8 甘え
※
故郷ではずっと「お姉ちゃん」だった。
ひとつしか違わない妹とはすごく仲良し。林の中にある実家の工房からおつかいに出るたび、双子だと勘違いしていた人が見つかるほどそっくりで、いつもいっしょ。
大好きだった。妹もそう思ってくれているはず。ケンカなどしたことがない。だけど少し、疲れる時があった。
引っこみ
しかし、その背中に浴びる視線が少し重荷でもあった。
尊敬の眼差しは原動力にもなったが、時折ふと、自分も誰かに甘えたくなる瞬間があった。だけど、どう甘えていいのかわからなかった。近所の子どもたちもみんな自分より年下で、両親からの「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」という
故郷が嫌いなんてことはなく、大好きだ。けれど家業を継ぐため、正式な
そしていざ、部隊の訓練に参加すると驚いた。自分より年下の人間がいなかったのだ。
なんでも入隊するためには、軍人の場合は
仮免許段階における筆記試験の優秀な成績に加え、実家が
かくして、慣れない環境でのもっと慣れない軍人生活は始まった。
村の学校から転校するぐらいの気分だったから、最初は周りが大人ばかりで
そんな時に出会ったのが、サラだった。
彼女は優しかった。同じく初めてこの訓練部隊に参加した立場だというのに、自分をいつも気遣ってくれた。実家が工房という同じ境遇の同性で、一番歳が近いというだけかもしれなかったが、それでも自分は彼女にずいぶんと救われた。
そしていつしか、サラは自分にとって「お姉ちゃん」になった。
いつも甘えていた気がする。話もいっぱい聞いてくれた、してくれた。
本当は、ずっとこんな「お姉ちゃん」が欲しかったのかもしれないと思うまでになった。
――バンッ。
だから、サラを失っても自分は、誰かに甘えることをやめられなかったのだ。
※
「……ここから先は、私が足手まといになるからね」
降りる
奥底まで届く雨にうたれるのすらかまわず、首を伸ばして必死に顔を上げる。
「そんなことないっ! そんなことないよ、ケイト!」
「フィー、静かに。できるだけ時間は稼ぎたいの」
「! 何か、考えがあるんだよね? そうだよね!?」
フィーは崩れかけの壁にしがみついた。ケイトにはきっと、ほかに逃げる算段がある。だからこうしたんだ。そう信じながらも、目からは大粒の涙があふれていた。
こぼれる涙が雨と交わり、土で汚れた頬を洗う。
彼女へ届くようにと、壁を叩く。
「答えてよ、ケイトッ!」
フィーは叫んだ。すると、何かが落ちてきた。崩れかけの壁を叩いた衝撃でというわけではない。
それは、ケイトが落とした
クルクルと落ちてくるその小さな
「これは…?」
「それ、サラが持ってたやつ。借りといた」
「借りたって……」
サラの持ち物なんかではない。武装していたのか、彼女は。それにケイトは、いつの間に借りてきたのだろう。
「
遠い人影が肩をすくめて続ける。
「残りの拾った武器は全部、私がもらうから」
「ここでこいつらと、あんたが逃げる時間を稼ぐ。だから、あんたは走って」
だけど、そんな話は聞いていない。
「行けるわけない! いっしょに逃げようよ、ケイト!」
「さすがにさっきの爆発でバレたはず。すぐに敵が来る。その先で追われても私は走れない。だったら、ここで時間稼ぎしたほうが効率的でしょ?」
「私がケイトを担いで走るから!」
「無茶言わないでよ」
遠いし暗いしで、表情なんかわからなかった。けれど声は笑っていた。やっぱり、悲しそうだった。
無茶でもなんでもいい。
「ケイトッ!」
拳銃を置き、崩れかけの壁を掴む。足をかける隙間などほとんどなく、ごつごつした石の感触が手に刺さる。まるで高い壁が自分を拒んでいるようだ。
そしてその感覚は、おおむね正解だった。登り始めてすぐのところで手足をかける石が同時に崩れてしまい、フィーはもんどり打つようにして地面へ倒れた。
「! フィー、ダメッ! ただでさえ危ないってのに、井戸ごと崩れたらあんた――」
――バシャンッ!
