いのなか / もくふー
追手門学院大学文芸部
第1話
甘い匂いがする室内。彼女は、生き物の重さを感じながら袋を持ち上げ、台所に置いた。そして、袋の中身を、まな板の上に取り出す。甘い匂いに慣れていた鼻が、泥臭い匂いを感じ取る。彼女は顔をしかめはしたものの、冷静にメスを握りしめ、それの腹に近づける。まずは、皮。できるだけ、綺麗に。
「入るよー。今日はね。なんと、ボンボンショコラちゃんでーす」
その時、インターホンもノックもせずに開けられた扉から、夏の生温い風を連れて一人の少女が飛び込んできた。
「なになにー。お料理なんて珍しいね。何作ってんの」
「まって。なに勝手に入ってきてんの。寧々、今日は駄目だって」
突然入ってきた寧々と呼ばれた少女は、手に持った皿を傾けずに器用に靴を脱ぎ、台所の前に立つ彼女に近づいていく。彼女は突然の来客に包丁を置き、寧々の前に両手を広げた。
「ストップ。ほんとにだめ」
「えーなんで。お料理、失敗したの」
「してない」
「じゃあ、いいじゃん」
台所に行かせまいと睨んだ彼女などおかまいなしに、寧々は背伸びをして台所を見た。そこには、家庭の台所には似つかわしくない生き物が置かれていた。
「うあおおおああ! なに、これ」
寧々は素っ頓狂な悲鳴をあげつつ質問し、羽衣は冷静に答えた。
「蛙。どっからどうみても蛙でしょ」
よく訪ねる友人の家の見慣れた台所に、見慣れない生き物が乗っている状況。それを寧々は理解できなかったようだ。羽衣は、混乱して矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる寧々を、台所の隣のリビングへと押し込んだ。
「私、これ捌くから、台所ではしゃがれると困るの。おとなしくしてて」
そう言って、家主である彼女、小代羽衣は、ガラス張りの扉をしめて再び台所へと戻る。しかし、寧々は質問をやめない。
「羽衣、それ本物?なんで?とってきた?食べるの?」
羽衣は、知らぬ存ぜぬといった態度を貫くが、寧々は諦めない。台所への扉を叩きながら、羽衣の名前を呼び続ける。これでは、集中して皮を剥ぐ作業をしようにも、手元が狂ってしまうだろう。羽衣は、仕方なく言葉を返した。
「わかったから。話すから静かにして」
そういって蛙を慣れない手つきで捌きながら、話し始めた。
それは、一週間前のこと。羽衣は、文化祭の実行委員会議に参加することになっていた。これは、クラスの出し物の他に、地域や環境のためになるような企画をするというもので、7、8人の生徒が、実行委員となり主催する。羽衣は環境問題に対して興味は無いが、何か楽しいことがあればいいな、という漠然とした動機で参加した。放課後集められた数人の生徒は、わいわいと会議をする準備を進めていく。
「黒板なんか書いとく?」
「机、班の形に動かすよー」
賑やかな教室の中で、羽衣は、さっそく行き場を失った。羽衣は、誰とでも喋ることはできるが、特定の誰かと一緒にいることがない。良い方に目立つこともなく、もちろん悪い目立ち方もしない。良くも悪くも普通の人というのが、羽衣の自己評価だ。
「今日はねー。ブッシュドノエル作るつもりなんだー」
その時、開けていた廊下側の窓から、聞き慣れた声がした。そちらに目をやると、寧々が数人の友人と共に、楽しそうに話しながら通りすぎていくところだった。
小学生の時は、いつも私の後ろを付いてきていただけだったのに、今じゃすっかり変わってしまった。羽衣は、そんな寧々と、変わらない自分とを心の中で比べながら、窓を閉めた。ああ、だめだ。このままじゃ、だめだ。羽衣は、何かにせき立てられるような思いを隠し、机を並べている生徒達に声をかけた。
「手伝うよ」
その言葉は案外するっと口からでて、生徒達も笑顔で礼を返した。そして、その生徒の中にいた学級委員長が、一緒に机を引きずりながら、羽衣に話を持ちかけた。
「小代さんってさ、寧々と仲いいよね」
