エピローグ
0 闇に沈むもの
知らない男の人に名前を呼ばれるなんて経験、遠い親戚でもないかぎりそうそうあるものではない。
彼女はここ最近、とても
眠れぬ夜を過ごし、遅く起きた朝に鏡を見て。食卓に着き、家族と顔を合わせて。
そして、沈黙の間を取り持つようにモニターから垂れ流されるニュースを聞いて。
『――――つい先日起こった、
――プツンッ。
消されるモニター。椅子を引く音。立ち上がる父。
あぁ、仕事場に戻る時間か。
「行ってらっしゃい」
食べ終わった父と比べ、まだ食べ始めた程度にしか減っていない朝食――しかも父は早めの昼食だ――を見下ろしながら、無機質な声で口にする。父は「行ってくる」と通り過ぎながら頭をポンポンと優しく叩いてきた。目も合わせなかったことに少しだけ、罪悪感を覚えた。
母が片付けを始める。急かさずに「ゆっくりでいいのよ」と言ってくれる。けれど、食欲がない。もうひと口だけ食べてギブアップしようと思ったが、昨日もろくに食べていないことを思い出し、彼女はさすがにこれ以上心配をかけてはいけないと考え直した。
ならば、どうするか――――そうだ、散歩でもしよう。お腹が空かないのはきっと、体をまったく動かさないことにも原因があるはず。彼女はすぐにその意図を伝えたが、母はややためらっていた。一人で行かせるのが怖いようだ。
そんなに荒んだ土地柄ではない。それに
それでも、行かせたくない。そんな母の気持ちが手に取るようにわかる。そして自分を見るその目が、自分を見ていないことにも。
「……すぐ、帰ってくるから」
彼女はそう言い残し、足早に裏口から飛び出した。
母の目がつらかった。父の目も。時おりふと、こちらを見ながら遠くを見ているその目が。
責める気にはなれない。自分も、鏡の前で同じ目をしているから。
(そういえば……いつぶりだろ、外に出るの)
快晴。強い日差し。白いワンピースの
家を取り囲む背の高い木々に日差しが多少さえぎられてはいるものの、やや立ちくらみ。どうやら言葉どおり、すぐ帰ることになりそう。そして彼女はリハビリのつもりで歩き出した。日陰へ逃げこみ、丸太でできた壁伝いに歩く。やがてたどりつくのは家の玄関。
そこへ出る直前、彼女は壁際で立ち止まった。父の声がしたのだ。仕事場はすぐ隣なのだが、家の玄関先で来客に対応しているらしい。この丸太小屋のような場所へ来る人間はたいてい父の仕事のお客さんなのだが、その人物は違った。
「このたびは誠に――――」
チラリと見えた軍服。女性の声。それぐらいの情報しか得られぬうちに彼女は立てた聞き耳を寝かせ、すぐにその場を立ち去った。
聞きたくない。話し声が届かなくなっても、彼女はふさいだ耳から手を離さなかった。受け入れられない。受け入れたくない。そんなことを思いながら無我夢中に歩いていると、若葉の生い茂る青々とした太い木々の間を抜け、うっかりと表通りに出てしまう。
車が二台は通れるコンクリートの幅広い並木道。自分は、引っかけたサンダルに
するとその時、柔らかな風が吹いた。
髪をさらい、スカートの裾をほんの少しだけひるがえすような、日差しに光る風。彼女は足を止め、ばらつく髪を押さえながら風の
その人は、そこにいた。
——バタンッ。
大きな並木道から、小さな砂利道への進入口手前。自分の家へ通じる一本道をふさいで止まっていた長い車。開いた助手席。慌ただしく出てきたのは、黒いローブを着た人。表情をうかがえるほどの距離だったが、深く被るフードの影がその顔を隠していた。
だけどたぶん、男の人だ。こちらを見て固まっている。みっともない格好をした女が急に飛び出してきて驚いたのだろうか。
しかし彼女は、すぐにそうではないと悟った。
