8 始まりの場所②

「殺されねぇだけありがたく思え」


 死んでないんだ、あれ。つばを吐き捨てるスヴェンに、フィーは冷や汗を垂らした。

 すると突然、腰回りに圧迫感が。



――ガシッ!



「へっ?」


 続いてヒョイッ。

 足が浮き、腰を支点に前のめり。


「あれ――――っ!?」


 倒れた上官へ駆け寄る四人の兵士の姿が視界の端から消え、景色が後ろへ流れていく。顔面にぶつかる空気、暗闇。狭い階段を駆け上がる音。

 見上げれば、軽々と自分を小脇に抱えるスヴェン。


「お、下ろしてよ! 自分で走れ――」

「うるせぇ! ジタバタすんな! 黙ってジッとしてろ!」


 人さらいのようなセリフに鼻白み、フィーは大人しくるされておくことにした。

 そしてすぐ、その異常さに気付いた。


(え、速っ…!?)


 激しく揺れる視界。暗い足元へ目を凝らすと、スヴェンの足が段差をものともせずに一段飛ばし――――いや、二段飛ばしだ。人ひとり抱えながらのその芸当は、間違いなくフィーが自らの足で走るよりも速い。そんなバカな。

 今さらだが、魔素粒子結晶エーテクリスタルがあふれるあの洞窟では、あんなに辛そうだったはずなのに。


「ス、スヴェン、なんか、そのっ……げ、元気だった!?」


 ガクガク揺れる中で口にした戸惑い――気まずい再会のあいさつふう――に「舌かむからしゃべんな!」と返される。意気消沈するも、さらなる加速に広がる混乱。ついに三段飛ばし。いったいどうなって。

 そんなフィーをよそに、長い階段は早くも終わりを迎えようとしていた。


「おい、出口だ!」

「! ホント――――ウソッ!?」


 どっちだよ、と言わずに舌打ちだけこぼしたのは、スヴェンも状況を把握したからだろう。

 いつの間にやら夜明け前。外から薄明かりを差しこませる、ぽっかりと開いた四角い出口。



――ゴゴゴッ…。



 それが今まさに、閉じられようとしていた。

 遠隔操作リモートか。


「スヴェン、急いでっ!」

「わかってらぁっ!」


 気合注入ファイトイッパツ。体感速度は未知の領域へ。小脇に抱えられたままのフィーは絶叫をこらえるだけで精いっぱいになった。

 そのおかげですぐたどり着くも、音を立てて横へゆっくり動く壁がすでに半分以上の出口をふさいでいる。人ひとりギリギリ通れるか否か。

 あぁ、その隙間すら、もう――



――ガッ!



 その光景を見た瞬間、んな無茶な、と口にしてしまいそうだった。

 しかし、彼は成し遂げた。壁に手を掛けて止めたのだ。「――――ンギギィッ…!」と真っ赤な顔で奇声を上げるその必死さはやや滑稽こっけいにも見えるが、そんな姿ですら「ちょっとかわいい」などと思ってしまう、げに恐ろしきは恋の病なり。

