10 翡翠

 スヴェンは立ち止まらなかった。雨の降る夜の荒野の中、リズを抱えて平然と走るシズクを見失わぬよう走り続けた。バウマンの言いつけどおり、岩場に打ち捨てられたガンバンテインを見ても決して足を止めなかった。

 しかし、その近くを通り過ぎようとした時、鉄の残骸ざんがいに紛れて何か白いものが落ちているのが目についた。便箋びんせん――――手紙だ。あのガンバンテインのパイロットのものに違いない。スヴェンはそれを拾うことに気持ちが傾いた。理由は、いくつかある。

 そのガンバンテインのパイロットが、彼が直面するこの悲劇の最初の犠牲者だったこと。その機体が、搭乗席コックピット執拗しつように狙われたらしく、目を覆いたくなるほどの惨状さんじょうで、つい同情してしまったこと。

 最後に、ケンカ別れした親友とものこと。死にゆく者に対する彼流の礼節。初めて他人を尊敬した思い出。スヴェンはそれにならおうとした。ジンのように、せめてもの手向けとして死者の想いをんでやろうとした。

 だから彼は、立ち止まってしまった――――振り返ってしまった。バウマンの真意も空しく。

 気付いたシズクの制止の声に「すぐ済む!」と返し、その雨と泥にまみれた便箋びんせんを拾い上げる。

 そして彼は、言葉を失った。



――スヴェンへ。



 自分の名前。宛先。差出人の名前はない。

 身に覚えのない、死者からの手紙。

 思わずガンバンテインのほうを見ると、まるでこちらを導くかのように点々と白い紙が落ちていた。いざなわれるようにフラフラ歩く途中、誰かの声や戦場の音が響いたが、自らの心臓の鼓動と呼吸がうるさくてよく聞こえなかった。

 見覚えのある字。そう思っただけで、心臓がまた大きく跳ねる。

 おもむろに、便箋びんせんの中を確認するとからだった。おそらくこの白い紙きれたちが中身なのだろう。

 スヴェンはそれを拾い上げ、そこに書かれている文字を目で追った。



――拝啓、スヴェン・リー様。いかがお過ごしでしょうか。



 始まりの常套句じょうとうく。読めたのはそこだけ。

 ところどころ破け、インクが水でにじんでいただけではない。その手紙の文字は、上から線でぐしゃぐしゃに塗り潰されていたのだ。余白も多く、書き直したことがうかがえる。

 その後に続いた手紙も同じようなものだった。

 お決まりの定型文に、固い印象の文体。一枚一枚、ゆっくりと拾い上げては立ち止まって視線を落とす。段々と余白が大きくなっていくものの、どれも変わらず線で塗り潰されている。

 中にはこんな一文も。



――あなたを想う、今日この頃。



 書いてからよほど後悔したのか、そこを塗り潰す線だけ異様にギザギザしていた。ほかの者が目にすれば笑えるたぐい恋文ラブレターかもしれないが、スヴェンは笑えなかった。ただひたすらその先へ進むことに怯え、それでも、足を止めることができない。

 やがて、最後の一枚に。ボロボロな機体のすぐ目の前。

 何度も殴りつけられたのか、搭乗席コックピットのある胸部は潰れ、おびただしい血が流れ出していた。わずかに飛び散った肉片も目を凝らせば見つかる。スヴェンはそれらから目をそらし、震える指先で水たまりに浮かぶ手紙を拾い上げた。

 そして、彼は目にした。

 水と血にぬれ、ほぼ破れてしまった紙きれ。手紙としての機能はもうない。しかし、それだけで十分な文字数。

 大きな余白があったのだろう。左上の隅にちょこんと書かれたその文字以外、何かがつづられた形跡はない。そしてその文字だけは塗り潰されていなかった。

 そこには、こう書かれていた。



――ごめん。



「……ジン?」


 口にして、すぐに後悔。なんてバカなことを。スヴェンは口の端を引きつらせながら、目の前のガンバンテインを見上げた。

 だって、そんなの。もし、そうなら。

 


