4 線の向こう

 魔素粒子結晶エーテクリスタル。それはあらゆる魔導技術マギオロジーのエネルギー源であり、とある特定の場所でしか採掘されない貴重な鉱石。

 それが左右の壁、そして天井のそこかしこに埋まる洞窟を、フィーは息を切らして必死に走っていた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ――――」


 淡い緑の光で染まる壁や天井はごつごつしていたが、足元は歩きやすいように石畳が敷かれている。人が掘ったのは間違いないが、採掘場にしては無駄な気遣いだ。やはり過去、身分の高い人間が使うための脱出路だったのかもしれない。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ――――」


 昨今、軍備の拡張や日常生活レベルでの魔導技術マギオロジーの普及によりエネルギーの将来的な枯渇こかつが叫ばれる中、ここは軍人や研究者たちの垂涎すいぜんまととなるだけにとどまらず、内政を司る帝国上層部をも喜ばせるものとなるだろう。暗い洞窟内を昼間のように明るく照らす淡い緑光の結晶はその量だけでなく、いずれも拳大ほどの大きさまで備えていた。目に見えている分量だけでもおそらく、エネルギーの枯渇こかつ問題を十年は先延ばしにできる。世紀の大発見と言っても過言ではない。魔導技師マギナーの端くれであるフィーならば本来、感動に打ち震え、泣いて喜ぶところだ。

 しかし今の彼女は、という仮定すら思い浮かばぬほど、一心不乱に走り続けていた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ――――あっ…!」


 足を取られて前のめりに。石畳へ強かに体を打ちつけ、手元から離れて転がる銃。サラの形見である回転式拳銃リボルバーだ。腹ばいのまま慌てて銃を掴んだところで、フィーはせきを切ったように泣き出してしまった。

 痛みや疲れ、悲しみ、さびしさ、絶望感。一気に押し寄せる荒波のごとき感覚、感情。少しだけ余っている袖で涙をぬぐうも、その上衣ジャケットの本来の持ち主のことを思い出してさらに涙腺るいせんが崩れる。


「……ケイト…」


 口に出しては泣き、先ほどの別れを思い出してはさらに泣く。もう立てない。フィーは上半身だけ起こして、その場に座りこんだ。しゃくりあげながら小刻みに肩を上下させ、ぐしゃぐしゃな泣き顔そのままに振り返る。

 まっすぐの道。途中、いくつか曲がる箇所もあったが、ひたすら直進してきたフィーにはもうケイトと別れた井戸の底を肉眼でとらえることはできなかった。

 それでもまだ、追いかけてきてくれるのではないか。そんなあり得ない希望を捨てきれずにいた――――このに及んで。

 そんな自分が、嫌だった。

 グッと涙をこらえるも、のどの引きつけは抑えられず、まるでしゃっくりを我慢しているかのように肩が波立つ。息苦しさのせいか、余計に涙もあふれてきた。何をしても逆効果。フィーは己の情けなさにポロポロと大粒の涙をこぼした。

 その涙が突然、ピタッ、と止まる。聞こえた気がしたのだ、足音が。

 石畳へガバッと耳をつければ、やはり足音が聞こえた。



――ダダダッ……。



 だけど、複数。ケイトじゃない。フィーは絶望のふちに突き落とされた。

 時間稼ぎをすると言って残ったはずの彼女は、もう――


(――泣いちゃダメ、止まっちゃダメだ…!)


 ギュッとその身に着ていた彼女の上衣ジャケットをわし掴み、破裂しそうな心臓の鼓動を上から押さえつける。そしてフィーは弾かれたように立ち上がり、その場から逃げ出した。再びこぼれ落ちようとしていた大粒の涙をぬぐわぬまま。