 って、言ってる場合か。


「おい、フィー…! ここ、通れないか…!?」


 スヴェンが足を踏ん張り、両手で引っ張るその壁へ、踊り場に放り出されていたフィーはすぐさま取りついた。

 目を凝らしながら懸命に探る。


「おいコラッ、聞いて――」

「あった!」


 すぐにわかった。やっぱり同じだ。

 中央の弧線、魚のような図形を描く認証操作。


「スヴェン、ここ! さっきみたいに手を置いて!」

「お前にゃこの状況が見えねぇのか!?」


 足の片方を前方の壁へつけて突っ張り棒に。伸びきった腕と体の向きはほぼ真横。全身プルプル。片手を離すだけで均衡は崩れてしまうだろう。無理か。

 しかし、認証可能なことさえわかってしまえば、あとはこっちのものなのだ。


「ちょっとだけ! ほんのちょっとでいいの! 指の先っちょだけでいいから!」

「……わかったからその言い方やめろっ!」

「? 言い方?」

「あぁ俺が悪かったよくそっ!」


 謝りながら怒るスヴェンに理不尽さを感じるも、その手が一瞬だけ動いたのをフィーは見逃さなかった。

 その代償に、狭まる壁の隙間。均衡はすぐに戻るも、もう通れそうな幅ではない。

 それでも反応さえあれば開けるも閉めるも自由だったのだが、残念ながら文字列ルーンラインは浮かび上がってこなかった。


「……なんで…?」


 たとえ一瞬だけでも反応があるはず。なのに、ない。認証できていない。

 一度閉まったら、もう開けられない。


「おい、フィー…!」

「ちょ、ちょっと待って! なんで、どうして…!?」


 フィーは慌てふためき、動こうともがき続ける壁を入念に調べ始めた。しかし調べれば調べるほど、スヴェンが開けられた扉と同じタイプだとわかる。

 あっちは良くてこっちはダメ。何か、理由が――


「――まさか…」

「何か、わかったのか…!?」

「た、たぶん、遠隔操作リモートを可能にするために、丸ごと変更しちゃったんだと……」


 新たに魔力波長マナパターンを登録したのでもない。書き換え、上書き。乗っ取りハッキングたぐい


「つまり、どうにもできないってことか…!?」


 そう、これはだ。フィーは真っ青な顔でうなずいた。

 壁と引っ張り合いを続けながら、スヴェンが口に入った汗とともに言葉を吐き捨てる。


「くそっ…! こっちはそろそろ、限界だってのにっ…!」

「……もう、いいよ」

「! そりゃ、どういう意味だっ…!」

「手、放そ? スヴェンはもう十分、頑張ったよ」


 ストン、と肩の力が抜ける。

 不思議な気分だった。諦めたとたん、なぜか心が軽くなった。もう頑張らなくていいんだと安堵さえした。それよりも今は、敵がいつ上ってくるかだ。

 できれば少しでも長く、スヴェンと最後の時間を過ごしたい。この先できなくなってしまった恋人らしいことをしてみたい。

 そして脳裏をよぎる、ジンからの助言アドバイス



――キスしたきゃ、自分からせがむんだな。



 せめて、思い出が欲しい。

 フィーはいまだ諦めようとしないスヴェンへ近寄った。もう休んでほしくて、こちらを向いてほしくて、その体に触れようとした。

 しかし彼に、はさらさらなかった。


「――――ざけんなっ!」


 ビクッ、と手を引っこめる。


「こんなとこでお前を死なせたら、俺は、なんのためにここまで来たんだっ…!」


 グググッ、と力を入れるスヴェン。こめかみに浮き出た血管へ、額から汗が流れ落ちる。


「教官になんて言えばいい…! ジンに、何回謝る気だよ…!」


 そして、フィーは気付いた。こちらに言っているのではない。彼は、自分自身へ叫んでいるのだ。


でケイトに、どのつら下げて会えってんだ…!」


 限界を迎えるその体へ、まるでムチを入れるように。

 しかし無情にも、踏ん張りを見せていた足は引きずられ、突っ張り棒の足も折れてしまう。壁に掛ける手の指がいよいよ挟まれ、潰されてしまいそうだった。


「スヴェン! 危ないからもう――」

「だいたいなぁっ…!」



――ビキッ…!



 はち切れんばかりの血流。浮き出る血管が、さらに浮き彫りに。


「俺だってまだ、触って、ねぇんだよっ…!」

「……え、何を?」

「それをあんな、ゲス野郎どもなんかにっ…!」


 明らかに話が変な方向へ飛んだのだが、スヴェンの中ではちゃんとつながっているらしく、そして彼は目をしばたかせるフィーの前で雄叫おたけびを上げた。

 それは正しく、の叫びだった。


「好き勝手、触らせて……たまるかぁぁぁっ!」


 ちょっと意味がわからない――鈍感ではなく、こんな状況で何言ってんのこいつ感――フィーだったが、次の瞬間には目が点となった。

 曲がった膝、折れた突っ張り棒が再び伸び、丸くなっていた背中が弓なりに。全身それバネがごとく扉を引っ張ると――



――ゴガガッ!