「じゃあ降りてきてよっ!」
ズボンをぬらす水たまりへ拳を打ちつけ、フィーは立ち上がろうとした。しかしうまく力が入らず、そのままペタンと座りこむ。また怖くて腰が抜けてしまったらしい。
そう、フィーは怖かった。
「こんなのやだ…」
死ぬのが怖かった。初めて知ったのだ。
「こんなのやだよ、ケイト…」
自分が死ぬのも、誰かが死ぬのも、こんなに怖いことだなんて。
フィーはそばに落ちていたサラの拳銃を胸にかき抱いた。
「こんなの、私、もうやだっ…!」
だからだろうか。
「……ねぇフィー、知ってる?」
その声はどこか、子どもへ寝物語を聞かせるような、優しい声だった。
「どうしてヘンドリックスが、私と行けって言ったのか」
「え…?」
「だって別に私たち、仲良しってわけじゃないでしょ?」
うぐ、とけいれん気味だった呼吸が詰まり、目頭の熱が一層
「ごめんごめん、意地悪で言ったんじゃないって。だけどほら、たとえばサラとのほうがフィーだって安心できたかもしれないじゃない?」
「それは、だって私、ケイトのところに行く途中だったし。それにケイト、足をケガしてるからって、ジンも……」
「あの性悪の
どういうことだろう。疑問を覚えると、涙と呼吸が知らず知らずのうちに収まった。
そして泣き虫な迷子の気を引いた語り部が、子どもがまた恐怖に囚われないようにとさらに言葉を紡ぐ。
「私がフィーといたら、いざって時にこうするってヘンドリックスにはわかってたんだ。まんまとあいつの
「……わかんないよ、ケイト。どうしてそうなるの? だってさっき、ケイト、私のこと嫌いだって…」
アクロバットな曲解。悲しい
ケイトがそれに取り合わず、再び気をそらすように話題を変える。
「私ね、花が好きなんだ」
「……花が?」
「キャラじゃないって?」
ドキッ、とした分だけ首を激しく横へ。
まるで犬のように赤毛を振り乱して水気を飛ばすフィーの姿を見て、ケイトは笑っていた。
「まぁそうだね、自分でもそう思う。けど、なんて言えばいいのかな……花に詳しいわけじゃないの。自分で育てたいわけでもないし。ただ、花を見るのが好きなんだ。だから本当はうれしかったんだよ、病室にあの
気付かなかった、そんなの。迷惑そうにしていたから。
だけど、サラが言っていた。ケイトは素直じゃないからって。
「戦場から無事に帰ったら、いつも花を見に行くんだ」
今の彼女を見たら、サラはなんて言うだろう。
「……どんな花?」
「なんでもいいの。白でも赤でも、売られてるものでも道端に咲いてるものでも。気が向いたら花畑にまで足を運んだりしてた」
「部屋に飾ったりしないの?」
「しないよ。欲しいわけじゃないから。ただ、飽きるまで見て……なんか泣けてきたら、帰るんだ」
フィーは目が点になった。
「好きなのになんで泣くの? 感動して? それとも、辛いことを思い出しちゃう?」
「さぁね、自分でもわかんない。ただそこにあるってだけで泣けてくるんだ。おかしな話だよね」
遠い人影がクツクツと揺れる。
フィーはふと、手を伸ばした。
「ねぇフィー、私はさ……兵士だったけど、戦う理由なんてこれっぽっちもなかったんだ」
ケイトのそばに行きたかった。
「守りたい人なんていなくて、むしろくたばれって思ってたぐらいで。なんで私がこんなことって、昨日まで隣にいたやつらが死ぬたびに思ってた」
けれど、そこには行けない。
「汚いこともいっぱい見てきた。されたし、してきた。私の世界はいつもくそったれだった」
井戸の縦穴の長さよりも遠く深い何かが、自分とケイトの間にはあった。
「それでもさ、花は咲いてるんだ。それがすごくきれいでさ」
深い溝。越えられない境界線。
「私はただそれだけで、生きようって思えたの」
それは今もなお、二人の間に横たわっていた。
「……だからフィー、あんたは生きて」
「え?」
「全部忘れて、幸せに生きなよ。誰もあんたを恨まない。もしあっちで恨むやつがいたら、私がぶっ飛ばすからさ」
「ケイト、何、言って……」
その時、やっとフィーは気付いた。思いつきでしているわけではない。ケイトはもっと前から、死ぬ覚悟だったのだ。
「……やだ」
フィーは納得できなかった。
「そんなのやだよ、ケイト! 私、
「……フィー…」
「いっしょに生きようよ! 私は――――私、もう無理だよぉ…!」
目からは熱を帯びる涙。口から情けない涙声。高潔な女性に比べてあまりにも子どもな自分が恥ずかしくなり、両手で顔を覆う。
だからその声は、くぐもって井戸の中に響いた。
「ケイトがいてくれなきゃ、私……もう歩けないよぉ…」
届いただろうか。届いて、しまっただろうか。
「……フィー、私は…」
そしてすぐに、フィーは悟ることとなる。
「……ケイト?」
「私、本当は……」
そっちのほうがまだましだった、と。
「本当は……リーの、ことが――」
――バンッ。
少し震えていた声が途切れ、世界が遠のく。
記憶にある音。それも、真新しいもの。一瞬だけ真っ白になった頭の中にすぐ浮かんだ。
それは、サラの命を奪った音。
だが今度は、その一回では終わらなかった。
「ケイトッ!」
叫びに応じるような銃声。雨音をかき消す銃撃戦。フィーは顔を真っ青にしながら跳ねるように立ち上がり、自分を拒む壁へとしがみついた。すると、また新しい音。
――バシュッ。
とっさに頭を抱えてしゃがむと、落石が水たまりに落ちて派手な水音が上がる。それと、ほぼ同時。
――ボォンッ!
