3 ありがとう

 スヴェンの背中を目で追うフィー。その横顔を盗み見る自分。

 最悪の夢だ、とケイトは夢の中にいながら思った。



――なんで?



 分不相応な望みだとわかっている。最初から、見ているだけで良かった。こんなに汚くて、不器用な自分では、きっと花なんて枯らしてしまうに決まっているのだから。

 それでも、気に食わない。



――なんで来ないの?



 最初から、というのも語弊ごへいがある。正しくは、再会した時からだ。

 戦場であんな、英雄ヒーローみたいに助けておいて、忘れるなよバカ野郎。



――なんで、助けに来てくれないのさ。



 それから、二度目も同じような状況で。いつもおいしい場面に現れる男。やっぱり、気に食わない。

 それでもいい。



――私の時は来てくれたじゃん。



 もういいから、さっさと助けに来てよ。



――あの子を、助けて。



 リー。



「リー……」


 寝言を口にしながら目を覚ますと、雨がやんでいた。けれど、おかしい。辺りにはまだ雨の音が鳴り響いている。それに、自分はまだ生きているのか。なぜ。

 ケイトは混乱しながらも、上から覆い被さるようにのぞきこんでくる人影に気付いた。あぁ、だから雨が当たらなかったのか。と思いきや、ポタポタと何かが顔にこぼれ落ちてくる。

 そういえば、口の中がしょっぱい。


「……ケイト?」


 これは涙だ。自分の名を呼ぶ彼の。

 闇に溶ける黒髪と、眠たげな目を放心させる青年。雨で洗い流せぬほどの血に染まった、スヴェン・リー。


「ケイト、お前……生きてっ…!」


 今、一番会いたかった人。そして、一番会いたくなかったやつ。

 ケイトはまだ夢を見ている気分で体を動かそうとしたが、とたんに全身へ痛みが走って顔を歪めた。動けない。それに気だるい。なのに不思議と、血の巡りが良くなっているような気分。それに生かされている感覚。なんだこれ。

 起き上がろうとしたこちらの肩をスヴェンが慌てて押さえる。


「無理すんな。俺が連れてくから」

「どこ、に…?」

「そんなもん……治療できるところに決まってるだろうが」


 途中で苦みばしった顔を、ケイトは見逃さなかった。どうやらっぽい。そんな感じはしないけど、妙に納得。心は穏やか。

 彼が、来てくれたからだろうか。


「いいか、動かすぞ? 痛かったら言えよ?」


 まるで壊れ物でも扱うかのように、慎重に体の下へ差し入れられる腕。肩を抱かれ、膝裏を支えられる。お姫様抱っこだ。下手くそな王子様だな、と思った。片足だけ持ち上げるのを忘れているではないか。

 それに気付いたのか、すぐさま手の位置を直すスヴェン。なぜか太ももの裏を支えようとしていた。苦しそうな体勢で、やっぱり下手くそ。ケイトは小さく笑いながらも、その身を預けようとした。

 もう大丈夫。そう思った。来てくれた、やっと来てくれた。抱きかかえられるのはしゃくだが、後は彼に任せよう。人影が横へずれ、小降りになっていた雨粒に顔をさらしながら、ケイトは静かに目をつむろうとした。そして、とても疲れていたので、首を支えてくれている腕へ頭を寄せる。

 これできっと、フィーも助かる。そう思ったとたんにハッとした。



――トンッ。



「? ケイト?」


 力いっぱい押したつもりなのにビクともしない。だが、首に回されていた腕をパシパシ叩き、こちらを持ち上げようとしていたスヴェンの体を離れさせた。


「俺に触られるのが嫌なのか? そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ、聞き分けてくれよ…」


 彼らしくない、涙声でのお願い。それにかまわず、伸びてくる腕を再び拒絶。体に力が入らないので気迫だけで押し返す。

 伝えなければ。


「……て、き…」

「敵? 大丈夫、近くにはもういない。粗方あらかた片付けたから安心しろ。また来ても俺がなんとかするから」


 すごい自信。普段ならば鼻で笑うところだったが、おぼろげな彼の姿からそれが真実なのだとわかった。どこか大怪我でもしていそうなほど血だらけなのに、人ひとりを運べるほど元気な様子。