 差しこむ薄い光明が、その幅を少し広げた。これが男の意地か。

 口をポカンと開けながらそんな言葉で済ませていいものか悩んでいると、もがく壁の音に紛れて階段を駆け上がる足音が聞こえた。

 敵だ。


「スヴェン、頑張って!」


 諦める選択肢が頭の中から飛んでいき、フィーはもはやしゃべることすらままならない様子のスヴェンをなんとか手伝おうと、彼の体を後ろから引っ張った。むしろ邪魔だった。

 それでも忙しなく動きつつ「頑張れっ!」と応援し続けるも、下から迫る足音がはっきりと聞こえ始める。募る焦り、むしばまれる恐怖。

 突っ張る足の下をくぐり、いっしょに壁を動かそうと手を掛けたところで、スヴェンが苦しげに尋ねる。


「そのまま、通れねぇか…!?」


 体を横にすればギリギリ。しかしこれだけだと、スヴェンの滑りこむ隙間が。


「あとちょっと! あとちょっとだけ頑張って、スヴェン!」


 外へ出たとて自らにできることなど何もないと判断し、フィーはその場で「うーんっ!」とうなりながらスヴェンとともに壁を引っ張った。しかし、なんの助力にもなっていない。それが普通。彼が異常なのだ。そんな彼でも、それ以上こじ開けることは不可能なようだった。

 迫る時間切れタイムアップ



――パシュッ…。



 遠くから聞こえた発射音に振り返るまでもなく、目の前で弾ける光。「キャアッ!」と大きな悲鳴を上げながら腕で顔をかばうも、魔素粒子エーテルの弾丸で砕かれた壁の欠片かけらがその合間を縫っていくつかフィーに襲いかかった。


「フィー! 大丈夫か!?」

「う、うん、平気――――あ…」


 頬は細かく切れていたが、眼球は無事。欠片かけらがめり込むといったこともない。

 その代わり、肩まで伸ばした赤毛が一房、焼けたようにちぢれ落ちていた。弾丸の軌道上に入っていたらしい。紙一重だと安堵すべきか、失ったことをなげくべきか。

 心が決めかねている間に、階下から声が流れてくる。


「逃げ――――いな」

「慎重――――うせ袋の――――」


 まずい。フィーは自らの髪のことなど忘れて再び壁へ取りついた。今のは確認のための試し撃ちだったようだが、追い詰められてから撃たれたらひとたまりもない。急いでもっと隙間を広げなければ。

 だというのにスヴェンは、壁を引っ張ることなど気もそぞろにこちらを見つめてから、階下へ怨嗟えんさの眼差しと声を向けた。


「よくもっ…!」

「! スヴェン、後ろはいいから! こっちに……って、あれ?」


 ただでさえギリギリなのに、集中を欠かれては。そう思ったのだが、逆にむしろ隙間が広がっていた。ほんの少し。見間違いとも取れる程度だが、確実に。もしかしたら自分の力かもしれないと勘違いしたフィーはより一層のうなり声を上げ、さらにその隙間を押し広げようとした。

 だから、気付けなかった。彼女の頭上で、スヴェンが上の空だったことに。

 それはあの洞窟を出た直後。自らの調子を確かめるように拳を作っては解くという挙動を繰り返した時と同じ。場合ではないと自己完結する前と、同じ表情。

 彼が名を呼ぶ。


「フィー」


 必死で、だから、気付けなかったのだ。


「んーっ! 何っ!? 今、それどころじゃ――」

「わりぃ」


 その声が、妙に晴れやかだったことに。



――グイッ。



「――へっ?」


 わずかに痛む首根っこ。浮遊感。

 急に隙間が広がったと思った瞬間にはすでに、フィーは空中へとその身を投げ出していた。投げ捨てられていた。

 まるで、室内へ入りこんだ野良猫を排除するかのように軽々と、彼女は扉の外へと放り出されてしまった。


(なっ――――)


 宙を泳ぐ体。外の薄明かりに染まる視界。目に飛びこんでくる、扉の細い隙間。

 暗闇から掛かる指は片手分だけ。すぐに加勢し両手になるも、閉じる勢いが止まらない。


(――――なんで?)


 横向きで見ていたフィーには、その指が崖からい上がろうとする人のもののように見えた。

 手を伸ばす。だけど、届かない。遠ざかる。いやだ、待って。

 やがて、力尽きるようにその指は滑り落ち――



――ゴゴゴ……ゴンッ…!



