9 疑惑の判定
暗い廊下。足元を照らす
背筋を真っ直ぐ伸ばし、しなやかな曲線美を描いて前を歩くアナスタシアへ尋ねる。
「さっき、なんのお話をしてたんですか?」
「秘密さ」
気分の高揚を隠さぬ声。にべもないとは言わぬものの、歩くたびに
つかず離れず、保つ距離は三人分。
「教える気がないなら、最初から自分を部屋に通さなければ良かったのでは?」
「面白いかと思って」
「……面白かったですか?」
暗闇の中でも輝く長い銀髪を揺らし、アナスタシアがこちらへ涼やかな流し目を送る。
「それはもう」
含み笑いの返答を聞いて、スヴェンは頭痛に襲われた。
エリック・レッドヘルムとの通信が終了後。カウンセリングを始めるのかと思いきや、いきなり散歩のお誘い。しばらく歩いた後に差し掛かっているのは、
いら立ち気味だったのもあって、丁寧な口調の装いでもとげは隠せなかった。
「ご期待に添えたようで何よりです。それに、あんな素晴らしい方との
「ハハッ、怖いもの知らずだねぇ君は」
カツカツと軽快に鳴り響いていたヒールの音が鈍くなり、リズムも遅れる。
彼女はクルリと振り向いた。
「ちょっと、後ろ歩きは――」
「貸しひとつ」
ポケットに突っこまれていた両手が片方だけ出てきて、ピッ、と人差し指を立てる。スヴェンは黙って狭くなった彼女の歩幅に合わせた。
「君、私が止めていなかったら確実に死刑だからね? 相手は
「あれぐらいで処刑だなんて、
やや言葉を荒げ、スヴェンは顔を背けた。今思い出しても腹が立つ。
そして何より腹が立つのは、バウマンがあんなやつを信頼していることだ。
「? すねているのかい?」
「……は?」
突然の問いに、固まる表情筋。図星を突かれたというより、むしろ病気だと宣告されたような気分。
アナスタシアが「ふむ…」と手をあごに添える。
「先ほど見せた、彼の心ない言葉に対する憎悪ではない。今の君は、まるで親に対してすねている子ども……いや、むしろ逆か…?」
「いや、意味わかんないです」
「あ、わかった」
パチンッ、と指から軽快な音。
「ブラッド
「? ブラッド…?」
「おっと、今はバウマン
その言葉を聞き、スヴェンはすぐに思い出した。
ブラッド。北に領地をもつ
ブレン・バウマンの旧姓だ。
「教官のこと、知ってるんですか?」
「もちろん。北で起こった
その語り口に、思わず押し黙る。どうしてそうなったのか。その後、どうなったのか。自分は知っているからだ。
「……どうやら、訳知り顔のようだ。ならばエリックを許してやっておくれ」
斜め前を歩いていたアナスタシアが正面へ移動する。後ろ歩きのままなので、向かい合う形に。
「彼は親友を、
「とんだ被害妄想ですね」
けっ、と言いたくなるのをこらえていると、前方から小さな笑い声が。
ついイラッとした。
「何がおかしいんすか?」
「いや、なるほどと思って。どうやら君は、バウマン
「? どうして、そういうことに…?」
「ダメ男を連れてきた娘の父親」
「は?」
「もしくは、
まったく意味がわからない。だが、言った本人はとてもおかしそうだった。
自分の言葉でツボにはまったのか、腹を抱えて笑い出すアナスタシア。こんなに自然と、声に出して笑う彼女を初めて見た気がする。そんな風にも笑えるのだと妙な感心。
(まぁ、バカにされてるんだろうけどな…!)
眉をヒクつかせながらも、スヴェンは彼女が心配になった。といっても大したことではない。
腹が
――ガッ!
「あっ――」
「――っとと…!」
背後へ転ぶ彼女の腕をとっさに掴み、逆の手で背中を支える。当然の帰結だ。言っていないが、言わんこっちゃない。そんなふうに思いながら彼女をまっすぐ立たせ、スヴェンはすぐに離れようとした。
しかし、離れられなかった。
「君の根源は怒りだ」
支えた腕にかかる重み。無防備に背中を預け、こちらの肩と腕へ手を添えるアナスタシア。まるでダンスの
止まる時間。自分が手を離せば倒れてしまうにもかかわらず、間近にある彼女の顔色はひとつも変わらなかったが、瞳だけ熱を帯びた。
「どこにも歓喜を見出だせず、享楽は一助にすらなり得ない。悲哀をその身と心に刻み、そして、魂に根付くは果てなき憎悪……それが君だよ、スヴェン」
腕から感じる柔らかさと距離の近さにドギマギしながらも、スヴェンはカチンときた。特に、そのヘンテコな詩の最後の節に。
知ったふうな口を。
「これもカウンセリングですか? 人を分析するのは勝手ですけど、付き合いが短すぎて説得力が――」
彼女が転ぶことさえ
――トンッ…。
甘い衝撃。鼻先で揺れる銀髪。
離した腕から伝うように、離れた重みが胸元へ。
「いつも、君のことを考えているからだよ…」
広げたはずの距離はなくなり、背の高い彼女のささやきが耳元に。
胸へ添えられた手によろめき、足は一歩後ろへ。しがみついてしまった手は、彼女のくびれる腰元へ。
「朝も昼も……そして毎晩、ベッドの中でもね…」
ゴクリと鳴るのどからは「こ、光栄です…」としか出てこず、スヴェンは焦った。まずい、こいつはまずい。薄闇の中で感じる温もりよりも、左手にはめた腕時計の感触がやけにざわつく。
