10 スヴェンとフィー
――ズブッ…!
引き抜かれる杖先。
揺れる、赤い髪。
力の入らぬ体が支えを失い、スヴェンは背中を土につけた。
――トサッ…。
そこへ、崩れ落ちてくる彼女。
「……フィー?」
胸にしがみついたまま伏せた顔は上がらず。
折り重なった二人の間に流れるのは沈黙と————ドロリとした、熱。
「なぁ……ウソだろ、おい…」
乾いた笑いを浮かべ、折れた腕を無理やり動かす。痛い。けれど、どうでもいい。広がる赤毛に指先で触れる。おそるおそる、手を絡めていく。
その時、揺れるかがり火の明かりがさえぎられ、頭上に影が差した。
「これで、二人目だなぁ…」
ただれた肌と青白い肌。頭に巻かれた包帯からわずかにのぞく銀髪と、病的にくぼんだ右目。アルフレッド。
彼はニタニタとこちらを見下ろしながら赤い
「
「アルフ、レッド……てめぇっ…!」
「
ニタリとした表情を貼りつけたまま、大げさに赤い
そんな彼が、愉快そうに笑みを深める。
「アルフだ。お前は、そう呼んでくれてただろぉ…?」
嫌っていたはずの愛称。あまり似ていないと思っていたが、今や表情も言っていることも、そして雰囲気まで姉にそっくり。
その明らかな変わりようを気にも留めず、スヴェンは見下ろしてくるギョロリとした右目から視線を外さず、視野を震わし、視界を赤く染めた。
「ア、ルフッ、レッドォォォッ…!」
起き上がろうと試みるも、土台無理な話だ。彼のケガはいつ気を失ってもおかしくないほどの重傷なのだから。
しかしスヴェンは、赤毛の絡む手を引き寄せ、フィーの頭を胸に抱えた。
——ミシッ…!
「ほぉ……」
折れた骨はつながり、反応がなかった逆の手足も問題なく動く。
——ジュッ…!
「やはりお前も、F型の影響を受けていたか。私と同じ……」
傷はたちどころに
「……いや、これは――」
——ユラッ…。
みなぎる力。湧き上がる怒り。
そして、立ち上る
「――私以上、か…?」
それは、揺らめく淡い緑光を身にまとう、倉庫内での
そんな己をまったく顧みず、フィーをかき抱きながら上半身だけ起こす。
「よくも……よくもっ…!」
言葉にできぬほどの怒り。血走った眼光。
アルフレッドが後ろへ退くも、怯えや動揺はうかがえなかった。
「どうやら今日は退散したほうがいいようだな。私はまだ、お前ほどこの体に慣れていない」
こちらを向いたまま、優雅に後ろへ歩く包帯男。逃がさねぇ。スヴェンは飛びかかろうとした。抱えた
ハンデにもならない。ひとひねり、一瞬で
その確信を先んじて挫いたのは、向けられた杖先。光の弾丸に代わって放たれた指摘だった。
「いいのか? ヴァレンタインはまだ生きているぞ?」
「――――っ!」
「かろうじて、だがな」
そのとおりだった。
「! フィー!」
立ち上がるのをやめ、力ない彼女の背中を支えながら腕の中へ閉じこめる。そっくりそのまま、先ほどと役割が入れ代わった形。
自分の胸に頭を寄せるフィーは口の端から血を流し、せきこんでは吐血していた。呼吸もうまくできていないようだ。そして、黒い
内心の疑問を知ってか知らずか、アルフレッドが答える。
「骨の間を縫った。ほかの臓器も、血の集まる箇所もそこまで傷ついてはいない。心臓を一突きよりもわずかばかり生きながらえるだろうな」
赤い杖に
つまり、すべてわざと。
「どういうつもりだ!?」
「知れたことよ」
間髪入れずに
「お前に
思わず固まる。言葉もない。
「……クッ、クハハッ――――そうだスヴェン、その目だ! これからはお前が、私を追いかけるのだ!」