だって、同じだったから。
「……やぁ」
帰ってこない姉にそっくりなこの顔と赤毛を見るたび、遠い目をする両親。鏡の前に立つ自分。
近寄ってくるその人も、同じだった。
「君が、ルゥ…?」
目と鼻の先で立ち止まった男の質問に、ルゥ・ヴァレンタインは少し見上げながら呆然とうなずいた。知らない男に突然名前を呼ばれたにもかかわらず、怯えもしなければ逃げもしなかった。
自分の名を呼ぶその声があまりにも切なげで、その人があまりにも、悲しそうだったから。
庭先に置かれた
敷き詰められた花。土気色を隠す化粧。頬にふくらみをもたせる含み綿。防腐処理。
生前の面影そのままに姉を帰してくれた軍人たちへ、父と母は頭を下げていた。なぜか女性ばかりだったが、こちらへの配慮だろうと解釈して両親は気にも留めていない様子。ルゥも少しばかり安心していた。姉の体に男性が触れていてほしくなかったのだ。
しかしなぜか、その人だけは許せそうな気がした。
「少しだけ、邪魔していいか?」
開いた
「ちょっと、何やってんのあんた…! これ以上はバレる——」
「まぁまぁレティちゃん、いいじゃないの。先に行って待ってましょ」
「姉貴の言うとおり。放っときな、レティ。なんならもうあいつ置いてかない?」
「いやヴェル姉、それ冗談に聞こえないんだけど……」
軍人にしては口調が軽く、騒々しい。それともこんなものなのか。比較対象を知らないルゥは一本道を引き返していくその集団の後ろ姿をチラリと見た。
すると、やけにきれいな立ち姿の軍人がひとり、クルリとこちらを振り返る。
「……なるべく、お早めに」
それだけを彼に伝えてから、彼女は自分を見て深く腰を折り、先を行く三人の後に続いた。みんな帽子を被っていて顔はよく見えなかったが、なんとなく想像がついた。
今の女の人はとても、この人を心配しているんだろうな。
「騒がしくして悪かった。すぐに済むから」
一人だけローブ姿の彼は、部下らしきほかの軍人のほうには一度たりとも目を向けず、姉の安らかな寝顔に見入っていた。先ほどの女性がかわいそうにも思えたが、ルゥはそんな彼の態度に救われた気がした。
ニュースで読み上げられる数にではない。何よりも姉の死を悼んでくれる人がこの世界で、
隣で膝をつき、白い百合の花を姉へ捧げるその人を、少し離れた位置で見守る両親。自分も気を利かせるべきなのかもしれない。顔見知りらしい彼にとっては姉との最後の別れなのだから。
しかし、重い腰を上げる前に彼が言う。
「すまない」
口元だけのぞかせる横顔。
フードの奥の見えない眼差しはまっすぐと、眠りにつく姉へ。
「……守ってやれなくて、すまない」
こちらをまったく見ないが、それが自分に向けての言葉なのだとルゥは察した。フードの端を引っ張り、さらにうつむいて口元すら見えなくなっても、
小さく丸まった背中。そこにある悲哀と後悔。そして、ほんの少しの恐怖。
だからつい、口走ってしまった。
「どうしてお姉ちゃん、死んじゃったんですか?」
その人は何も答えなかった。
「どうして、お姉ちゃんが? なんで?」
答える気がないとわかっていた。彼の恐怖はたぶん、受け止める覚悟だけをしていたからだ。
それでも————だからこそ、止められなかった。
「お姉ちゃんは、いつも優しくて、明るくて……私なんかより全然、運動も、勉強だってできて…。みんな、お姉ちゃんが好きで、私だって……もうすぐ、帰ってくるって…!」
支離滅裂に並べ立てる。
せき止めていたものが、一気にあふれ出す。
「――――なんでお姉ちゃんが、殺されなきゃいけないのよっ!」
ルゥは泣いた。わんわんと泣いた。