「ちょっと! お知り合いなのかもしれませんが、今は…!」


 肩を掴まれるも、感覚が遠い。


「? あなた、泣いて……」


 揺れる世界。乾いた笑い。


「ハ、ハハッ……ウソだよな、ジン…?」

「っ! ジンってまさか…!」


 息をのむ声。離れる手と下がる足音。

 スヴェンはそのいくつもの手紙を強く握りしめた。


「俺も、ごめん……あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ」


 雨の中、打ち捨てられたガンバンテインに向かって言う。

 そこに、ジンはいないはずなのに。


帝国人くそやろうだなんて、お前には……お前に、だけは…」


 よろめきながら一歩を踏み出すと、何かが前をさえぎった。


「スヴェン・リー、これ以上は……ミスタ・バウマンにも言われたはずでしょう?」


 肩を掴まれて立ち止まる。


「あなたにはまだ、救うべき人がいるはずです」


 ぼやける視界。合ったのは、言葉の焦点。

 救うべき人。フィー。チャックやミゲル、ケイトにサラ。教官、整備のおっさん、基地のみんな。

 

 スヴェンはさらに一歩、前へ踏み出した。


「! ちょっと、人の話を――」

「ジンが…」


 胸を押す力が弱まる。


「ジンを、助けなきゃ…」


 呆然と、スヴェンはそう口にした。しかし彼の心中は、もっと別のことを考えていた。

 ジンではない。それを確かめなければ。

 


「お気持ちは察します。ですが、あそこにいるのが彼ならば、もう……」


 ハッとした。しかし、その沈んだ声にではない。

 が見えたのだ。


「あっ、ダメ――――!」


 人影を押しのけて駆け出す。潰れた搭乗席コックピットからはみ出していたへ目掛けて一直線。

 ジンではない。ジンであってはならない。

 それでも口が、親友ともの名を紡ぐ。


「ジンッ!」


 胸をへこませ足を投げ出し、大きな岩に背を預けるガンバンテイン。駆け上がろうとするも雨で滑り落ち、スヴェンは背中から水たまりへ落ちた。息が一瞬だけ詰まるも、すぐに立ち上がる。

 そこへ――――ポチャンッ。


「――――あっ…」


 足をかけただけ。小さな衝撃。それだけで落ちてしまうほどに不安定だったのだろう。

 手のひらサイズの瓦礫がれきといっしょに、そのは落ちてきた。


「……あぁ…」


 千切れた手首。すり潰され、ねじ切られたような切断面。肉と骨。

 きれいな手のひら。


「あぁっ…」


 水たまりに浮かび、まるで持ち主を探すように指を広げるその手を握ろうと、スヴェンは膝から崩れ落ちた。筆不精ふでぶしょうが必死に想いをつづった数枚の手紙をくしゃくしゃに丸め、冷たい手と手の間に挟む。

 物言わぬ固い手。血にぬれた冷たい手。見覚えのある、親友ともの手。

 ジンの欠片かけら


「ああぁっ…!」


 祈るように両手で握りしめると、うつむいた顔からこぼれる雨が、小さくなってしまった土気色のジンをぬらした。

 初めての友だち。ただ一人の親友とも

 失ったのは、つながっていたはずの彼の体と、彼のいた世界。


「ジン……ジンッ…!」



――ごめん。



「なんで、お前が……俺は――――俺が、お前に…」


 言葉にならぬ想い。届かぬ声。

 血の混じる泥水にうずくまってただ嗚咽おえつをもらすばかりのスヴェンに、立ち上がる気力はもう残されていなかった。その痛ましい姿はきっと、彼に忠告した師の想像どおりのもの。

 悲劇の幕開け。それが、彼の終幕になろうとしていた。




――ポンポンッ。



 頭を叩かれて顔を上げた青年の目の前には、輝く長い髪をなびかせる少女が立っていた。

 涙の向こう、引き込まれそうなほどに美しい翡翠ひすいの瞳。その半分をまぶたに隠しながらも、瞬きひとつせずにこちらをジッと見据えている。

 そして再び、少女は青年の頭を優しく叩いた。



――ポンポンッ。



 青年は何も言えなかった。少女が無表情ながらに慰めようとしてくれようとしていることだけは伝わったが、彼は打たれる雨と握りしめる親友とも欠片かけらの冷たさに、凍りついてしまっていた。ひどい悲しみが、彼のすべてを侵していた。