怒りは
追いついたのは、純粋なまでの殺意。
「安心しろ。私はお前のように、つれない態度など取らないさ。なぜなら私は――」
殺す。
「――『スヴェン・リーの敵』なのだからっ!」
どこか
四肢が反応。ただ殺すだけでは物足りない。「殺してくれ」と泣いて頼むまで痛めつけてから、殺す。それを実行に移せなかったのは、フィーがあまりにも強く
呼吸ができずにあえぐ口。震えるくちびる。ゆっくりと、その形が変わる。
行かないで。そう言うのかと思った。
「……こ、ぁ……ぃ…!」
怖い。確かに彼女はそう言った。痛そうに、苦しげに。泣きながらただ一言。
立ち上る淡い緑の
「フィー、大丈夫、大丈夫だ…!」
焦点のぶれる目と必死に視線を合わせ、
それでもスヴェンは一心不乱に声をかけ続けた。遠ざかる気配になんら
しかし、本当はわかっていた。その証拠に、彼は激しく取り乱しながらも、去り際のアルフレッドが放った意味深な言葉を正確に理解していた。
「さらばだスヴェン、私はいつでも貴様を待っているぞ。そして――――ヴァレンタインの最後の願いを、せいぜい聞いてやることだなぁっ! ハーハッハッハッ!」
こだまする
最後の願い。彼女の。
そんなの、わかっている。
「フィー、ここにいるぞ! 俺はここにいるっ!」
腕へ爪を立てる無遠慮な力に、痛みも忘れて
変色する彼女の顔。
それがやがて、緩み始めた。
「っ! フィー!」
あえいでいた口は静かになっていき、瞳から光が失われていく。何も見えず、聞こえてもいない様子。なおも失われ続ける血。頭に浮かぶ手遅れの文字。
彼女はもう、助からない。
「なんで、お前が……お前が死んでいいわけねぇだろ!?」
自分も願ったこと。自分がやつに、願わせたかったこと。
だから、自分がすべきことはわかっていた。
「ここまで来て……こんな、なんでっ…!」
その苦しみから、一刻も早く解放してやること。
「フィー……フィー…!」
頭をもたげる不穏な考えから目をそらすべく、スヴェンはうつむいた。フィーの首元へ深くうなだれ、腕の中にいる彼女を抱きしめた。だから彼の耳のそばには、彼女の紫色となっていたくちびるがあった。
そのくちびるが、何かを伝える。
絶え
しかしその口は、はっきりと動いた。
「こ……ぇ…」
コロして、と。
その意思はスヴェンに聞こえず、彼はフィーを抱きしめ続けた。
※
だからそれは、
「フィー……頼むよ、フィー…」
(……あれ?)
もしも彼が強い心で決断していたら、なかったもの。仮死状態で眠る
きっと悲劇に必要なのは、愛する二人が交わす最後の時。別れの
「俺を、独りにしないでくれ…」
(聞こえる……スヴェンの、声…)
それを、フィーは得た。
(なんで…? 私、今……)
頭を落ち着かせようとすると、先ほどまで感じていた痛みがぶり返してきた。しかし、我慢できないほどではない。浮上した意識に引っかかっただけ、という感じだ。息苦しさも和らいでいる。フィーはどこか夢見心地の気分で、すすり泣くスヴェンに抱かれ続けた。これがもしや、死ぬ直前にひと時だけ回復するという人体の不思議だろうか。
——ポタッ…。
いや、違う。フィーは自然とそう感じた。
「誰か、誰か……」
——ポタッ…。
彼の涙がこぼれ落ち、首元をぬらす。全身へと広がる温もり。血が沸き肉が踊り、それに生かされている感覚。
同じだった。ケイトの時と。
しかし、フィーは気付いた。さらに、もうひとつの事実にすら。
それは
(? 傷が、ない…?)