 ホント、かなわないな。


「……フィーが、追われてる…」


 自嘲じちょうめいた気持ちが生まれると、どこか体が軽くなり、ケイトは井戸の方向を確認してから指差した。なおもお姫様抱っこを敢行かんこうしようとしていた腕がビクッと揺れる。うまく伝わったらしい。たぶん、敵が降下した跡がまだ残っていたのだろう。


「行って…」


 笑いが出そう。なんて健気けなげな。こいつにだけは見せたくなかった。

 けれど――――まぁいいか、最後ぐらい。


「お願い……リー…」


 ケイトは満足した。これでやっと、うれいなく寝れる。痛みも苦しみもフッと消え、とても心地良い眠りの予感がした。

 それをはばんだのはスヴェンだった。



――ガバッ!



「っ…!? リー、なんで――」

「うるせぇっ! もう黙ってろ!」


 横抱きに持ち上げられ、痛みとともに覚醒した意識で彼を見上げる。歯をむき出しにして、何かをこらえるように奥歯を強くかむ表情。近くにあった医務室の窓を蹴破って入り、白百合の香りが残る悲劇のスタート地点へと逆戻り。


「いいか、下ろすぞ! 我慢しろよ!」


 元いた自分のベッドへ寝かされながら軽いうめき声を上げると、スヴェンが「頑張れっ!」と叫んでくる。そんなこと言われても、と思った。

 早く行け、と言いたかった。自分はもうダメだからと泣きつきたかった。だけど、必死にこちらの足へ破いたシーツを巻きつける――痛いぐらいきつく巻かれたはずなのに、もう感覚がない――その表情を見て、何も言えなくなった。

 混乱している。何を優先すべきか、わからなくなっている。たとえばそれは、飢えに飢えた人間がパンの欠片かけらを目の前にしたような狂気さがあった。誰も生き残っていなかったんだろうなぁとぼんやり思って、なんだかかわいそうになった。


「絶対に助ける! フィーも、お前も…!」


 必死で、泣きそうな声。自分はたぶん、もうすぐ死ぬ。この意識を手放し、ひどい眠気に身も心もゆだねれば一瞬だ。そして彼にまた、仲間の死が降り積もるのだろう。かわいそうだとも思うが、それで早く諦めてフィーの元へ行ってくれるなら幸いに違いなかった。

 しかし、彼は行ってくれるだろうか。


「まずは止血か? くそっ、どうすりゃ…!」


 別れる直前のフィーと同じく、混乱しきった様子の彼は、ここで足を止めやしないだろうか。だったら最悪だ。


「とにかく、上を脱がすぞ? 痛いだろうけど我慢してくれ」


 まったく、この似たものカップルめ。

 最後ぐらい、カッコつけさせてくれたって――



――最後ぐらい、素直になれば?



(――サラ…?)


 幻聴だ。そのセリフは過去の記憶。彼女はもう死んだのだ。

 それでもケイトは目を見開き、こちらの怪我の状態を確認しようと服を脱がすスヴェンの手を掴んで止めた。おかしくて口元が緩む。

 そうだね、サラ。


「ケイトッ! 気持ちはわかるけど、こんな時まで――」

「ねぇリー、知ってる…?」


 あんたにもさんざん言われたし。


「私が、なんで、あんたに冷たかったか…」

「――知るかっ! んなこと言ってる場合じゃねぇだろ!」


 それに、フィーにも結局、言えなかったし。


「……ただの、恋敵こいがたき…」

「……は?」

「ホントは、ね…?」


 最後ぐらい、いいよね。


だけなの…」


 言葉を紡ぐと、血の味に紛れてまだ残るしょっぱさが口の中に広がる。彼のこぼした涙の、最後の残りかすだ。

 一瞬だけ戻った力をすべて注ぎ、呆然とするスヴェンの手を強く握る。


「だからリー、お願い…」


 ケイトは涙を流した。それすらもわからぬほど感覚が遠のいていき、ぼやけた視界が暗くなる。


「あの子を……助けてっ…!」


 己の痛切な声以外、物音ひとつしない。雨も、いつの間にかやんでいた。静かな暗闇。遠のく意識。手からこぼれ落ちていく力。

 それをすくい上げるように握り返された手は力強く、包みこむように重ねられた手のひらは、温かかった。


「約束する。絶対に、助ける」


 そっか、と心の中で笑って、ケイトは力を抜いた。その手が優しくベッドの脇に置かれ、離れていく彼の手の感触を最後に、意識も手放していく。

 もう何も見えない。


「すぐに――――、代わりの――――呼ぶから」


 何か言っているが、よく聞こえない。もういい。

 もう十分。


「信用――――だから、ケイト――――」


 最後に、素直になれたから。それだけで、満足――



――ホントに?