 その間隙かんげきを縫い、小首を傾げて少女が問う。


「会いたい?」

「……え?」

「会いたいって。スヴェンも、会いたい?」


 言葉をうまくのみこめず、そして、少女が初めて口にする己の名に虚を突かれる。

 一瞬の空白。絶望からの解放。

 口をついて出た願い。


「会いたい…」


 青年は親友とも欠片かけらを握りしめ、その無垢むくなる少女へと願った。


「ジンに、会いたい…」

「んっ」


 ただ一音を発し、少女が打ち捨てられた巨人へと近寄る。その軽い足取りはまるで羽が生えたようで、幼い素足が泥水の上を波紋すら起こさずに通り過ぎた。

 そして青年は、奇跡をの当たりにした


「――――おいで」


 フワリと浮く黄金色こがねいろの髪。幼い背中から吹き荒れる風が周囲の雨を弾く。感じるのは不可侵、理解の及ばぬ神聖さ。

 そして、少女の掲げた両手に光が集う。



――パァッ…。



 優しい緑光はまるで少女とたわむれるように舞い、散っては流れ、さらに光を増して集う。それが段々と形を成し、身を結ぶ。

 青年はそれに気を取られていた。そこに現れる光の輪郭りんかくが、失ったはずの親友ともに似ていたから。

 だから、気付けなかった。


「――――ジン…?」


 冷たい雨から守るように周囲を温かく包んだ光も、静けさをたたえる親友ともの似姿を形作った光も――――そして、その隣でいつしか生やしていた少女の光の翼も。

 すべてその見開かれた翡翠ひすいの瞳と、同じ色をしていたことに。



 幽霊。そんな言葉が頭をよぎるも、すぐにどうでもよくなる。

 暗い雨夜を切り取る淡い緑光の空間。その中で対峙する、失ったはずの親友とも――――ジン。

 スヴェンは思わず駆け出した。幾重いくえに重なる緑光で紡がれたジンへと。握っていた彼の欠片かけらを手放し、想いのつづられた紙切れたちだけを手の中に収めて。

 しかしすぐに、肩を掴まれ止められる。振り返ると、シズクがあごのラインで切りそろえた黒髪を横へ揺らした。


「近付かないで。彼に触れてはいけません」

「なんでだよ!? だって、ジンが……ジンが生きて――」

?」


 その強い語気がスヴェンを現実へと引き戻した。激しく上下する肩をしずめ、ゆっくりと視線をジンへ戻す。

 ジンは、浮いていた。はっきりとした存在感を放ちながらも、その身はうっすらと透けていた。

 けれど、ひとつだけ。


「……今、彼はとても不安定な状態です」


 きっとそれは、この世のものではない。


時は短い。別れのいとまを、どうか大切に…」


 ジンはやっぱり、死んだんだ。熱に浮かされる頭の中で、そのことだけは

 シズクにそっと背中を押され、よたよたとジンの目の前へ進み出る。いつもの人好きする世渡り上手な笑みではなく、見たこともないほどの無表情。不安定な状態というシズクの言葉がどこかに落ちた。


「……ジン…」


 スヴェンは手を伸ばした。されど、寄らば消えゆくはかなさ。

 手を下ろし、まぶしさに目を細めながらその場で見上げる。


「ごめん、ジン……帝国人くそやろうなんて言って、ごめん…」


 涙で乱反射する光。手の中で、クシャリとしわを作る手紙。


「遅くなって……助けられなくて、ごめん…」


 スヴェンは震えながらうつむいた。


「ごめん、ジン……ごめんっ…!」


 謝罪ごめんしか出てこない。伝えたいことなんてほかにも山ほどあるのに。

 感謝や敬意、思いのたけ。どれほど大切だったか。自分が今、どれほど悲しんでいるか。そして、今どれほど――どんな犠牲を払ってでもかまわないと思えるほど――お前を取り戻したいか。スヴェンはひとつもうまく言葉にできなかった。うつむいたまま、また膝から崩れ落ちそうになる。

 それを止めたのは、なじみ深い親友ともの声ではなかった。


「わかってる」


 短く鳴いた小鳥のさえずり。リズの声。スヴェンはそちらへ目を向けた。

 幻だったかのように光の翼を消し、フワリと浮き上がっていた黄金色こがねいろの長い髪はくせもなく地に引かれ、いつもどおりの寝ぼけまなこと無表情を取り戻していた少女が続ける。


