8 北方大聖公
目の前には、固く閉ざされた冷たい扉。
スヴェンは言われたとおり、いつもレオンのカウンセリングを受ける時間にアナスタシアの部屋へと訪れていた。
――コンコンッ。
「ストラノフ
ノックしてしばらく待つも、応答なし。いないことはないだろう。もしかして防音なのだろうか。
確認のため扉に耳を近付けてみると、何やら会話をしている声が聞こえた。やっぱりいる。
(というかむしろ、もう一人…?)
内容は聞き取れないが、かすかな声が二人分。アナスタシアの声と重苦しい男の声。先客か。
スヴェンは引き返そうとしたが、時間を改めるにしても彼女の指定する時間でなければいけないだろうと思い直した。
「ストラノフ
そしてドア越しに届いた指示は、スヴェンの期待するものではなかった。
「あぁ、すまない。開いているから入ってきていいよ」
げ、と声には出さずに顔をしかめる。できれば帰りたかったのだが。
アナスタシアだけでも苦手だというのに、相手の男は何やら上官の様子。
(面倒くさそうだけど……ためらってる分だけ怒られそうだな)
開き直ったスヴェンは素早くフードを被った。
小舟の上で、
そんな
――プシューッ。
扉が開くと同時に「失礼します」と頭を下げ、サッと入室。そしてスヴェンはその場で立ち止まり、キュッ、とフードの端をつまんだ。
「スヴェン・リー、参りました」
「やあ、ご苦労様。悪いね、疲れているだろうにわざわざこっちへ来させて」
「いえ、別に疲れてなんか――」
フードを取りながらのセリフをさえぎったのは、重苦しい声。
『誰がフードを取っていいと言った』
「――っ! し、失礼しました…」
踏み出した足と視線をいっしょに下げ、元の体勢へ戻る。敬礼代わりにつまんだフードをいつもより目深に引っ張ったのは、相手に
肉声ではなくモニター越し。バウマンにも似た、重厚で
誰だ。
「レッドヘルム
(……レッドヘルム?)
床を見つめながら、聞き覚えのある名前を記憶の中から引っ張り出す。
その間も二人の会話は続いた。
『貴公に部下などおらぬだろう』
「これは異なことを。ではいったい、ここにいる者たちは私のなんだと?」
『己の胸に手を当ててみるといい』
「ふむ。
『……フン、女狐め』
あまり仲のよろしくないやり取りを
レッドヘルム。おそらく現
バウマンが
『……名は?』
重く、静かに問う声。詰問口調ではないのに、まるで頭を無理やり押さえつけられたよう。
「……特殊実験機兵部隊所属、
言い終わりに、カツンッ、と重なるヒールの音。
「
『まさか入室させるとは思わなかったのでな。驚いているうちに聞き逃してしまった』
「なるほど、左様でしたか。かの名高き北の英雄に、一泡吹かせてやったと誇りに思っておきましょう」
『無礼すぎて開いた口がふさがらなかっただけだ』
相手にすることの
真横へ移動する人影。開けた正面。
まるで高座から降り注ぐ、命じることに慣れた声。
『フードを取り、顔を見せよ』
スヴェンは言われるがままにフードを取り、顔を上げた。内心を支配していたのは
それほどまでに、対峙したことのない
(この人が、
正面にある
やや長い髪を全体的に後ろへ流し、上げた前髪はまるで獅子の
(教官の口振りだと、同い年みたいだったけど…?)
金糸や銀細工などをあしらえた
ただ、その威光に陰りはない。ぶしつけな視線をひとにらみで
そして、少しでも
『……フンッ、
その
「なに――――っ!?」
「とまぁそういうわけで、お許しいただけますか? エリック・レッドヘルム
ガバッと上げた顔を今度は物理的に押さえつけられ、目の前に立ちふさがったその犯人がエリックに許しを請う。
彼は難色を示した。
『部下にそのつもりはないようだが? 我ら
「もちろん存じ上げておりますが、私が許しを願ったのは先ほどの件です」
『……貴様と話していると頭が痛くなるな、
「あなた様に情報を売るこの身、
あらわになった悪意を
頭を押さえつけられながら、スヴェンはまるで、何かの取引現場に居合わせている感じを覚えた。
『……それは、必要なことなのか?』
感情を消した問いに、あっけらかんと答える涼やかな声。
「いいえ、あんまり。ですがまぁ、プラスになることはあってもマイナスになることはありませんよ、私たちの計画に」
『どちらでも良さそうだな』
「正直に言うとそうですね。ただこの部屋をご覧いただければわかるように、私はきれい好きなんです。そして何より、我らが偉大なるギムリア帝国軍の軍紀に従い、決断したまででございます」
頭から手が離れ、解放されたスヴェンが顔を上げると、目の前で手を広げたアナスタシアが
白いローブ越しでも伝わるその
『私がこの世で最も
突然の問いに目を向けると、エリックはアナスタシアではなく、はっきりとこちらを見ていた。
そして、眉ひとつ動かさずに言う。
『発情したサルだ。もう下がれ、
「っ! てめ――」
「はいストップ、そこまで」
見事に言い当てられた
近付く
「いい子だから、少し黙っていなさい」
クスリともらす吐息が聞こえ、息をのむほどの美しい顔が離れていく。去り際に、人差し指でくちびるを軽くなぞられた。
背筋にゾクッとしたものが走り、スヴェンが慌てて――顔を赤くしてしまったのは不慮の事故だ――口元を
「それで、ご返答いただけますか?」
『今のをなかったことにできるとでも?』
「もちろん。困るのはあなたですよ?」
問いかけの
先ほども言っていたが、相手は
床が開くだけで絞首刑。そんな状況。支配者たるエリックにとっては造作もないこと。
しかし、彼女の自信はなんだ。
『……よほど、お気に入りと見える』
先に
「ええ、否定はしません」
そんなふうに口元を引きつらせながらも、スヴェンは次第に小さな違和感を覚えた。
『フン……新しい
「相変わらず嫌われていますので、父上には。おっと、レッドヘルム公、通信を切るにはまだ早いのでは? ご返事をいただけておりません」
『軍紀に従い、すでに決断しているのだろう? 許可も何も、私がとやかく言うことではない』
「……本当に?」
先ほども感じた雰囲気。まるで、取引現場のような空気。
『……私は、もう、
「そう、それは良かった」
交わすのはきっと、偽りの
「ありがとう、エリック」
『……魔女め』
二人はまるで、互いに寝首をかこうとする共犯者のようだった。
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