脳裏をよぎるのは、フィーの不安げな顔。
スヴェンは反射的に離れようとしたが、それよりも早く胸に添えられていた手が背中へ回された。
「あのエリックにかみつく君を見て、私は興奮したんだ。この胸が熱くなったよ…」
密着する体。狭間で潰れる双丘の柔らかさがシャツ越しに伝わり、遠のく腕時計の感触。
息をすることさえ忘れそうな金縛り状態の中、それでもなんとか口だけ動かす。
「バカにされたら、誰だってかみつく、かと…」
「弱者は強者に逆らえない。君も、最初は彼に
スルリと背筋をなぞる手。
ゾクリとたどる軌跡。
「それでも君は、エリックに憎悪の目を向けた」
背中に回された両手で、そっと抱きしめられる。優しい
耳元に声。
「愚かさと紙一重の蛮勇などではなく、そこにははっきりとした、相手を焼き尽くすまで絶えぬ怒りの炎があった」
甘いセリフではない。
「あの模擬戦でも、君は怒っていたね」
なのに、甘ったるくこびりつく。
「あの時ほど、
生温かい吐息が耳にかかり、鼻先を細い銀糸がそよぐ。そして彼女はヒールの高さだけでは足りぬとばかりに背伸びをし、背中にしがみついてきた。
耳たぶにざわつくのは吐息と、柔らかなくちびるの感触。
「君は怒っている時が、一番素敵だよ…」
直接すぎるささやきが頭の芯へと響き、熱に浮かされるようにスヴェンの意識はくらくらした。
だからつい、その腕で――
――キュッ…。
――その細く、くびれた腰を引き寄せた。
「――――あぁ、スヴェン……私は、楽しみで仕方ないんだ」
背中を掴んでいた手が胸を
両腕で、そして全身で、こちらの首を甘く絞める。
「君の心がもし、絶望したら……怒りの炎に、その身を焼かれたら…」
銀色の髪が揺らめき、ゆっくりとアナスタシアの頭が離れる。その身をピタリとこちらにくっつけたまま。
「魂に根付くその憎悪に、すべてを
そして夢うつつのまま、間近で向かい合うことになった彼女の美しい顔の、良く動くそのくちびるに吸い寄せられる。
しかし、そこには狂人がいた。
「世界一、ステキなものになるよ…!」
――ドンッ!
口の裂けた三日月のような笑みと、瞳孔の開いた狂気的な瞳を前にして、スヴェンは思わずその狂人を突き飛ばした。
「あっ…!」
と口を開くも、アナスタシアは悲鳴も上げずに「おっと」とつぶやいただけで、ハイヒールを履きながらも華麗にバックステップ。彼女が優秀な軍人でもあるということを忘れていた。
まるで、先ほど転びそうになったのもすべて芝居だったかのようだ。
「まったく、私の悪いくせだな」
ほこりを払うような仕草で短いタイトスカートを叩きながら、アナスタシアが続ける。
「動物を捕まえようとすると、最後の最後で逃げられる。言い訳ではないけど、その寸前までは好かれるタイプなんだよ?」
突然の暴挙に非難も浴びせず、クスリとほほ笑む余裕の表情。先ほどの狂気に加えて言っていることも意味不明で、スヴェンは混乱した。
「ど、動物…?」
「昔の話さ。どうしても捕まえたくてね。寄ってきてはくれるんだけど、手を伸ばしたらみんな怯えてしまうんだ。今の君みたいに、ね」
肩をすくめてため息をつくアナスタシアの様子を、スヴェンは一瞬も目を離すことなく見定め続けた。
体中に、冷や汗を流しながら。
「そう怯えなくていい」
初めて出会った夜の比ではない。
「続きは、また今度にしよう」
人を誘惑してやまない流し目を送るこの女は、やっぱり狂っている――――いや、イカレてやがる。
たぶん、本当に。
「さて、それじゃ帰ろうかな」
クルリと背を向けて歩き出すアナスタシアに、スヴェンはついて行かなかった。いや、ついて行けなかった。
一歩も足を動かせぬまま、警戒心をあらわにその場で尋ねる。
「帰るって? カウンセリングは?」
「ただの方便さ」
「方便?」
「君と甘い夜を過ごすための、ね。なんならついて来るかい? このまま続きをしよう、私のベッドの上で」
その誘いに、スヴェンは黙りこんだ。魅力に惑わされたのではない。まるでハリネズミの様に全身から拒絶のとげを出し、言わずともわかるほどの雰囲気を放っていた。
アナスタシアは立ち止まってその様子を見ていたが、またもやクスリとほほ笑んでその場を後にした。
「続きといえば、さっきの話にも続きがあってね」
去り際に、含み笑いのセリフを残して。
「逃げられると燃えるタイプなんだ、私は」
そしてアナスタシアはヒールの音を高らかに鳴らしながら、薄闇の向こう側へと消えていった。静けさの戻った廊下に響くヒールの音が遠くなるまで、スヴェンはその場でじっと身構えていた。いつでも逃げられるように。
しばらくして、やっと緊張が解けたころには、ぬれた
そして今度は全身でなく、首筋だけがヒンヤリ。
――今度こそ息の根止めるから!
「……さっきのは
たびたび思い出す赤毛の恋人の幻影へ言い訳して、おそるおそる首筋をなでる。
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