抱きつかれた状態ではスヴェンの首筋しか見えなかったが、そこにあるはずの火傷のようにただれた肌が見当たらない。水と汗、それに血でぬれてはいるがきれいなもの。そもそも彼は動けるような状態ではなかったはず。どうしたことだろう、これは。
ぼんやりと考えるフィーの頭に閃くものがあった。それは、あの不思議な少女リズの傷ひとつない姿。そのことについて、深刻そうな表情をするジン。結びつく事象。
導き出したのは、彼女なりの答え。
(あぁ、そっか…)
フィーは死の
己がやはり、ただの村娘であったことを。
(やっぱり、私じゃなかったんだなぁ…)
(……いや、そんな柄じゃないよね)
フィーは弱々しい笑みを浮かべた。
そして、王子様にしては荒っぽく——
「助けてくれよ、神様…」
——なんとも似合わないセリフを吐く自分の勇者の名を、含み笑いでささやいた。
「スヴェン…」
「っ!? フィー?」
首筋にうずまっていた顔が起き上がる。ぐしゃぐしゃだ。ポロポロと、涙の雨が降ってくる。カッコ悪い。
けれど、なんて愛おしいのだろう。
「お前、具合は…?」
泣き
「神様、だなんて……らしくないよ…」
血が足りないのか。気だるく、力が入らない。胸も痛い。それでもなんとか上げた手をスヴェンの頬へたどり着かせると、フィーはそのこぼれる涙をぬぐってあげながら、こてん、と彼の胸へ頭を寄せた。それだけで疲れきってしまったその身を、彼の腕に預けた。
背中から回って肩を掴む彼の手が、キュッ、と固まる。
「なんだっていい、神様でも悪魔でも。魂どころかケツの毛までむしり取られたってかまやしねぇ」
くしゃりと歪む表情。泣き顔。笑っているつもりなのかも。下品な冗談は見事に失敗。
「だからさ、フィー……」
そしてまた、ポロポロと落ちてくる涙。せっかくふいてあげたのに。
「お願いだから、死なないでくれよ…」
しょうがない人だなぁ、と思った。そんなこと言われても困るし、誰が好きで死ぬものか、まったく。情けなくて、カッコ悪くて――――ますます、好きになってしまう。そんな自分にフィーは呆れて、思わずクスリと笑った。
同時に、ホッとしていた。
「ねぇ、スヴェン…」
彼の頬をさする。泣いてのどが引きつり、うまく返事ができないその姿を見て、心の底から思う。
聞かれなくて良かった。
「キス、して…?」
コロしてなんて。
こんなに、弱い人に。
「……いや、それは…」
「ダメ…?」
「そういうわけじゃ————っ! フィー!」
せきこむと、スヴェンが驚きの声を上げた。おおげさだなぁと思ったが、彼の頬から離した手で口を覆うと、赤く染まった。吐血だ。
あぁ、やっぱりダメか。
「ごめん、私――」
汚いよね、という言葉をのみこむ。影が覆い被さってきたからだ。
突然口をふさぐようなことはなく、スヴェンは指の背でフィーの頬をさすりながら、口の端からあふれていた血をすくい取るようにぬぐった。くすぐられる熱と期待。それを冷ますため、ゆっくりと与えられる時間。見つめる黒い瞳は穏やかで、心が静かに準備をする。
少しもどかしかったりもした。ケガ人を興奮させないための優しさなのだろうが、フィーは思わずねだるようにスヴェンの
うれしかった。それにもったいなくて、目は開けたままにした。彼は何も言わなかった。
絡み合う視線。小さな息遣い。指先でそっと、支えられるあご。
やがて顔が認識できなくなるほど近寄ると、二人はどちらからともなく、互いにゆっくりとまぶたを閉じていった。
そして、暗い幕が下りる寸前。
「フィー…」
もれた声。自分の名。あふれた想いをこぼさぬよう、重ねられたくちびる。
