第6話 嵐の夜に

1 光

 アルフレッド・ストラノフは夢を見ていた。

 眠りへつかずに見る夢。覚めることのない夢。

 それは、悪夢だった。



――ニクイ…。



 いくつもの声。いくつもの手。

 亡霊。怨霊おんりょう魑魅魍魎ちみもうりょう

 あるいは、怪物モンスター



――クヤシイ…。



 その声が聞こえるたびに精神がむしばまれ、その手に捕まるたび、肉体がほころんでいく。

 魂が、崩れていく。



――ホシイ…。



 ろくな思考はもうできない。自分がなぜ、すべての元凶であるに乗り続けているのかも、もうわからない。そもそもなぜ、に乗ってしまったのか。始まりすら覚えていない。

 自分が、わからない。



――ヨコセ…。



 あぁ、また来た。アルフレッドは絶望した。

 大きな銃を持った赤いとんがり頭の魔杖機兵ロッドギア――――F型試作機ガンバンテイン・カーディナルの搭乗席コックピットの中で力なく座りながら、アルフレッドは声にならない悲鳴を上げた。

 恐怖でのどが引きつっているわけではない。もう声すら出せないのだ。手足も思いどおりにならず、この機体へも人に運ばれて、ただ中へ押しこまれただけ。唯一動かせる目も、片目が包帯でふさがり視界は半分。それすらもかすみがかっていて、頭もうまく働かない。

 だから泣き叫んだのは、彼の崩れかけていた魂だった。



――チョウダイ…。



 いやだ、いやだ。いくら叫んでも、搭乗席コックピットの密室内にはびこる淡い緑光の手は許してくれない。かすんだ狭い視界を埋め尽くし、動かぬ体中をまさぐり、心の中にまで入りこもうとする。いやだ、いやだ、いやだ。

 自分がなくなる――――消えてしまう。



――ナラバ…。



 その時、真っ暗な搭乗席コックピットの黒いモニターの中に文字が浮かび上がった。淡い緑光の世界の中にいたアルフレッドは気付かなかったが、そこにはこう書かれていた。



――ヒトツニ…。



 外部接続確認。魔素粒子生体駆動エーテリアンドライブシステム強制起動。



――アァ、マッテ…。



 次第に、光の手は消えていった。同時に頭も冴えてくる。ピクリとだけ指が動き、首や足、自由が戻ってくる体。それはまるで、体中を縛っていた鎖が次々とほどけていくかのようだった。

 しかしそれでも、手足のいましめは残っていた。



――マッテ、マッテ…。



 放してくれ、消えてくれ。いくらそう願っても、その声と光は残り続けた。

 逃げられない。



――ニガサナイ…。



 きっと自分が、消えるまで。

 覚醒した意識に色濃い絶望がにじみ出すと、アルフレッドはそれから逃れるようにして手足をわずかながらにばたつかせた。

 消えたくない。死にたくない。自分は、まだ――――

 不安と恐怖に心と体がもがき始めた時、人の声が聞こえた。


魔素粒子生体駆動エーテリアンドライブシステム、起動工程シーケンス終了。正常に作動しています。外部通信も接続完了』

『良し。ごくろうさま、マルクス』


 怨嗟えんさの声ではない。間違いなく人の声。男と女。

 特に、女の声には聞き覚えがあった。


『やぁアルフ、私のかわいい弟よ。気分はどうだい?』


 鈴を鳴らしたような、涼やかな声。心にスッと入りこみ、誰も彼もをきつけてやまない。そんな声。

 その声はまるで邪気をはらうように光の手を薄め、頭の中で響き続けていた声をかき消した。


『今日は君に吉報きっぽうを持ってきてあげたんだ』


 安心感があった。懐かしさと、歓喜すらあった。

 しかし、その声は――


『実験は、今回で最後だ」


――悪夢の続きだった。


『もう苦しまなくていい。あと少しで、君はになれる』


 ダメだ、とアルフレッドは思った。この声ではない。

 この女性ひとではない。


『ちょうど良かったよ、代わりの人材も見つかったことだし。君もよく頑張ってくれたけど、F型の限界を知るにはもっと適任な者さ。最初から彼の存在を知っていれば、君もこんなことにならずに済んだ――』

『ストラノフ博士っ…!』

『? なんだい? そんなに慌てて』


 自己を形作るもの。しるべくさび

 今、自分が自分であるために必要なものは、彼女ではない――――彼女であるはずがない。


『……そんな余計なことを言う必要がどこに?』

『どうせもう、こちらの言葉など大して理解できていないさ。心配性だね、マルクスは。それとも今さら同情かい?』

『っ! それ、は…』

『まぁいいけどね。私もつい口が滑った。ただ、本当に惜しい気持ちがあるんだよ。こんなに後悔したことはないぐらいだ。この子にはもっとほかの使があったかもしれないってね』