羽衣は、先程から頭を占めていた寧々のことを話題に出され、驚く。しかし、委員長を見て納得する。委員長なんて言葉を聞くと、眼鏡でお下げの大人しい少女を想像しそうなところだが、彼女はそうではない。先生にギリギリ許してもらえる程の化粧に、綺麗に内巻きにされた髪。そんな彼女の隣に、寧々が並んでいるところは、容易に想像がついた。雰囲気が似ているのだ。委員長と同じクラスの羽衣よりも、寧々の方が親しいなんて、笑ってしまう。羽衣は、またしても寧々と比較してしまう思考を振り払い、笑ってしまうことなく、言葉を返した。
「あ、うん。団地で、隣同士の部屋だから」
「そうなんだ。寧々、めっちゃお菓子作り上手だよねー。去年バレンタインもらって、びっくりした」
「あー、うん。私の部屋にまで、甘い匂いしてるし、よく食べさせてもらってる」
「いいなあ。ほんっと寧々、すごいよねー」
すごいという褒め言葉が、自分に向けてではないことに、羽衣の胸はチクリと痛む。一人っ子なのに、姉と比べられる妹のようだ。いや、良くできた妹と比べられる姉の方が正しいかもしれない。羽衣は、寧々のおかげで、話のきっかけができたことに感謝をしようとするが、うまくできなかった。会議が始まっても、羽衣の頭の中では、寧々が笑顔で居座っていた。
「小代さん、生物部じゃなかった?」
突然、呼ばれた名字に、羽衣は驚いて顔をあげる。
どうやら、羽衣がぼんやりとしているうちに、会議が進んでいたらしい。黒板には、「外来生物の問題」というところに赤丸がされており、羽衣に話が回ってきた理由を察することができた。
「えっと、うん。生物部。部員3人くらいしかいないけど。外来種だったら、先生と一緒に、この辺の地域のやつ探したことある。えっと、ブラックバスとか、蛙とか」
「え。じゃあ、めっちゃ心強いじゃん」
「なんかそれつかまえて、展示的なのするの、あり」
「そんなん、捕まえられんの?」
会議が再開されたかとおもえば、一斉に数人の視線が集まり、羽衣は若干気圧されつつも答える。
「生きて持って返っちゃ駄目な生物とかもあるから、それは難しいかも」
羽衣の回答に、残念そうにする声が返ってきた。しかし、その次には、他の案を出した生徒が、羽衣に「どうかな?」と確認してくる。羽衣は、最初は戸惑いながらであったが、次第に、自然と笑顔がこぼれていた。なんだ、意外と大丈夫じゃん。羽衣は、ゆっくりだが、空気に馴染めたような気がした。
「それが、一ヶ月くらい前の話。結局、何するかまだ決まって無くて。面白い案があったら、みんなで提案しあおうかーみたいな感じ。それが、明日の放課後」
羽衣は、大人しくなった寧々に向かって、大まかに経緯を説明し終えた。もちろん、寧々に対するモヤモヤとした思いは一切無かったことにして。
「そんな理由で、あたしが作って持ってきたお菓子に目もくれずに、蛙さんに、ご執心なんですかー? そんなの、別に羽衣がやることないじゃん」
寧々は、自分と一緒に遊んでくれないことが不満なようだ。羽衣にもそれは伝わっているが、あいにく、頭と両手は蛙にご執心だ。せめて耳と口だけは寧々に構ってやろうと、会話だけは成立させる。
「誰かの役に立ちたいから」
それは、半分本当で、半分嘘のようなものだった。役に立ちたいというのは本当。しかし、少しでも役にたてたら、クラスの生徒との関係を、繋ぎ止めることができるのではないか、という考えもあった。会議で話した生徒とは、あれから少しずつ関係を深めていくことができていたのだ。
一人だった休み時間も、お昼休みも、誰かと一緒に過ごすようになった。一人のときは、同じ制服で同じ時間を過ごしていることに、息苦しさを覚えたが、今は、何倍も息がしやすい気がする。これなら、寧々のように、常に周りに人がいて、一緒に笑っているような毎日を過ごせると、羽衣は思った。
一方、寧々は、「はー」だか「うー」だか、うめき声をあげつつ、羽衣にぼやく。
「ういー、ういー。最近変わった気がする。なんだろ、社交的っていうの?になったよね」
「わるい?」
「だってそもそも、何年か前の羽衣なら、絶対そんなの参加してなかったし」
「別に、気まぐれ」
「そんなに、お友達少ないの気にしてんの?」
