10 シズク

 重い足を引きずりながら自室の扉の前へたどり着いたところで、スヴェンは思い出した。


「そうだ、タルボ…」


 動くたる――しゃべるたると言うのは微妙だ――という不思議な存在についての報告、連絡、相談。また怠ってしまった。気がさらに滅入る。


(まぁどうせ、レオン先生に言っても同じだったろうしな…)


 しかし、アナスタシアならば何か知っているかもしれない。おしかり覚悟で伝えようと心に決めて今夜、彼女のカウンセリングへ向かったはずなのに、結果は惨敗。いや、勝ち負けの話ではないか。


(反則だよな、あんなの)


 認証装置へ手をかざし、自動で開いた扉の内側へと体を滑りこませる。自分もバケモノなどと呼ばれていたが、今日は本物のバケモノが如き二人と対峙してクタクタだ。なんとかローブだけは脱ぎ、スヴェンはシャワーも浴びずにそのままベッドの上へと転がった。

 部屋の明かりはつけず、真っ暗な天井を見つめる。


(……あの女、本当にイカレてやがる)


 そうとしか言いようがない。あの瞳とあの笑みを見れば、一目瞭然いちもくりょうぜん。本能の出番すらなく悟る。

 あいつは、ヤバいやつだ。


(エリック・レッドヘルムってのも、教官の親友だとは思えなかったしな…)


 思い出したとたんに胃がムカムカ。なぜあんなやつを信頼しているのか、バウマンは。スヴェンは奥歯をかんで天井をにらみつけた。胃薬が必要なほどにむかっ腹が立つ。

 だが、目を閉じるとすぐにそんないら立ちも消え失せた。胃薬代わりにきもを冷やしたのは、まぶたの裏にこびりつく狂った月のようなアナスタシアの笑み。

 宙を掴むように手を伸ばす。


「……これで、良かったのか?」


 ふと心配になったのは、リズのことだった。

 エイル・ガードナーが言った最期の言葉。渡すな。今なら確信をもって言える。

 絶対に、あの狂人アナスタシアのことだ。


(レインってやつとエイル・ガードナーは、本当は助けようとしてたんじゃないか…? 少なくとも、あのメイドは完全にリズの味方だったし。東方にさらおうとしてたのは事実みたいだけど……)


 そもそも、リズの意思はどうなのか。どうしても逃げたいという必死な様子は見受けられなかった。しかし前提として、あの人形のような少女に自由な意思などあるのだろうか。ジンの言うことではないが、どこか人間離れした雰囲気をもつあの少女に。

 と、そこまで考えてスヴェンは、次にジンのことについて頭を悩ませることとなった。絶賛ケンカ中の親友。仲直りの機会はいつ訪れるのやら。

 そして次々に浮かぶ心配の種、不満な生活、不安定な現在いま。どこにも落ち着けず、陥る懐郷病ホームシック。もはや寝る前の習慣ルーティーンだったが、今夜は一段とひどい。


(……今日は寝るか、このまま)


 今すぐ実行へ移せば、泥のように眠れる。そんな気がしたスヴェンは左手にはめた腕時計へ目を向けるものの、外すことはせずにまぶたを閉じた。肌身離さずと言えば聞こえは良いが、肌身離ずの状態となっている彼の心理状態は病的と言っても差し支えない。

 ただ、これもやはり懐郷病ホームシックなのか、それとも恋の病なのかは、判断の難しいところ。


(元気かな、フィーは…)


 自らの故郷に帰っているはずの赤毛の恋人。魔導技師マギナーとしての生活を始めながら、砂浜みたいな星空の下で自分を待つ彼女の姿を想い、そのまま夢の中へ出てきてくれることを願いながらスヴェンは眠りについた。




 幸せな夢を見れたのかどうかは定かではないが、スヴェンはすぐに目覚めることとなった。



――ピタッ。



 首筋に当たる冷たい感触。「ん…?」と寝ぼけながら真っ先に思い当たったのは例の動くたる、タルボ。またあいつか。気配がしないと思ったら。

 深い眠りから目覚めたばかりのスヴェンは気付けなかった。それがツンツンと頬をつついてくる、甘えたような感触とはほど遠い、殺気のこもった刃の冷たさであることを。

 まぶたをこすろうと腕を動かし、口を開く。


「おい、タル――」

「動くな」


 と言われるまでもなく手の動きを止めたのは、単にで掴まれたからだ。

 タルボじゃない。


「静かに。しゃべっても殺す」


 冷たい刃のひらをのど元に押しつけられ、せり上がる恐怖がグイッと口から出そうになる。なんだこれ。誰かにのしかかられて、殺されかけているのか。ふざけるな。

 込み上げる怒りに恐怖が薄れ、意識が鮮明に。冷静な思考、そして呼び起こされる記憶。

 聞き覚えのある声だった。


「どうも、お久しぶりですね」


 意識のもやが晴れ、暗闇に慣れた視界が相手のヴェールをはがす。

 輪郭りんかくはまだぼやけていたが、覆いかぶさるその身は細い。女性だ。頭に浮かんだ人物像と一致する。頬を隠してしだれ落ちる闇の中の黒髪は本来、あごのラインで一糸乱れぬほど切りそろえたものに間違いない。

 リズの世話係にして東方連合のスパイ容疑をかけられたメイド、レイン。

 そう思ったものの、こちらを組み伏せる相手方の全体像がはっきりと認識できていくにつれ、その確信は揺らいだ。

 なぜなら、メイド服ではなかったからだ。


「……私をお忘れですか? 言っておいてなんですか、そこまで久しぶりでもないのでは?」


 自分の着るローブのように、開かれた前襟まええりを重ねて留める黒の上衣。ベルトではなくマフラーのような布を腰に巻き、フードなど余計なものは付いていない。

 東方、ヤマトの着物だ。母も持っていた。しかし、体を覆う面積が明らかに少ない。

 覆いかぶさっていた相手がこちらの腹部へ腰を据え、思わず変な空気音が口から出る。しかし、それと引き替えに首筋へとかかっていた圧力が弱まり、しゃべる猶予ゆうよを与えられたのだと解釈したスヴェンは慎重に言葉を発した。


「あんた……その、格好は…?」

「? あぁ、これですか?」


 そではなく、すそも短い。太ももをほぼ隠せていないショートパンツが見え隠れしている。鍛えられ、引き締まった手足がむき出しに。

 その代わり、薄い黒地のストッキングと二の腕まで届く黒の腕袋が肌を隠し、靴というよりも靴下に見える足袋がベッドの上に乗っているのが見えた。


「これは、忍び装束です」

「シノ、ビ…?」

「そう。、というやつですよ」

「どっちも、わかんねぇよ……いったい何者なにもんだ、あんた…!?」


 スヴェンがうめくと、暗闇の中で見下ろす瞳が猫のように光った。


お目にかかります。私の名は、天雫あまのしずく

「? アマ……?」

「陰陽府隠密部隊所属、階級は少尉。神剣十二氏族が一、天氏てんしの姓を賜りし一族の末席に連なる者……まぁ、シズクでかまいません」


 研ぎ澄まされた、理知的で切れ長の眼差し。美しい刃のような印象を与える女性――――シズク。レインではないのか。いや、つまり偽名だったのか。突然の状況に加えて情報過多で、いい加減パニックだ。

 なので、スヴェンはふと思ったことをそのまま口にした。


「薄着の女と、夜、ベッドの上で二人きりか…」

「……は?」


 字面だけなら完全に浮気アウト。疑惑の判定も含めれば、すでに二死ツーアウト

 スヴェンにとってはいろいろと、絶体絶命のピンチに違いなかった。

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