 なぜなら彼女は、自分の始まりにして――


『……もったいなかった、と?』

『そのとおり』

『まるで、道具のように言うのですね』

『君は、私のことをよく知っているはずだろう?』


――終わりそのものだから。


『私にとってすべては、それ以上でも以下でもないよ』

『ですが、彼は……あなたの弟ですよ?』

『? だから?』


 そこで、会話は途切れた。男は押し黙ってしまったようだ。やれやれ、とこぼす女の困ったようなため息が聞こえる。

 それになんら関心を抱かず、アルフレッドは必死に叫んだ。

 なんでもいい。消えたくない。

 自分を世界ここに、縛りつけてくれ。


『さて、余計な話を聞かせてしまったね』


 くさびしるべ。なんでもいい。いかりくさりかせ十字架じゅうじか――


『それじゃ、始めようか』


――


『今回の趣旨しゅしは簡単だ。口で言っても無駄だと思うけど、一応説明しよう――――』


 女の声が頭の中を横滑りしていく。その最中さなか、アルフレッドは遠い背中が見えた。

 それは、ノイズの入る幻だった。



――野良犬……かまれ……さっさと――――。



 その背中は、もう振り返らない。



――道……石ころを……なんて自慢、誰にも――――。



 置いていかれる。

 そう思った瞬間、ノイズが消える。



――じゃあな、アルフレッド・ストラノフ。



 鮮明になったその背中は、自分アルフレッドくさび

 しるべいかりくさりかせ十字架じゅうじか――――だれか

 深い穴に吊るされた細い蜘蛛くもの糸であり、おぼれ流される先に浮かぶ一束のわら。遠い遠い、一筋の光。

 己の魂が求める、


「……スヴェン…」

『――――おや?』


 自己を形作るもの。必要なもの。

 自分アルフレッドが、自分アルフレッドでいられるもの。


「……スヴェン・リー…」

『うん。そうだね、アルフ。面倒なことはもういいか』



――ブゥンッ。



 真っ暗な搭乗席コックピットに明かりが灯り、スクリーンに外の景色――薄暗い格納庫の中――が映し出される。頭に響く声も、体中にしがみつく手も、すべてが消え失せる。

 そしてアルフレッドは、絞り出すような声でその名を口にした。


「スヴェン・リーは……どこだ…」

『座標は送ってある。君にとってもなじみ深いはずの場所さ。今度こそ、彼に会えるかもしれないよ』


 その声と同時に、正面のスクリーンから光がほとばしった。



――ピシャァ――――ッ!



 雷鳴。灰色の雲の海。格納庫の扉の向こうには、陽の光を拒む昼間の重たい空が広がっていた。


『さぁ、行っておいで』


 見送りの言葉に服従する体。両足をペダルにかけ、足の間で操縦桿と化していた鍵杖キーロッドを両手で握る。黒いローブのそでからはみ出た左手は火で焼かれたように肌がただれ、右手も生気を失ったかのように青白い。

 モニターにうっすらと反射する顔は、左半分が包帯でグルグルと巻かれ、右半分にはくぼんだ眼窩がんかを際立たせるギョロリとした眼球。灰色の瞳は焦点が合っていない。

 ひどい姿だった。包帯の間からはみ出る銀髪はわずかであり、抜け落ちた箇所のほうが目立つほど。その姿はまるで、墓穴から出てきた死者のようだった。

 そんな自分の姿が、アルフレッドにはもう見えなかった。


「スヴェン・リー…」


 彼に見えているのは、遠い背中。

 決して振り返らない後ろ姿。


「スヴェン・リー…!」


 自分を、置いていこうとする男。


「スヴェン・リィィィ…!」


 アルフレッドがうめくようにその名を呼ぶと、再び女の声がした。


『男の尻を追いかけるのもいいけどね、アルフ』


 聞く耳はもたず、手足へ力を込める。先ほどまでまったくこたえてくれなかった四肢に不思議と、力がみなぎる。

 そんな自分の状態にすら関心をもたず、アルフレッドはアクセルペダルへと足をかけた。

 女の、まるで子どもへ言い聞かせるような調子のセリフが合図。


『途中のも、ちゃんと片付けるようにね』


 そしてアルフレッドは、アクセルペダルを踏み抜いた。



――キィィィ――――バシュッ!



 雨の降りしきる灰色の世界。その空に描かれた不吉な淡い緑光の軌跡は、刹那せつなに消える雷光の幻を追いかけていった。

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