 自分に向かって泣き叫ぶ彼女の声が、今もまだ、頭の中でこだましていた。




 足音が近付いている気がして、フィーはとっさに十字路を左へ曲がった。したる考えは特にない。ただ、怖かっただけ。とにかく身を隠したかったのだ。

 その選択をひどく後悔したのは、曲がってからの一本道を少し走った後のこと。


「! そんなっ…!」


 行き止まり。段々と狭くなっていた道幅はやがて、人がって進める程度の穴でしかなくなっていた。しかも、その先はない。掘削作業を途中でやめてしまったかのような場所。


「ど、どうしよう…! どうしよう…!」


 動揺して頭を抱えるも、すぐさま来た道を引き返す。その足元は壁や天井と同じ岩肌で、石畳は敷かれていない。

 少し考えればわかることだった。あのまっすぐに敷き詰められた石の道が、出口への道順だったのだ。なんてバカなことを。

 けれど、まだ間に合う。そう信じて十字路まで引き返すと、敵の姿はまだなかった。

 良かった、これで――


「待て」


――飛び出そうになる心臓。フィーはとっさに口をふさいだ。


「どうした?」

「さっきから、足音が消えている」

「何?」

「確かに、言われてみれば……どう思う?」

「出口にたどりついたか、たぶん道をそれたんだろう」


 十字路の角に身を隠して様子をうかがう。

 声は三つ。距離は遠い。洞窟内に反響してよく聞こえるだけ。今すぐ飛び出せば、まだ逃げ切れるかも。

 それを試す勇気はなかった。


「じゃあここからは、しらみ潰しに捜すか」

「あの十字路で別れよう。俺は左、お前は右だ。直進ルートはそのまま出口を目指して、分かれ道があったらその場で待機。痕跡こんせきを見つけたらすぐに知らせろ」


 逃げなきゃ。行き止まりだけど、せめて奥に。

 けれど、足が震える。腰が抜けそう。フィーは息をすることも忘れてその場にペタンと座りこんでしまった。

 そして、敵の会話にハッとする。


「待ち伏せされていたらどうする?」


 待ち伏せ。

 己の手にしっかりと握られていたサラの銃へ、うつろに視線を落とす。


「各自で対処するしかない。ここで逃がすほうがまずいだろ?」

「チッ……魔素粒子結晶こいつらの影響で、通信機も使えないみたいだしな」


 そうだ、待ち伏せだ。ガタガタと震える両手で銃を握りしめる。

 出合い頭に、襲う。撃つ。


「何かあったら叫べばいい。ここならある程度離れても聞こえるはずだ」

「それもそうだな」


 人を殺す。そう思ったとたんに、震えがより一層ひどくなった。静まれ、静まれ。

 あいつらを、殺すんだ。


「それじゃあ急ぐぞ。足音はひとつだったが油断するなよ」

「了解」


 近付く足音。い寄る恐怖。

 フィーは回転式拳銃リボルバーを固く握った。


(あいつらが悪いんだ…)


 みんなを――――サラやケイトを、殺した。


(私が、かたきを取るんだっ…!)


 そう言い聞かせるも、手の震えがとまらない。どうして。叫びたくなる衝動をこらえながら、銃を思いきり握りしめる。

 それでもやはり、震えは止まってくれなかった。


(なんでよっ!)


 ブルブルと震える銃を持ち上げ、眉間みけんへ押し当てる。

 まるで、祈るように。


(あんなやつら、死んで当然なんだっ!)


 悪いのはあいつら。自分は悪くない。仇討ち。らなきゃられる。

 ギュッ、と強く目をつむる。冷たい銃の感触。まぶたの裏にはみんなの顔。野ざらしで、雨の中に打ち捨てられていたいくつもの死に顔。

 そして、大好きなサラ。姉のように慕っていた人。命を投げ打ってくれた人。

 奪ったのは、あいつらだ。


かたきを取る……)


 ふつふつと、湧き上がる怒り。乱れる呼吸はうなり声に。


(見てて、ケイト…!)


 自分を守ってくれた人。最後まで、助けてくれた人。

 抱きしめてくれた感触を今でも鮮明に覚えている。愛の告白でもされたのかと思った。

 彼女はあの時、自分になんて――


(きっと、あいつらを殺して――)



――無理、しなくていいんだよ。



 パチ、とフィーは目を見開いた。



――あんたはさ、そのままでいてよ。



 呆然自失。ゆっくりと下ろす祈り。止まった震え。

 あぁ、自分は今――


「……できない…」


――言い訳を、探していたんだ。


「人殺しなんて、できないよぉ…」


 うつむいたフィーは己の愚かさを恥じ、涙をポロポロとこぼした。

 募る罪悪感。自分を守ってくれた二人を裏切った気分。それでもサラとケイトなら、きっと許してくれると理解していた。そんな自分が腹立たしかった。

 そして、感傷に浸る暇は――――もうない。


「……誰だ?」


 ビクッ、とした拍子に銃を取りこぼす。硬い地面と奏でる小気味良い音が無常にも響き渡り、敵へと確信を与えた。


「そこから出てこい」


 警戒し、ゆっくりばらける足音。近寄ってくる。


「大人しく出てくるなら――」


 声が出せない。逃げられない。

 怖い。


「――楽に、殺してやる」


 フィーは心の底から震え上がった。その気配を察してか、警戒していた足音が、動かなくなった獲物を回収しようとする狩人のそれに。耳の奥で響く呼吸音が遠のき、過敏になった聴覚がその軽くなった足音を拾う。あぁ、もうダメだ。