暗闇は死に近かった。けれど、怖くなかった。
自分の名を愛おしそうに呼ぶ彼の声がいつまでも耳に残り、手放しそうになる感覚がすべて、優しくついばまれたくちびるに宿っていた。
軽く触れるだけの優しいキスなのに、深く、深く、彼を感じた。
(――――あぁ…)
涙をこぼしながら、フィーはすぐに離れようとするくちびるを追いかけた。彼のシャツを掴み、支えられていたあごを自らの力で上げる。
不思議なことに、体を動かせるほどの活力が戻っていた。
(私、生きてる…)
先ほどよりも少し強く押しつけてみるも、彼はすんなり受け入れてくれた。
(私、まだ生きてるんだ…)
柔らかかった。幸せだった。満たされるものがあった。
(ちゃんと、好きな人と、生きてるんだ…)
ずっと、こうしていたい。何度だってしたい。この先も、彼と。それが叶わぬ夢だとすぐに悟り、切なさが少しだけ涙に混じる。
決して自らは離れようとしないそのくちびるをさらに強く押し、軽く音を立てて別れを告げる。戻った視界に映る顔。火に照らされた、彼の泣き顔。
カッコ悪いなんてもう言えない。自分も、泣いているのだから。
「……すごいね、キスって」
フィーは静かに見下ろしてくるスヴェンと、しっかり視線を絡めながら伝えた。
「幸せで、なんか、胸いっぱい……傷も、ふさがっちゃったみたい」
ほほ笑みながら、自らに開いた胸の穴を手で覆う。血は相変わらず流れていたけど、痛みはもうなかった。
彼が手を重ねる。
「うん、そうだな……きっと大丈夫、大丈夫だ…」
言い聞かせるように唱えた彼の言葉が、涙とともにポツリ。
フィーはゆっくりうなずいた。
「うん、大丈夫。私、すごく幸せなの。だからね、スヴェン……」
「? なんだ?」
「……忘れてくれて、いいからね?」
「え?」
最後に彼女は、密かに憧れていた
「全部、忘れて……幸せに、生きて、ね…」
本当は、そんなこと言われても納得できなかったけど、今ならわかる。
わかるよ、ケイト。
こんなに泣かれたら——
「……フィー?」
——そう言いたく、なっちゃうよね。
「おい、フィー……ダメだ、ダメだっ! 行くなっ!」
急激な眠気に襲われ、視界が再び暗い幕に覆われていく。スヴェンの叫び声はもう、舞台の幕引きの最中に届く拍手や歓声のようなものにしか聞こえなかった。
「俺を置いてくなよ、置いてかないでくれ! なぁおい、約束しただろ!? いっしょに見るって!」
惜しむ声。ポツポツとこぼれる拍手喝采。薄れる恐怖、満たされる心。悔いはない。
けれど、ひとつだけ――
「砂浜みたいな星空を、二人でいつかいっしょに見ようって……お前の故郷でって! 約束したじゃねぇかよっ!」
――そして、残酷なアンコールの幕が上がる。
「っ! フィー、しっかり――」
「パパ…」
開いた視界には、一面の星空。故郷の夜空。
浮かぶのは、少し頑固な父の顔。
「? おい、フィー…?」
「ママ…」
いつも優しい母の顔。
手を伸ばす。
「ルゥ…」
大好きな、妹の顔。懐かしい家。
手が、上がらない。届かない。
「おうちに……」
いやだ、いやだ、いやだ。
いや、ダ。
「帰り、タ――」
※
――パシャ…。
手を伸ばしたが、届かなかった。自らが作ったその血だまりに落ちるフィーの手を、スヴェンは見送ることしかできなかった。
光のない目を遠くへ向ける腕の中の彼女を、彼はただ呆然と見つめた。
広間を照らす
ウソだよ、と。彼女がまた、笑ってくれる気がして。
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