屋着――ではなく、黒のスキニーパンツにゆるっとしたハイゲージのモックネックセーターである。もしかしたらわざわざ着替えてくれたのかもしれない、なんて考えると少しうれしいようなこそばゆいような気持ちになる。
「お疲れ様。今日の作業はどうだった?」
「かんぺき! ばっちり締切前々日提出ですっ。ナコを驚かせてやりましたよ!」
シノさんはよっぽど嬉しかったのか、大きな身振り手振りで報告してくれる。彼女からの報告で佐須杜さんが目を丸くしている顔がなんとなく浮かんできた。
「さて、きょうのおゆはんはなあにかな?」
彼女はそういいながら鍋の蓋をとる。中身が何なのか、すでに匂いで察しているだろうけどね。
「お、カレーだあ」
「ルウで作る簡単なやつだけど、こういうのもたまにはいいよね」
「箱に書いてあるレシピ通りに作るとおいしいよねえ」
「そのとおり」
「お皿とか準備するねー」
シノさんは実に手慣れた様子でカレー用のお皿を並べて、食卓にお茶やスプーンの準備をしてくれる。
ほどなくしてカレーが出来上がり、リビングテーブルにつく。ソファーのすぐ下でクッションをお尻に並んで座るのも、すっかり当たり前になっている。
「「いただきます」」
そして、カレーを一口。珍しく付け合わせにらっきょうなんて置いているが、久々に食べると中々良いものだ。
シノさんはあまり辛いものが食べられないので、中辛にさらに若干牛乳を足してマイルドにしている。
「うん、今日も美味しい!」
「それならよかった。そういえば、明日は昼に後輩とランチに行くんだ」
明日は恒例の会社ランチ。唯一の後輩である矢賀さんとハンバーガーを食べに行く予定だった。
「あ、そうなんだ……」
俺の言葉に明らかに意気消沈してしまうシノさん。
「……い、一緒に行く?」
絶対矢賀さんになにか言われてしまうのが分かっていながら、ついそんなことを言ってしまう。
「……い、いやお仕事の邪魔をしちゃうのは……」
しかし、真面目なシノさんはやんわりと断る。が、察するに、仕事も終わったところで俺と出かけたかった、あるいは家で二人でゆっくりしたかったのだろう。
それに対して応えてあげたいのだが……あ。
「それだったったらさ――」
一つ、思いついたことを提案してみると……シノさんは大変いい笑顔で答えてくれた。
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