ビジネスマナーは勇者の鎧

「ただいま」


会社に行ったはずの羽月ちゃんのお父様が昼過ぎに帰宅した。

そして僕を見るなり、


「誰だい、君は? 」


と不機嫌そうにニコリともせずに

言った。氷のように冷たい視線だ。

僕は立ち上がり、スッと背筋を伸ばし、営業ボイスで答えた。


「私、羽月さんの友人で今井翔吾と申します。よろしくお願いいたします。また、本日はお招き頂き誠にありがとうございます」


そう言ってから深く一礼した。分離礼というものだ。

息を吸いながらゆっくりお辞儀をし、停止して息を吐き、再び吸いながら上体を起こした。

先日中谷と行ったビジネスマナー講座で徹底的に叩き込まれた所作だ。


お父様の眼鏡がキラーンと光った。


「おぉ、君が噂の今井君か! よく来てくれたね。ゆっくりしていってくれたまえ 」


歓迎された……。


僕はビジネスマナーの有用性の高さを実感した。

そして、講座に誘ってくれた中谷に心から感謝した。



ウニクロのおうちカジュアルに着替えたお父様も交えて、4人でのモグモグタイムになり、トークに花が咲く。


「ところで今井君は彼女はいるのかい? 」


「いません」


「ところで今井さんは女性とお付き合いしたことはあるのかしら? 」


「あります」


「ところで今井さんはどんな女の子が好きですか? 」


「可愛い子かな」


「ところで今井君はどちらの学校を出てるんだい? 」


「C大学です」


「ところで今井さんはどちらにお勤めなのかしら? 」


「カクヨムホームズです」


「ところで今井さんは女の子の髪はロングとショートどちらが好きですか? 」


「ロングかな」


ワクワクしながら答えを期待していた羽月ちゃんは小さな声で「ちぇっ」と言って、唇を尖らせた。


トークというよりは取り調べだった。羽月ちゃんはそれらのやりとりを、聞き込みをする刑事のようにフムフム言いながら、何やら手帳にメモメモしていた。


長く続いた取り調べが終わると、お父様とお母さんは目を合わせて深く頷いた。

そして突然、お母さんが言った。


「あら大変! 氷が無くなっちゃったわ。羽月、ちょっと駅前のコンビニまで買いに行ってきてちょうだい! 」


「それは大変だわ。それじゃあ私、行ってくるね」


羽月ちゃんは家を飛び出して行った。


羽月ちゃんが開けっ放しにした部屋のドアを、お父様がそっと閉める。そして大きく息を吐いてから言った。


「さて今井君、そろそろ本題に入ろうか……」


再び部屋の空気が変わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る