一瞬、羽衣の動作が止まる。図星というヤツだ。寧々は、たまにこういう鋭さを発揮するため、あなどれない。
「交友関係狭くても、別に気にすることないじゃん」
誰のせいだと思ってんの? という言葉が反射的に出そうになって、羽衣は、口を噤む。その言葉は、寧々のせいだと認めてしまうようなものだ。寧々だけが成長して、寧々だけが、みんなと楽しそうに生きている。羽衣は、それを間近で見せつけられているのだ。自分もそうなりたいと思ってしまうのは仕方のないことだろう。しかし、それを認めたら完全に負けになってしまう。それは、羽衣の癪に触ったため、無難に言葉を選んだ。
「そんなんじゃないって。ほんとに気まぐれ」
「気まぐれで、蛙さん食べるの、やばいってー」
寧々は、またうめき声をあげる。羽衣は、これは寧々の鳴き声なのかなと思いつつ、鳴き声を出せなくなり、はらわたを掻き出されるのを待っている蛙に目を落とした。そして、先程から感じていた不安を、口にする。
「…やっぱ、これ。みんなに、ひかれるかな」
寧々は、意外にも、その言葉には、間髪いれずに返答した。
「羽衣らしくて、いいと思うよ」
羽衣は、寧々のその一言に自信が出てしまう自分に、腹が立った。それと同時に、一つ思い出した。この前同じような事を先生に言われたのだ。
会議が終わって、2週間ほどたった頃だろうか。羽衣は、幾分かクラスに馴染み、一人の時間が少なくなっていた。とはいえ、掃除当番に日直の仕事、それらすべてこなした後に一緒に帰る友達は、さすがに残っていなかった。一人で教室の戸締まりをし、鍵を返すために職員室へ向かう。その時に、担任の先生に会ったのだ。
「おお、小代。今帰りか? 文化祭の実行委員してたよな。あれ、どうなった?」
羽衣の担任の先生は、体育の先生ということもあり、声が大きい。日焼けした肌に、自信に満ち溢れた笑顔が、羽衣はあまり得意ではない。さっさと話して終わらせてしまおう。羽衣は、大まかに経緯を説明する。
「外来生物かあ、それは考えたな」
「ええと、それで面白い案ないかって言われてて。まだみんなに言ってないんですけど」
この人を相談相手にして大丈夫だろうかと思いつつ、羽衣は言葉を続ける。
「昆虫食って流行ってるじゃないですか。それみたいに、外来生物食みたいなのどうかなって思ってるんです」
恐る恐る話した羽衣だったが、先生は興味をそそられたようだった。
「面白そうじゃないか。さすが生物部だな」
羽衣は、照れくさくなってうつむく。先生は、しばらく羽衣への褒め言葉と、自分語りをした後、去って行った。
「そういう突飛な案だせる人なんて、少ないからな。すごいと思うぞ。なんかこう、色々試したりしてみてくれ」
去り際にそう言い残した先生は、教室の鍵も持って行ってくれた。意外と良い人なのかもしれない。羽衣は先程まで、少し苦手だと思っていたことを忘れ、帰路についた。たとえ少し苦手であっても、大人に認められると自信が付くものなのだろう。
「羽衣、聞いてる?」
「え?」
羽衣が回想に耽っていると、いつのまにか、寧々が台所まで来て、宝石のように綺麗な丸いチョコレートを差し出してきた。羽衣は、近づけられたそれを、逆らわずに口に入れる。
「おいしい」
思わず、感想を漏らしてしまうほどに美味しい。ころりと舌に転がったそれは、口内の温度で徐々に溶け出す。ボンボンショコラだ。滑らかなチョコレートクリームを、薄い繊細なチョコレートで包んだお菓子。口に入れた瞬間にはカカオのほのかな苦みが広がり、次第に中のクリームの甘さが混ざり合って、とろけていく。余韻まで味わうと、体の神経の糸がほぐされて、力が抜けるような錯覚すら起こしそうになった。
「おいしいでしょ。ていうか羽衣、さっきから全然話聞いてない」
寧々は、羽衣が美味しそうに味わっている様子を、ひとしきり満足そうに眺めてから、自分の話を進める。
「だから『井の中の蛙、大海をしらず。』って知ってる?」
「ああ、うん。狭い世界のことしか知らないやつのことでしょ」
「あれね、続きがあるんだよ」
羽衣が、知らない様子であることを確認し、寧々は嬉しそうに言葉を続ける。