――閉ざされた闇の向こうへと、消えていった。


「――――っ! あっ…!」


 硬い石畳の上で跳ねた体が砂ぼこりを上げて止まると、すぐにフィーは身を起こした。痛みも忘れて辺りを見回す。

 夜明け前の古城跡。かつての最終試験の舞台。そこで繰り広げられた二人の闘い、スヴェンとアルフレッドの決闘場所。大きな中庭の四方をぐるりと囲む三階席までの廊下はところどころ崩れており、そしてここは、眠るリズに自分が膝枕をしていた比較的きれいな廊下だ。

 少女が飛び起き、逃げこんだはずの隠し扉は、継ぎ目のないただの壁に戻っていた。


「……なんで…?」


 ふらりと立ち上がる。

 片手で人ひとりを放り投げる、人間離れした膂力りょりょく。それを発揮する、不可解なタイミング。

 どうでもいい。


「どうして…?」


 よろめきながらも一歩ずつ近寄り、フィーは扉だった壁へすがりついた。

 何も聞こえない。分厚い。感じるのは、きれいに整えられた石の壁の冷たさだけ。

 スヴェンがいない。感じられない。


「……離さないでって、言ったのに」


 擦りつける額。こぼれ落ちる涙。

 悔しい、苦しい。


「離さないって、言ったくせにっ!」


 ウソつき。

 フィーは冷たい壁へ拳の底を何度も叩きつけた。罵倒ばとう混じりに何度も何度も、愛しい人の名を呼んだ。

 何が『わりぃ』だ。


「バカッ! 大バカッ! スヴェンのバカ――――ッ!」


 その悲鳴にこたえる声は、どこからも聞こえてくることはなかった。




 扉が開かない。その事実にフィーが気付いたのは、のどがかれて泣き疲れ、その場へ崩れ落ちてしまった時だった。

 のではなく、開かない。。つまり、自分を追走していない。

 それは可能性の話。もしも敵がスヴェンを追い詰めてあっさり撃ち殺していたのなら、取り逃がした女の追跡へすぐに移っているはず。なのに、これだけっても扉を開けて追ってくる気配がないということは、スヴェンはまだ生きているのかもしれない。

 いや、きっと生きている。フィーはそう信じて顔を上げた。そして時間を無駄にしてしまったことを戒めるように、自らのぐしゃぐしゃな泣き顔を両手で叩いた。



――パシンッ!



 頬の傷は痛むが、スヴェンは今もっと痛がっているかもしれない。

 自分にできることは。彼の思いを尊重してこの場から逃げ出すこと。ケイトの時といっしょで、そんなことしかできないと泣いて諦める選択肢。二度とごめんだ。そもそもあんな『わりぃ』で簡単に済ませようとするやつの思いなど尊重してやるものか。

 だから、もうひとつの選択肢。フィーは首に下げていた呼び笛を取り出した。スヴェンがくれたもの。これを吹けば、彼の仲間が駆けつけてくれるという。そんなうまい話があるのかと疑ってしまうものの、今はこれに賭けるしかないと思い直し、彼女は大きく息を吸いこんでその笛を吹いた。

 笛は、鳴らなかった。

 それは人に聞こえぬ周波数を発する犬笛と同じような性質をもったもので、より正確に言うと忍者個人を呼び出す笛だった。どれほど離れていても対となる忍び――今回の場合はもちろんシズクだ――にだけ聞こえるその仕組みは、よく見れば帝国の魔素粒子循環エーテリング光速通信に似通ったものがあり、平時の彼女ならば気付けたはず。

 しかしフィーは、スヴェンがした説明も頭から飛んでしまうほどに、冷静ではいられなかった。

 笛が鳴らない。誰も来ない。助けはない。

 スヴェンが、死んでしまう。

 その場へ座りこみ、フィーは何度も笛に息を吹きこんだ。決して鳴らぬ笛を、顔を真っ赤にし、再び泣き出しそうになりながら吹き続けた。

 誰でもいい。誰か、彼を助けて。そう祈りながら吹いた。

 そして、彼女の祈りは通じた。



――ザッ…。



 遠い足音。明けた夜の朝靄あさもやを進む人影。こっちに来る。フィーはやや警戒した。

 しかしその人影が姿を現すと、彼女は怪訝けげんそうにしていた目を一瞬で大きく見開き、驚きの色をたたえた。


「あなた、まさか――――」

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