 パパ、ママ、ごめんなさい――――許して、ルゥ。家族の顔を思い浮かべ、先立つ不幸を詫びたフィーは、最後に恋人の顔も思い浮かべた。スヴェン。視線が自然と、彼とおそろいの腕時計へ落ちる。

 そこで、初めて異変に気付いた。


「……? おい、聞こえるか?」

「何が――――って、あぁ…」

「足音? 誰か走ってくるな」


 時を刻まず、彼の在処ありかを示すひとつだけの短針が、大きく動いている。いつもはビタッと遠い場所にいる恋人の方角を指すだけなのに。

 一瞬、理解が及ばなかったが、それの意味するところはただひとつ。


「あれは……応援にでも来て――」


 彼が近くにいるということ。



――ドゴォッ!



 その音に思わず顔を上げると、視界を何かが横切った。

 吹き飛ぶ人影。石畳に沿って真横へ飛び、かなり遠くへ。被っていたヘルメットが粉々になり、首があり得ないほど曲がっていた気がする。

 そしてすぐに、残った二人の狼狽ろうばいする声と銃声が鳴り響いた。


「な、なんだこいつはっ!?」

「いいから撃て! 撃ち殺――」


 しかしそれも、すぐにやんだ。



――バキャッ!



 割れた石畳。まともに聞き取れたのはそれだけ。

 その後はどれも、生理的に受けつけない音ばかり。



――ゴッ、ゴッ、ゴッ……。



 硬い何かがぶつかる音。合間に響く砕ける音、千切れる音。

 小さなうめき声。


「ぁ、ぅ……」


 途切れる悲鳴。


「も……やめ――」



――グチャッ。



 柔らかく、潰れる音。

 一部始終を物陰で聞き届け、フィーは目を見開き、真っ青な顔をして体を丸めた。先ほどとは違う根源的な恐怖と嫌悪。鉄さびの匂いに、催す吐き気。

 濃密で生温かい空気が頬をねっとりとなで、死の気配が横を通り過ぎる。



――ビチャ…。



「――――っ!」


 悲鳴を上げそうになった口をとっさに両手でふさぎ、息を潜める。

 血に染まり、変色する黒ローブ。歩くたびに足元の石畳を赤く汚す、死をまとったかのような人間。最初に吹き飛ばした標的へ向かっているようだ。

 目が離せずにうかがっていると、やがてそれは敵兵へ馬乗りになり、おそらくもう事切れているであろう相手の顔を何度も何度も殴り始めた。

 ビクッと反応する投げ出された手足。ぐちゃりと潰されていく頭部。後ろには、もはや人の形を成していない二つのむくろ。血の臭い、死に満ちた空間。

 その中を、フィーはフラフラと歩いた。死そのものにも見える後ろ姿へ、光に誘われる羽虫のように。

 なぜなら、彼とおそろいの腕時計のたったひとつの短針が、ずっとそちらを指し示していたから。


「……スヴェン?」


 揺らぐ声で名を呼べば、ピタリと止まる振り上げた拳。したたる赤いしずく

 そしてピクリとも動かなくなった亡骸なきがらへまたがったまま、ゆっくりとこちらを振り返るその顔は、血に染まっていた。

 フィーは腰が抜けて、赤く汚れた石畳の上にへたりこんだ。


「フィー、か…?」


 真っ赤に染まる顔。返り血にぬれた、愛しいはずの人の相貌そうぼう。フィーはそれがスヴェンだと認識できず、恐怖に見舞われながら後ずさった。

 それでもかまわずに近寄る、死をまとった青年。伸びてくる手。


「お前、生きて…!」


 その手は顔同様に血塗られていて、しかしそれだけでなく、肉や骨の破片すらもこびりついている気がして。

 息を詰まらせて涙ぐむ相手の様子も目に入らず、フィーは小さな悲鳴を上げてさらに後ずさりながらその手を振り払った。



――パシッ。



 反響する乾いた音。顔をぬらす血しぶき。

 そこで初めて相手がスヴェンだと気付き、フィーは放心した。自分は今、何をしてしまったのか。

 ひどい後悔と焦りが募るも、怯えた瞳はそのまま。


「ご、ごめっ…!」


 バケモノ。彼をそう呼ぶ人間たちと、同じ瞳の色。浮かぶ恐怖。