「『井の中の蛙、大海をしらず。されど、空の青さを知る』っていうの」
「そうなの?」
有名なことわざに、そのような続きがあることを知らなかった。思わず羽衣は、そのことわざについて、思考を巡らせる。大海。きっと羽衣はそこに飛び出した所なのだろう。今まで、団地の中という狭い世界で生きてきた蛙が、学校という広い世界に行く大冒険。羽衣は、自分が蛙になって、教室の中を頑張って泳いでいる姿を想像した。その姿は、だいぶ滑稽で、それでいて愛らしく、新しい世界に行ける喜びに満ち溢れているようだった。
しかし、どうやら、寧々は、羽衣が大海にでることを心配しているらしい。
「つまりね、羽衣ちゃんは、無理して大海にいって、新しい世界に行かなくても、井の中で空の青さを知ることもできるんだよーってこと。だって、この団地にもお友達いるじゃん。あたしもだし、一階下の波留ちゃんとか、生物部の優美ちゃんとかさ」
羽衣が、この狭い世界にいてはいけないと思ったのは、寧々がいたからだ。原因である寧々にそんなことを言われても、羽衣は納得しない。
「大海の方が楽しいこといっぱいあるでしょ。それに、空の青さなんて知ったら、余計に外でたくなっちゃう」
「でもでも。でもー」
「寧々だって、別に、井戸の中に居るわけじゃないじゃん。広い世界で生きてる。友達おおいし」
「それはぁ。でも、いつだって、心は羽衣ちゃんの隣だよ」
「はあ。まったく。嘘ばっか」
例え意見が食い違っても、二人が話すと有耶無耶になる。それは悪い有耶無耶ではなく、お互いが譲り合いをしている結果だ。だからこそ、二人は、学校では味わえない、居心地の良さを感じていた。羽衣は、これだけ寧々のことで頭を悩ませていても、嫌いになれないのだ。
ただ、あまりにも比べられることが多すぎて。羽衣のもっていないものが全て、寧々に揃いすぎていて。そんな、憎みたくても憎めない寧々への思いを消すように、羽衣は手のひらについた血を洗い流した。大丈夫、私は大海に飛び出したのだから。
羽衣は、蛙の肉をキッチンペーパーにくるみ、水分をとっていく。こうして見ると、やはり魚を捌いているのと同じだとは、割り切れない。生き物であることを意識してしまう。
「それ、食べるの?」
「いや、今日は食べない。写真だけ撮って、明日みんなに見せようかなって」
そういいながらも、羽衣は肉をジップロックに入れて、冷凍庫に保存した。
「羽衣のおばさん、冷凍庫開けて蛙のお肉あったら、卒倒するかもだから、ちゃんと事情はなしときなよ」
寧々が想像する光景を、羽衣も想像し、二人は一緒に笑った。
次の日。前回より一ヶ月程あいて、また会議が行われた。
「黒板なんか書いとく?」
「机、班の形に動かすよー」
「あ、羽衣ちゃん、ありがと」
前回と同じく、賑やかな教室。しかし、羽衣は前のような居心地の悪さを感じなくなっていた。たった一ヶ月で、ずいぶん変わるものだ。中学生活の3年間など、短い人生の中のほんの少しの時間だ。しかし、そのほんの少しの時間に、青春と名前を付けて保存したくなるくらいに、その時間は貴重で尊い。だからこそ、羽衣は、狭い世界に引き籠もっていては、もったいないと思ったのだ。きっと、大人になって振り返ると、教室だって狭い世界なのだろう。しかし、今、団地の中の小さな部屋だけで生きてきたような羽衣にとっては、十分広い世界だ。そして、羽衣はそこでうまくやっていけると思っていた。
「こういうの、思いついたんだけど」
ひとしきり雑談が終わり、誰かが「結局どうする?」と言ったのが会議開始の合図。羽衣は、おずおずと手を挙げた。
「なになに」
「外来種のレシピってのがあって、ブラックバスとか蛙とか食べれるらしいの」
興味は惹かれたようで、教室の視線が羽衣に集まる。
「食べるってか、調理するの?これを」
委員長が、「まちの がいらいしゅ」と書かれた写真付きの本を指さして言う。
「うん。文化祭、先生が付いてくれてたら、調理もしていいみたいだし」
「いやそこじゃなくて、これ調理するの?」