「わかってるって」

「……ジンが?」

「んっ」


 訳される、口なき死者の想い。深く考えずにスヴェンはまばゆいジンを見上げた。光に編まれた彼の表情はどこか穏やかに変化していて、そして少しだけ皮肉げにも見えた。

 全部お見通しさ。変わらぬ調子でそう言われた気がして、熱い涙が頬を伝う。

 そんな親友ともの似姿へと、一歩だけ近寄った。


「ジン、俺は…」


 取り戻せるのでは。そう思った。


「ずっと、ずっと、お前と……」


 チリチリと焦がれる期待をあっさり散らしたのは、親友ともの言葉――――少女の声。


「行け」


 ピタ、と手を止め、怪訝けげんにリズを見る。


「早く行け」


 似つかわしくない命令口調をスヴェンはすんなり受け入れた。すでにもう疑問をもつことなく、頭の中でジンの声に変換していたからだ。


「行くんだ、スヴェン」


 急かされる別離。なんでそんな。胸をかきむしりたくなるようなもどかしさに表情を歪めた時、遠くから戦場の音が聞こえてきた。



――ズシィィィンッ!



「っ!? まずい、もう…!」


 少女へ駆け寄る人影の向こう、闇の奧から迫りくる赤い巨人。

 そして、半狂乱の叫び。


『スッヴェェェェェェンッ!』


 それはどこか滑稽こっけいで、痛切なもの。


『また私に背を向けるのかぁ!? お前は、お前は、どうすれば……私に振り向いてくれるんだぁぁぁっ!』


 夜の荒野に響き渡る名指しでの問い。戸惑っていると、青い巨人が赤い巨人の背後からしがみついた。


「! 教官っ!」


 ぎこちなさは否めないまでも、マーシャルをちゃんと操縦できている。タルボが何かやったのか。


『このっ……死にぞこないがぁぁぁっ!』

「今のうちに! 急ぎましょう!」


 距離はまだある。だが確かに、急いだほうがいい。ここはまだ戦闘区域範囲外とは言えない。

 しかし、スヴェンは別の理由で慌てふためいた。シズクがリズを抱きかかえると、ジンの姿が薄らいだのだ。


「ま、待て! 待ってくれ!」


 少女を横抱きにした腕を掴んで止めるも、ほどけ続ける光。


「放しなさい。もう時間切れです」

「待ってくれよ! なんで……っ!」


 言い募ろうとしてすぐに気付く。シズクの胸へ頭を預けるリズのまぶたが、とても重くなっていることに。


「リズの力には限りがあります。こんな状況ですが、しばらく眠らないといけません。だから早く安全な場所へ」

「そんな…! だって、まだ……おいリズ! 起きてくれっ!」

「ちょ、ちょっとあなた!?」


 スヴェンが取りつこうとするも、シズクが身をよじってリズを遠ざける。そんな瑣末事さまつごとなど預り知らぬとばかりに、腕の中の少女は眠たげな目をこするだけ。


「お気持ちはわかりますが、今は…!」


 わかるものか。スヴェンは前後不覚に陥り、無理やりにでもリズを奪おうとした。

 必死だった。失いたくなかった。何がなんでも。

 シノビ装束を乱暴に引っ張り、小さな悲鳴を無視して手を伸ばす。フリズスキャールブと呼ばれる不思議な少女へ。それがジンを取り戻す、唯一の手段だと信じて。

 すると、その手が夢の世界に片足を突っこんでいた少女へと届く寸前に、どこからか流れてきた淡い光の粒子が腕全体へとまとわりついた。まるで、その行いをとがめるように。

 ハッとして流れの元をたどると、かなり希薄となっていたジンが地に降り立ち、こちらをまっすぐ見つめていた。


「どうして……どうして邪魔すんだよ、ジンッ!」


 混乱したまま、今度はそちらへと掴みかかる。もはや向こう側を見通せるようになったその両肩へ。しかし手応えなどなく、勢いあまって薄緑のもやを突っ切る形に。

 たたらを踏んで振り返ると、光が煙のように散り散りとなっていた。なんとか原型をとどめていたはずのジンの体が崩れかかっている。通り過ぎたから。自分のせいだ。

 スヴェンが顔を真っ青にすると、ジンがまだその形をなんとか保っていた腕を上げて指さした。

 それは、基地の方向。自分たちが向かっていた方角。

 そして、親友ともの代わりに少女が言う。


「フィー…」