 ギョッとして目を見開くと、ベッドのそばにサラが立っていた。生前そのままの姿。手を後ろで組み、変わらぬのんびりとした笑顔。ただ、どこかニヤニヤしているようにも見える。



――まだあるんじゃないの?



 ケイトは上半身だけ起こし、サラと向かい合った。自身に傷はひとつもなく、悪くなったはずの左足も元気。

 膝を立て、頬杖をつきながら毒づく。



――この、お節介女。



 死んでも治らなかったとは、かなりの筋金入りだ。ケイトは笑った。すると、サラも笑った。憎たらしいと思っていたその笑みがなんだか懐かしくて、ケイトはさらに笑みを深めた。

 頭の後ろで両手を組み、ゴロンとベッドの上で寝転ぶ。そして彼女は観念した。

 観念して、彼に三年間ずっと言えなかった言葉を、こそばゆそうな面持ちで口にした――――



「――――ありが、とう…」


 小指程度の呼び笛を口にくわえる寸前、スヴェンは驚きに身を固めた。

 ほんの小さなささやき声。聞き間違いかと思った。雨がやみ、死者が支配する静寂せいじゃくの中で耳を澄まし、すぐそばのベッドで横になっていたケイトを見下ろす。


「私を……助けて、くれて…」


 白いシーツの上。パサリと広がる黒髪と、染み渡る赤黒い血。体に破片が無数に刺さり、いくつか小さな穴も開いた、ケイト。

 生きていることさえ不思議な状態の彼女が、ポツリとつぶやく。


「……ありがとう、リー…」


 暗闇の中で横に向けた顔は影が濃くなり、今、彼女がどんな表情をしているのかわからない。

 無性にそれが知りたくて、スヴェンは声をかけた。


「ケイト?」


 しかし、返事はなかった。


「……おい、ケイト」


 彼女はもう動かなかった。

 鼻で笑うことも、憎まれ口を叩くことも。訓練中、本気で殴りかかってきたり、時おり何か言いたげな視線を送ることも。そして尋ねたら、きつくにらみ返されることも、もうない。浅く連なる呼吸音が消え、どこまでも静かな闇の中に一人だけ取り残されたスヴェンは、長いようで短い沈黙の間にそのことを思い知った。

 ふと、手を伸ばす。ケイトの顔が見たかった。

 しかし、やめておいた。彼女に怒られる気がしたから。

 深くうつむき、背中を向ける。


「約束は、守るよ…」


 きつく、きつく、拳を握る。


「必ず助ける……俺が、好きになった子を…」


 そしてスヴェンは蹴破った窓枠へと足をかけた。遅れを取り戻そうと、雨のやんだ外へ飛び出そうとした。硬い革靴ブーツの底が窓枠に残るガラスの破片を踏みにじる。

 そこで彼は、足を止めた。夜空にはいつの間にか星が輝き、足元をよく照らしていたが、窓枠を掴む手をギュッと握って放さなかった。

 早く行け。背後からそう言われた気がして、思わず体が震える。怒りや悲しみ、やり場のない感情。敵の見当たらぬその場でぶつけた先は、雨の跡が涙のように映る、透明な窓ガラス。



――ガシャァンッ!



 肩を震わせて叫ぶ。


「――――ありがとうってなんだよ!?」


 うつむいた顔から、涙がこぼれる。


「死んでんじゃねぇよ……助けてなんか、ねぇだろっ…!」


 届かぬ声。こたえぬ闇。掛け違えたまま、直せぬボタン。

 体の震えが収まるまでジッとしているとやがて、鼻先に花の香りがかすめた。開け放たれた室内から外へもれる、白百合の花の残り香だった。それにいざなわれるようにスヴェンは窓枠を飛び越え、血の臭いが立ちこめる夜の中で無意識に足を速めた。そのまま、迷いなく真っ暗な井戸の穴へと身を躍らせる。息を切らせ、涙を振り切って。

 漂っていた花の香りは、星が輝く雨上がりの夜空へと、風とともに舞い上がっていった。

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