父親はそんな母親の肩を抱いていた。娘の元へと駆け寄りたかっただろうに、隣にいる妻を放っておくこともできなかったようだ。そして唯一、生者として娘のそばにいた男は、ずっと黙っていた。深くうつむき、姉の
感じる視線。わずらわしさも、気恥ずかしさもない。あるのは不思議な安心感。
だからルゥは、さらにポツリと口を滑らせてしまった。
「私がっ……私が、死ねばっ…」
その人は黙って聞いてくれた。
「お姉ちゃんより、私が…」
優秀な姉。優しくて、周囲を明るくしてくれる姉。
いつも手を引いてくれた。わからないことがあれば、なんでも教えてくれた。出来が悪く、内気で引っ込み思案な自分とおそろいの赤毛を、自慢だとうれしそうに言ってくれた。
そんな、世界一自慢できる姉。
「……私が死んだほうが、良かった…」
そうつぶやき、ルゥはさらに泣き出してしまった。
言ってはならないこと。母と父を、さらにつらくさせるだけ。それでもずっと、心の片隅にこびりついていたもの。
両親が駆け寄ってくるその前に彼が立ち上がり、口を開く。
そして、その場を凍りつかせた。
「そうだな」
涙が引っこむ。ギョッとして、伏せていた泣き顔を上げる。無意識だった。いつの間にか、ルゥはその男へ気を許していた。甘えていたのだ。
何を言っても、優しくしてくれるものだと勝手に思っていた。
「俺にとってはそうだ。彼女でさえなければ、君でもいい。誰でもいい。もし今からでも取り替えてくれるなら、俺はこの世界中の人間を誰でも殺すし、いくらでも殺すだろう」
過激だが、至極真っ当な言い分。彼は姉の知り合いであって、妹とはまったくの赤の他人なのだから。
それでも、裏切られた。そんな気分だった。
深く被ったフードの影からのぞく冷たい口元。真一文字に結ばれたくちびる。「おいあんたっ…!」と怒りながら近付いてきた父を制止するように、その口が再び開く。
「それでも俺は、この世界で君だけは殺せない。ご両親も。なぜだかわかるか?」
「え? それ、は……」
自分たちが、姉の家族だから。ただそれだけのこと。気勢を削がれたように立ち止まった父も、たぶん同じ気持ち。
こちらの答えを待たずに彼が告げる。
「彼女が、呼んだからだ…」
顔を隠すように引っ張られたフード。
隠せなかった、声の震え。
「最後に、パパ、と…。ママ、と…。そして————君の名を…」
父は膝から崩れ落ちた。今度は母が、泣き出すその背中へ寄り添っていた。
フードの影から頬へと伝う、一筋の涙。
「気持ちは痛いほどわかる、なんて、偉そうに言える立場じゃないけど——」
同じ軌跡。同じタイミング。
自らの頬にも、伝う涙。
「——どうかそれだけは、覚えていてくれ…」
そう言って、彼は背中を向けた。泣き崩れる父と寄り添う母のほうをチラリと見て、フードを深く被り直しながら軽く頭を下げた。おざなりな礼儀。あるいは非礼、敬遠。だがそれに、母は深く頭を下げ返した。泣き顔を両手で覆っていた父の分まで。
きっとわかったのだろう。彼が歯を食いしばり、肩を小さく震わせていたことに。
そして、立ち去る彼をルゥは止めなかった。何も言えなかった。引き止めたい気持ちもあったがどうにもできず、彼女は再びうつむいて、眠る姉へと目を向けた。
「……お姉ちゃん」
けれど、今なら。
彼が教えてくれた、今なら。
「パパも、ママも……私もいるよ」
ルゥは手を伸ばし、飾られた花々を少しよけて、胸の辺りで組まれている姉の両手の上へと重ねた。
「————おかえり、お姉ちゃん…」
もう二度と言えないのだと思っていた言葉が自然と出て、涙がまたあふれる。
目の前の姉は冷たく、何も言い返してはくれなかったが、頭の中の記憶が
——ルゥ、ただいまっ!