「あ、もちろん、食べれないやつもいて」
驚いた反応をした後、委員長は少し考える素振りを見せた。あと一押し、羽衣は自分の意見を通そうとする。
「ちょっと難しいかもだけど、でも教えるし、面白いと思うから」
「え?うそ。捌いて食べたの?」
「うん。大丈夫、誰でもできるし」
相手は、目を見開いて驚いた。その後、羽衣から目をそらし、困ったような笑いを浮かべていった。
「へー。すごいね」
そこで気づいた。想像していた反応とは違う。寧々や先生のような反応が、返ってこない。
周りを見渡すと、みんな目の前の委員長のように、苦笑いを浮かべていた。どうしたらいいのか分からないといった表情だ。それもそうだろう。扱いにくい人が、扱いにくい案をもってきたのだから。「すごい」の一言だって、間を持たせるための、ただの接続詞だった。
羽衣がするべきは、委員長に対する論争ではなかった。無難で、やりやすくて、そこそこ楽しい案をあげるべきだったのだ。羽衣は、それを読み間違えてしまった。居心地の悪い空気だ。溺れた時のように、息が吸えない。
「すごい案だけど、ほら、他の人の意見も聞いときたいし」
立ち尽くした羽衣の代わりに、委員長が話を進める。羽衣は、それを聞いて、着席した。私は、きっと空気を読めなかったのだ。と、一人反省会の準備を始めながら。
寧々だったら、この空気も明るく楽しい物に変えられるのだろうか。羽衣には、笑いに変えるどころか「いやー、スベっちゃった」と自分で自分を慰めることもできない。
会議は進む。雑談を交えながら。しかし、その雰囲気の中で羽衣だけが、うまく笑えない。空気を読むって、こんなにも神経をすり減らすものだったのか。残念ながら、すり減らしても、読めないけれど。羽衣が、そんな風に自嘲していると、いつのまにか会議が終わっていた。
「私、やることあるから。鍵、返しとくね。先に帰ってて」
羽衣は、何事もなかったかのように、声をかけ、委員長を含む生徒達は笑顔で帰って行く。
本当に、何事もなかったのだ。ただ、少しでしゃばって、なんだこいつって思われただけ。明日から、普通に戻ることができる。
けれど、羽衣はなんだか、それが気持ち悪かった。
やることなんて、もちろんない。教室の戸締まりをして、まっすぐ職員室に向かう。くるくると指で鍵を回しながら歩いていると、先生の言葉を思い出した。そうだ。元はといえば、先生が、勝手に期待して、やってみろって言ったから。寧々だって。
噂をすれば影だ。羽衣が、そんな風に考えていると、担任の先生が現れた。廊下で他の先生と立ち話をしており、羽衣には気づいていないようだ。
「ああ、小代さんですか。去年の担任だったから知ってますよ」
どうやら、先生達の噂の方が、羽衣を引き寄せたらしい。話題に出された羽衣は、咄嗟に、何かやらかしたかと、宿題の提出や、普段の素行を思い出そうとする。そんな羽衣と、先生達との距離が離れるにつれて、去年の担任だという先生の声は遠くなり、大きな声で喋る今の担任の声だけが聞こえた。
「そうです。その小代羽衣です。なんだか内気な性格のようで、喋るのもあんまり得意じゃないみたいで、去年もそうでしたか」
羽衣は、足を止める。
「笑ってるのもそんなに見たこと無くて、馴染めていないような気がして、気になってて」
羽衣は、一瞬呼吸を止める。先生の語る羽衣と、羽衣が思っている自分が違うことに、強烈な違和感を覚えたのだ。良い方に目立つこともなく、もちろん悪い目立ち方もしない。良くも悪くも普通の生徒というのが、羽衣の自己評価だ。しかし、先生がいうには、羽衣は、馴染めていない、心配されるような生徒らしい。羽衣が想像する自分の姿が、崩れ去っていく。
「あ、でも。最近は、よく、うちのクラスの委員長とかが一緒にいてくれてて、変わってきてるみたいなんですけど」
羽衣は、自分で変わろうとしただけだと、反論を叫びそうになり、こらえる。
「一生に一度しかない学生生活ですから、色々チャレンジしないと、もったいないじゃないですか。これから、うまくやっていけるといいんだけどなあ」
担任のその声を聞きながら、羽衣は立ち去る。