 固まっていたスヴェンがゆっくりと首を振る。


「いいんだ」


 彼は膝をついた。力尽いて手をつき、こちらへ深くこうべを垂れた


「良かった…」


 それはきっと、本心だった。


「バケモノで、良かった…」


 自嘲じちょうするようなセリフが胸に刺さる。そのとげをどうにかしたくても、フィーにはどうすることもできなかった。身を守るように両手を胸に抱き、ただ後ずさりをやめることぐらいしかできない。

 スヴェンがこうべを垂れたまま、こちらへ問いかける。


「ケガは?」

「え? あ……ど、どこも…」

「そうか、じゃあすぐに逃げよう。けど……わりぃ、ちょっとだけ休ませてくれ…」


 つい先ほどまでの暴力的な姿とは打って変わり、精根尽き果てた様子のスヴェン。はたから見ればそれは、自分に許しを請うような格好だった。

 彼に触れたい。けど、身動きができない。金縛りにあう体。

 恐怖に詰まるのどを動かし、なんとか声を絞り出す。


「だ、大丈夫…?」


 それしか言えないことにもどかしさを感じていると、スヴェンが短く返す。


「あぁ。そっちも、ケガはなくても怖かっただろ……って、今怖がらせてるのは俺か」


 力なく笑いながら「わりぃ」と付け足すその弱々しい声に、なんとも言えず。怯えているのは事実だから。

 それを悟られまいと――無駄な努力だとわかってはいたが――顔を上げようとしていたスヴェンにほかの話題を振る。


「あの……みんなは?」


 反応は顕著だった。片膝立ちでピタリと止まり、上げかけていた顔を再びうつむかせ、スヴェンは身じろぎひとつしなくなった。言葉が足りなかったかもしれない。


「ケイトやサラは……もう、わかってるの。ほかのみんなも?」

「……あぁ」

「でも、誰か、生き残りは…?」


 かすかな希望を胸に尋ねるも、スヴェンは静かに首を横へと振るだけだった。

 フィーはとたんに目の前が真っ暗になった。現実感はまだないが、スヴェンの様子を見るに絶望的なのだろう。ケイトやサラだけでなく、ミゲルやチャックも――――と、そこで気付いた。

 そしてふと、口にしてしまう。


「ジンは?」


 ビクッ、と大きく揺れる肩。見えない何かがのしかかったように、丸くなる背中。それだけでフィーにはわかった。漠然とだが、鮮明に。

 彼がどんな思いをして、ここまで来てくれたのか。


「……ごめん」


 自分ではない、誰かに謝る彼。


「……誰も、助けられなかった」


 うつむく顔。こぼれる涙。


「ジンも、誰も……俺は…」


 その瞬間、金縛りが解けた。

 そっと伸ばした両手で涙をせき止めてから、フィーはスヴェンの頬を優しく挟んで上を向かせた。呆けた表情。たくさん、たくさん泣いた跡。

 そして、ザラザラと乾いた血。真新しくぬれた、まだ温かい血。返り血に汚れた彼の顔。

 でも、本当に汚いのは自分だ。


「誰も、じゃないよ」


 指の腹でその血化粧を落とし、ぬぐうように頬をなでる。自らが汚れることもいとわず、彼の頭をギュッと胸にかき抱く。


「私は……助かったよ」


 そんな資格、本当はないかもしれない。


「スヴェンは私を、助けてくれたよ」


 逃げてばかりの弱虫で、あまりにも卑怯な自分に、彼を抱きしめる資格などないのかもしれない。

 けれど、どうか今だけは。


「私がいるよ……私が、いるから…!」


 せめて、悲しみだけでも――――分かち合わせてください。

 知らない誰かにそう祈り、フィーは突然泣き出してしまったスヴェンの顔を隠すように、自らの胸へと強く押しつけた。まるで赤子のように泣きながらしがみつく彼の頭を抱え、静かに涙を流した。

 深い溝も、越えられない境界線も飛び越え、悲劇の終わりに再会した二人は隙間なく抱きしめ合った。

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