まぶたの裏。明るく笑う姉。胸が張り裂けそうなほどにまだ悲しくなるけれど、決して忘れない。
ぐしゃぐしゃな顔で肩に手を置いてくる父を、頭をなでながらそっと抱きしめてくれる母を————自分たちを、姉が愛してくれていたことを。
自分たちが姉を、愛していたことを。
「……そろそろ、寝かせてあげましょう?」
母の言葉に、ルゥは素直にうなずいた。
父が無言で立つ。
「あなた?」
「……葬儀は、また明日だ」
「じゃあ今夜は…」
「うちの中で寝かせる。ここは、俺の娘の家だ。台車を持ってくる」
家の裏手に回る父。何も言わず、見送る母。ルゥも何かしたかった。できることはないだろうか。しかし今のところ、この
その時、そばの花に手が当たった。彼が捧げた白百合だ。
すべて偶然。その花をどかしたのも。その花が、姉の手首をちょうど隠す位置にあったのも。
そして——
(? あれ?)
——ルゥがそれを、目にしたのも。
(腕時計……お姉ちゃん、こんなの持ってたっけ?)
ずいぶんシンプルなものだった。それに、おかしい。針がひとつしかない。長針がなく、短針だけ。日時計にしても変だ。時間がまったく合っていない。
その短針が文字盤の上で指しているのは時刻ではなく、まるで——
——ダッ!
「えっ!? ま、待ちなさい、ルゥ————!」
母の制止を振り切り、ルゥは衝動のままに駆けた。自分でもよくわからない。だけど、行かなきゃいけない。
間に合うだろうか。
(車は————!?)
ない。一本道をふさいでいた長い車は、もうどこにも見当たらない。ルゥは胸を押さえた。
息切れ、
もう一度、会いたい。
ルゥは脱げたサンダルを放って表通りへと出た。また
幸運なことに、その幅広い並木道には人通りがなく、見覚えのある長い車が遠くで停車していただけ。人影も、そちらへ向かうひとつだけ。
いた。
「あ、あのっ!」
声をかけると、人影が立ち止まる。振り返ることはなかった。ルゥはその背中へ駆け寄ろうとした。
そしてふと、足が止まった。
高く昇った太陽。高い木々が並ぶ道。隙間なく生い茂る緑の若葉が、幅広い道の片方に色濃い影を落としていた。それは、
その人は、その中にいた。
「……うちに帰りな」
こっちに来るな。そう言われた気がした。
揺れる光と影の境界線上で、足がすくむ。
「君は、お姉さんのそばにいてやってくれ」
ルゥは怖気づいた。彼に、ではない。その闇に。
まるで、足元からのみ込まれそうな気がして。
そのまま動けずにいると、彼が再び歩き出した。平然と、その闇の中を。追いかけることはできそうにない。
けれど、彼の手首に姉のものと同じデザインの腕時計が見えて、彼女の口は無意識に動いた。
「待って……待ってください!」
彼は待ってはくれなかった。もう用はない。そう言いたげな冷たい背中。
そして、悲しい背中。
「あなたは、いったい……」
ルゥは彼を引き止める言葉を持たなかった。
姉とどういう関係なのか。そんなのきっと、聞くまでもない。
混乱したすえに口をついて出たのは、単純明快な問い。
「……誰なんですか?」
言った瞬間、変な質問だと自覚した。
それでも続ける。
「あなたは……何者、なんですか?」
名を尋ねるでもない。まるで、不審者を問い
(だからって、こんなの――――っ!?)
その時、強い風が吹いた。
揺れる木々、葉擦れのざわめき。消える境界線。
そして、立ち止まる彼。
「――――ごめん、フィー…」
闇を晴らす
「――――ごめんなさい、教官…」
その背中が一瞬だけ、幼く見えた。
「俺は――――……」
沈黙に合わせて消えるざわめき。遠ざかる
数枚の、若葉が散った。
彼の足元に落ちた。
「――――『復讐者』だ」
それを踏みにじり、闇の中を
そんな彼の乗った車が見えなくなるまで、ルゥはずっと光と影の境界線上にたたずんでいた。
素足の裏に刺さるコンクリートの感触。片方は日差しで温かく、そしてもう片方は、どこか冷たく――
「……復讐、者…」
――ズブリと、沈んだ気がした。
【復讐するもの(後編)〜了〜】
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