自分の姿が、わからない。私は、何も見れてはいない。羽衣は、それに気がついて恐ろしくなった。
甘い匂いがする室内。きっと寧々が、またお菓子作りをしているのだろう。羽衣は、夕日に照らされた台所で、蛙の腹を切り裂く。そして、臓器を全部とりだそうとして、指を入れる。ビニール手袋越しに感じる、どろりとした感触に涙がにじむ。大丈夫。これは食料だから。食料としての蛙。かわいいと評されるペットではない。そこら辺にいる存在で、大切にしなくてはならないものではない。ましてや、井の中からでてきて、大海で溺れ死んだ私でもない。羽衣は、そう考えながら手を動かす。消化器官だろうか、うまく引き抜けなかった管を、手で強引にちぎった。
臓器と皮、綺麗に外皮と中身をとられ、ひっくり返った状態でシンクに転がる肉。その姿は、だいぶ滑稽で、本当に滑稽でしかなかった。
「なんで」
どうして、こんなにうまくできない。寧々どころか、「普通」にもなれやしない。
蛙は、井戸から空の青さを知り、眺めることができる。しかし、人間は、空の青さを知るだけで満足できない。空をもっと近くで見たくて、大海に漕ぎ出すだろう。そして、みんなのように自然に泳げる人は「普通」になって、特別に泳げる人は、「天才」になったりする。一方、羽衣はというと、「大海で泳げた気になって、調子に乗ってしまったイタいやつ」だ。憐れで見ていられない。血がしたたり落ちる肉を、水で洗い流そうとした時、インターホンもノックもせずに玄関の扉が開いた。
「やっほー。今日はフランボワーズケーキだよー。ケーキ入刀しよ。ナイフにフォークに、紅茶も持ってきたから」
「寧々、今日は駄目だって。……言ってないね」
「うん。言われてないから、お邪魔しまーす」
寧々は、右手にケーキ、左手に食器類などが入った鞄をもち、この部屋の住民であるかのようにリビングへと入っていく。そして、ガチャガチャとケーキを食べる用意を始める。
「今日はね、バタークリームにめっちゃこだわってね。一回一回すっごく慎重に温度管理して」
「うん。すごいね」
羽衣が適当に褒めると、寧々は嬉しそうに今日のケーキのこだわりを語り出す。
「前にいちごみるくケーキ作ったとき、羽衣が、ちょっと酸味があるのおいしいねって言ってたから。フランボワーズも絶対に好きだろうなと思って」
羽衣は、相づちをうちながら、肉をキッチンペーパーでくるみ、水分をとっていく。残念ながら、死んだ肉の感触を楽しむ趣味はないため、早々に冷凍庫にしまった。そして、羽衣は、何の脈絡もなく、呟いた。
「いいよね。羨ましい」
微かに漏らした本音は、リビングにいる寧々にも届いたようで、「どうしたの」と戸惑いを含んだ声が返ってきた。しかし、羽衣は話を続ける。
「寧々は、ぜんぶ上手にしてるから」
寧々は、そんなことないと否定するが、やはり羽衣は聞き入れない。聞き入れたくないようだった。
「お菓子作りの才能もあってさ。委員長さんが言ってたけど、高校も専門のとこ行くんでしょ。ていうか、なんで私にそのこと言わなかったの。気でも遣った?」
羽衣は、ゴミ箱の蓋を思い切り閉める。ギリギリまで詰められたゴミのせいで、捨てたばかりのビニール手袋がはみ出す。羽衣にとっては、それさえもが腹立たしい。
「ほんと、おんなじ場所で、おんなじ育ち方したのに、なんでこんな違くなっちゃったんだろ。むしろ、同じ条件なだけ傷つくし」
寧々は、羽衣の様子に驚きつつも立ち上がり、台所に向かおうとする。しかし、羽衣がリビングの扉を開ける方がはやかった。
「寧々といると、お手本をずっと、見せられてるみたいな気持ちになる」
リビングには、ケーキを焼いた時の甘い匂いが漂っている。羽衣が、怒っていても、泣いていても、蛙と向き合っていても、何をしていたって、ついてくる匂い。
「そっから、お手本に近づくために頑張っても、私はうまくできない。寧々にとって当たり前のことをするために、私は何倍何十倍の、時間と労力が必要で」
寧々の前で情けないけれど、それはどうしようもない事実だった。一度、堰を切ってあふれ出した言葉は止まらない。