今度は手りゅう弾。だが、音と揺れは少し遠い。ケイトが使ったんだ。拾ってきた二個のうちのもう一個。おそらくかき集めた武器の中で最も威力の高いもの。
それを、もう使った。嫌な予感が全身を駆けめぐる。
まさか、今のが最後の――
「フィー、逃げてっ!」
――引っこんだ人影が再び姿を現し、ヘナヘナと膝から崩れ落ちる。良かった、ケイト。無事だ。
「立って! 走って! 早くっ!」
しかし、フィーはその場に踏みとどまった。
「ケイト、飛んでっ!」
両手を広げる自分の姿に、井戸の上の人影が絶句するのがわかる。
「バカ言わないで! 無理に決まってんでしょっ!」
「私が受け止めるよ!」
「いい加減にして! 今の状況わかって――」
「だったらいっしょに死ぬ!」
「――っ!?」
フィーはもう、自分が何を言っているのかわからなかった。
ただ、ケイトと離れたくない。その一心。
「ここで、私も死ぬから!」
決意も覚悟もなかった。
「フィー、あんたっ…!」
「いっしょに死のうよ! ね!?」
ここで逃げても結局、殺されるかもしれない。そんな恐怖を抱えながら逃げるのなんて無理だ。耐えられない。
死ぬのも怖い。だけど今ここで、ケイトといっしょなら。そう思った。
「ケイト、私を――」
曇る目。引きつる口元。
「――独りにしないで…」
ケイトがお似合いだと言い、太陽にまでたとえてくれたものとはかけ離れた笑みを、フィーは彼女へと向けた。留守番を嫌がる子どものわがまま。泣いてもダメだと本能で悟った
それに、人影は揺らいだ。
「ケイト、お願い。ケイト、ケイト――――」
甘えた声で何度も名を呼ぶ。もう一押しだと、卑怯で幼い自分が言う。
それを押し返したのは、
「サラの死を無駄にする気なの!?」
ビクッ、と震える肩。止まる呼吸。見開く目。
心臓を、わし掴みにされた。
「————あんたのせいで死んだんだっ!」
気が遠くなるほど重い沈黙を破り、ケイトが明確に責める。
フィーはずっと握っていたサラの銃を放心しながら見つめた。
「サラだって死にたくなかった! 本当はあの時、私たちに駆け寄りたかったはずさ! でも、あいつはそうしなかった! なんでかわかる!?」
がなり立てる声。いつの間にか、遠ざかっていた雨。
「あんたがそんなグズだからだよっ!」
そうかもしれない。そんな気がしてきた――――いや、きっとそうなのだ。
本当はわかっていた。見て見ぬふりをしていただけ。だから、これほどはっきりと言われて、フィーは傷つくはずだった。しかしなぜか、心には傷ひとつない。
どうして。サラの銃を胸に抱きながらフィーは不思議に思った。
そして、すぐに気付いた。
「この人殺し! 死んじまえっ!」
やんだと思った雨粒が頬に当たる。だけど、温かい。
「お前のせいだ! さっさと消えろっ!」
投げられた小石が手に当たり、そしてその傷を
「お前なんか消えちまえっ!」
ケイトは泣いていた。
心が流す透明な血。自らの心臓へ突き立てる、ナイフの痛み。
彼女の叫びは、悲鳴だった。
「死んで詫びろよこの人殺しっ! 消えろ、消えちまえっ!」
その悲鳴を上げさせているのは――――自分だ。
「――――さっさと消えろっつってんだろ、このグズ女っ!」
よろりとふらつき、フィーは回れ右をして
「死ね――――っ! 死んじまえ――――っ!」
もういい。もういいよ。
「消えろ、消えろ――――っ!」
ごめん、ケイト。ごめんなさい。
だから、もうやめて。
「消えちまえ――――っ!」
フィーは走り続けた。彼女の心の悲鳴が聞こえなくなる遠くまで。心で流すその血の涙が、
ただただ必死に、己への絶望に足を取られぬよう、泣きながら走り続けた。
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