 まるで寝言のよう。それを最後に、リズは寝息を立て始めた。

 ジンへと向き直る。


「フィーを助けろって、そう言いたいのか…?」


 何も言わず、静かにたたずむ親友ともの残影。その消えゆく姿を見つめる。


「わかってる、わかってるよジン…」


 助けたい。助けなければ。自分の好きな子を。


「けど、俺は…」


 もはや幻とはっきり言えるほど薄れてしまったジンを前にして、スヴェンは指一本動かせずにいた。もし動かせば、夢から覚めてしまう気がして。

 そのまま見つめていると、彼の背後が目に入る。


「俺は、お前を…」


 岩を背に座る、打ち捨てられたガンバンテイン。

 ぐちゃぐちゃになった胸部を彩るしみは、潰れてしまった親友ともの血。


「――――お前を、置いてなんて……行けねぇよ…」


 周囲を包んでいた光が消え、舞い戻った雨の音にそのつぶやきはかき消された。再び下りようとする夜のとばり

 その、最後の一瞬。


「あっ……」


 とっさに伸ばした手が届く寸前、ほんの少しだけ映った面影おもかげ

 ニッ、と彼は笑った。



――わりぃ。



 そう言われた気がした。

 どこか、うれしそうに。けれどやっぱり、申し訳なさそうに。

 ジンは、闇の中へと溶けるように消えてしまった。


「――――ジン……」


 泣き叫びたくなる口を固く閉じ、スヴェンはその場でうつむいた。強くふさいだまぶたから涙をこぼしていると、震えるほどに握りしめた拳へ誰かの手がそっと添えられた。


「……行きましょう」


 シズクはそれだけを伝え、リズを抱え直して走り出した。なんの未練もなく、こちらがついて来ることを信じて疑わない様子で。

 その背中を少しだけ見送り、視線を戦場へと移す。


『スヴェェェンッ!』


 マーシャルが抑えてくれているうちに、急いで逃げなければ。

 最後にチラリとガンバンテインを見やるも、すぐにギュッと目をふさいで駆け出す。まぶたの裏に焼きついた親友ともの最後の笑顔へ、何度も謝りながら。

 必ず、フィーを助ける。そしていっしょに戻ってくるから。

 言い訳するように心の中で唱えていると、半狂乱の叫びが再びこだました。


『私を無視する気か!? ジン・ヘンドリックスを殺した私を! お前にとってやつも所詮しょせん、その程度だったということか!?』


 頭の中。プツンッ、と切れる音。バシャッと泥水をかぶる長靴ブーツ。金縛りにでもあったかのように動けなくなったスヴェンは、その場で目を見開いた。

 消えるまぶたの裏の親友とも。震える視界。ガチガチとかみ合わぬ歯。爪が手のひらに食いこみ、血が流れる。

 そこには今、怒りだけがあった。

 スヴェンは濡れそぼった黒髪を揺らし、少し伸びた前髪から雨のしずくを垂らしながら振り返った。

 


「――――殺してやるっ…!」


 肩越しに送る血走った眼光。

 そして、誓い。


「アルフレッド……てめぇだけは、絶対に…!」


 その震え声も、かみ締める奥歯が欠けた音も、遠すぎて相手に届くはずはなかった。

 しかし、スヴェンが再び前を向いて走り出すと、赤い機体から荒野に響き渡るほどの音声が流れた。


『……こんな、こんなに、だったのか!』


 耳障りな声に血がたぎり、頭が沸騰ふっとうする。


『そうだスヴェン! 私が敵だ! 他の誰でもない……私が、お前の唯一の!』


 けれど、今は無視しなければ。フィーを助けなければ。

 報いは、その後で。


『見ているか、ジン・ヘンドリックスよ! 私が、私が……私こそがっ! スヴェン・リーの敵なのだっ!』


 ジンと同じ痛みを――――それ以上の苦しみを、やつに。

 必ず。


『ハハハ、ハハハハッ…! アーハッハッハァァァッ!』


 その醜悪しゅうあくな笑い声は、いつまでもスヴェンの頭の中にこびりついた。思い出すたびに何度も足を止めそうになった。

 親友ともの最後の笑顔と別れ際に見た恋人の笑顔が、まぶたの裏で交互に浮かんでは消えていった。

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