「そんだけ頑張ってても、「頑張ってる人」に見えちゃったら、かっこ悪くて台無しで」
寧々が何かを言っているが、羽衣は聞いていない。羽衣にとって、寧々はすべての原因だ。元凶である彼女の言葉は今、届かない。
「誰だって、寧々の話をしたくなるよ、そりゃ。私だって自慢したくなるもん」
出来ている人を評価するのは当たり前だ。寧々を評価するのも、したくなる気持ちも、羽衣はきちんと分かっていた。分かっていても、どろどろとした感情がついていかない。
「寧々と、一緒じゃなければ、私はもっと」
羽衣は、まだ口を動かそうとした。しかし、反射的に言葉が止まる。首に冷たいものが押し当てられていたからだ。
「……え。ね、ね」
身体が、硬直する。羽衣は、視界の隅で、鈍く光る刃を見つけた。そして、それが自分の首の右側に押し当てられていることを理解した。感覚を頼りにすると、どうやら刃物の側面を当てられているらしい。今すぐに切られることはないだろう。だが、ナイフの冷たい温度は、羽衣の頭を冷やしていく。すっかり固まった羽衣に、刃物を向けたままの寧々が忠告する。
「冷静に、なって。お願い。話、聞いて」
羽衣は何か応えようとしたが、喉を動かそうとすると首に当てられた刃の存在をしっかりと感じてしまうため、断念する。正直、冷静になどなれない。ただ、悪い方に行きかけた脳の思考回路は止まり、口も塞がれた。これを、冷静になるという言葉で形容するのが、正しいのかは疑問だが、寧々の狙いは羽衣に話を聞いてもらうこと。そういう意味では、成功ともいえるだろう。
「そんなの、あたしじゃない」
寧々は、静かに語りかける。
「あたし、才能の塊でも、お菓子作りが上手な人でも、お手本でもない」
寧々は、大真面目だ。右手にナイフを持ちながら、まっすぐに羽衣を見つめる。
「そんな、肩書きとか、経歴とか、誰でも分かるような、「寧々」は、あたしじゃない」
寧々は、それから少し言いよどむ。しかし、目線はしっかりと羽衣に向け続けていた。
「羽衣は、あたしを、見てない。あたしは、羽衣の劣等感製造マシーンじゃないよ。嫉妬の捌け口でもないんだよ」
寧々は、元凶ではない。悩みの元凶は、いつだって羽衣自身だ。羽衣は、そこまで見透かされて、うつむこうとする。しかし、どうしたって首の刃によって動けない。寧々は、やっとそれに気づいたようだ。
「あ、ごめん。怖がらせちゃった」
寧々は、さほど悪いと思ってもいないようで、軽く謝りながらナイフを机の上に置いた。羽衣は、この時そのナイフがケーキナイフだということに初めて気がついた。少し力をいれるくらいでは、人は切れないナイフだ。
「あたしも、羽衣も、あたしと羽衣の関係も、そんな紙に書けるような、簡単なものじゃないでしょ」
ナイフを置いたため、もう脅しはない。羽衣は、寧々の話を遮ることもできた。しかし、羽衣は、寧々から目を離さず、話を止めようともしない。寧々は、それを確認して、両手で羽衣の頬を包んだ。
「ちゃんと、見て」
寧々にそう言われた瞬間、羽衣の視界が開けた。
羽衣の前には、寧々がいる。そこでやっと、毎日のように見ている寧々の顔を、久々に見れたような気がした。
地毛なのに、生活指導の先生に注意されるほど綺麗な茶髪が揺れて。 羽衣がプレゼントした口紅を塗った唇が、優しく弧を描く。羽衣より、少しだけ低い身長に、少しだけ小さい手。
「焦って、周りのこと、なーんも見えなくなんの、羽衣の悪いとこだよ」
やっと羽衣は、気づいた。寧々が、羽衣の劣等感そのものである以前に、大切な友人であることに。足を引っかけて転んで、通学路で泣いたこと。門限ぎりぎりまで遊んで怒られたこと。隣の部屋なのに、わざわざお泊まり会をして、深夜に、こっそり外にでたこと。全部、隣には寧々がいた。
今、そんな寧々の透き通った茶色の瞳には、ひどい有様の羽衣が映っていた。いつのまにか流していた涙が、頬を伝って、寧々の手を濡らしている。
「ああほら、羽衣。ティッシュ、ティッシュ」
寧々は、机に置いていたティッシュを箱ごと渡す。羽衣は、涙と鼻水を拭きながら、かろうじて聞き取れるくらいの声で謝罪した。
「寧々、ごめん。ちょっと、まわり見れなくなってて」
羽衣は、ソファを背もたれにして、床に座った。
「ごめん。落ち着いた。落ち着いたけど。でも、やっぱり、寧々といると自分が嫌になっちゃうのは、変わらない」
思考はクリアになったが、それで羽衣の自尊心が急激に埋まることもない。
「もしまた、駄目になったら、今日みたいに思い出させてあげる。あたしは、ただの寧々だよーって」
いまいち吹っ切れない羽衣とは違い、寧々は上機嫌だ。自分の部屋で入れてきた紅茶を、寧々のティーカップに注ぐ。白く滑らかな陶器に注がれた紅茶は、まだ湯気がほんの少し立っていた。
「じゃあさ、このまま狭い団地に引き籠もっちゃう? 大海に出ずに、二人で空でも眺めちゃう?」
「それはやだ」
名案だと言わんばかりに、寧々は声を張り上げたが、あっけなく却下されてしまう。
「なあんで」
「だあって。それじゃ、何も変われないままだし」
「変わらなくて良いじゃん」
「私は変わらなくてもいいけど、行動は変えたいの」
「できるの?」
「でき……ないかもしれないけど。頑張る」
面倒な性格だなあと寧々は思ったが、口には出さない。綺麗に六等分にされたケーキの一切れを、羽衣に差し出す。
「それなら、頑張らないことを頑張ろっか」
一瞬、羽衣はきょとんとした顔をしたが、「そうする」とだけ言って、ケーキを頬張った。
ケーキをたらふく食べて、ソファにもたれかかってうたた寝を始めた羽衣に、寧々はブランケットをかける。
「井の中にいればよかったのに」
寧々の独り言は、羽衣には届かない。できるなら、井の中に居て欲しかった。この団地のなかで、この狭い部屋でいれば良かったのに。寧々は、羽衣が変わっていくのを見たくはなかった。羽衣は、優しくて、頑張り屋さんで、面倒で。それは、寧々だけが知っていれば良かったから。
大海に出た彼女が、ひどいめにあってかえって来たから、「もう外にはでなくていい」という言葉を期待していた。しかし、羽衣は思ったより強かで、思った以上に面倒だ。それでもなお、外の大海で足掻いて、藻掻くのだろう。それを、寧々に止める権利がないことはわかっていた。
「いただきます」
寧々は、ケーキの最後の一切れをお皿によそう。フランボワーズの香りに誘われて、赤く艶やかなケーキの表面に、フォークを突き立てる。口にいれると、甘さのなかで、フランボワーズムースの爽やかな酸味が広がった。我ながら良い出来映えだと、寧々は自画自賛する。甘ったるくない爽やかな味。口の中でとろけるような食感の妙。全て、何もかも、羽衣の好みだ。そう思いながら、寧々は、最後に残していたフランボワーズを一つ口にいれた。果物の単純な甘酸っぱい味。
きっと、井戸の中から出たくないのは、ここに執着しているのは、あたしの方なのだろう。それでも、羽衣の足を引っ張って、井戸に引きずりこむような真似はしなかった。
だから、せめて。羽衣が、コンビニのスイーツなんかじゃ満足できないようにするくらい、許して欲しい。
今はただ、胃の中だけでも握らせて。
あとがき
未熟な文章で、読み辛い部分もあったかと思いますが、それでも時間を割いて読んでいただいた方には、感謝が尽きません。
大人になったら、こんなことがあったなんて忘れてしまうような、些細でなんでもない出来事を、蛙とスイーツでデコレーションしました。
テーマは気に入っているのですが、ストーリーのアイデアと文章力が付いていきませんでした。それでも、 共感できるところや、考えることなど、何か残るものがあれば、とても嬉しく思います。ありがとうございました。
蛙は、見る分には大丈夫ですが、突然こっちに飛んで来られると怖いです。蛙さん、ごめんなさい。ショコラボンボン、フランボワーズケーキ等、お話に出てきたスイーツは大好きです。
いのなか / もくふー 追手門学院大学文芸部 @Bungei0000
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