8 北方大聖公

 目の前には、固く閉ざされた冷たい扉。

 スヴェンは言われたとおり、いつもレオンのカウンセリングを受ける時間にアナスタシアの部屋へと訪れていた。



――コンコンッ。



「ストラノフ大師正たいしせい、いらっしゃいますか?」


 ノックしてしばらく待つも、応答なし。いないことはないだろう。もしかして防音なのだろうか。

 確認のため扉に耳を近付けてみると、何やら会話をしている声が聞こえた。やっぱりいる。


(というかむしろ、もう一人…?)


 内容は聞き取れないが、かすかな声が二人分。アナスタシアの声と重苦しい男の声。先客か。

 スヴェンは引き返そうとしたが、時間を改めるにしても彼女の指定する時間でなければいけないだろうと思い直した。


「ストラノフ大師正たいしせい、スヴェン・リーです。カウンセリングを受けに参りました。出直したほうがよろしいでしょうか?」


 そしてドア越しに届いた指示は、スヴェンの期待するものではなかった。


「あぁ、すまない。開いているから入ってきていいよ」


 げ、と声には出さずに顔をしかめる。できれば帰りたかったのだが。

 アナスタシアだけでも苦手だというのに、相手の男は何やら上官の様子。


(面倒くさそうだけど……ためらってる分だけ怒られそうだな)


 開き直ったスヴェンは素早くフードを被った。

 小舟の上で、かいを斜めに持つひげの長い老人という、なかなか珍しい意匠デザインの紋章を胸に縫いつけた黒ローブ。特殊実験機兵部隊ハールバルズの正式なパイロット専用ローブだ。ちなみにこの部隊章とこの魔杖機船ロッドシップ『ナグルファル号』に由来して、時おり『渡し守』という俗称で呼ばれることもあるらしい。

 そんな渡し守ハールバルズの正装をしてきたことに安堵するも、ベルトへ鍵杖キーロッドを提げていないことに一抹いちまつの不安。常に携帯することは軍規ではなく、魔導師の心得。そういったたぐいの説教をされないよう祈りながら、扉の横の認証装置へ手を当てる。



――プシューッ。



 扉が開くと同時に「失礼します」と頭を下げ、サッと入室。そしてスヴェンはその場で立ち止まり、キュッ、とフードの端をつまんだ。


「スヴェン・リー、参りました」

「やあ、ご苦労様。悪いね、疲れているだろうにわざわざこっちへ来させて」

「いえ、別に疲れてなんか――」


 フードを取りながらのセリフをさえぎったのは、重苦しい声。


『誰がフードを取っていいと言った』

「――っ! し、失礼しました…」


 踏み出した足と視線をいっしょに下げ、元の体勢へ戻る。敬礼代わりにつまんだフードをいつもより目深に引っ張ったのは、相手に萎縮いしゅくしたからだ。

 肉声ではなくモニター越し。バウマンにも似た、重厚でよわいを重ねた男の低い声。しかしその声の主はバウマンと違い無機質で、さらなる威圧感があった。まるで、人を統べることに慣れているような。

 誰だ。


「レッドヘルム大聖公たいせいこう、私の部下をあんまり脅かさないほしいな。ここはあなたの職場と違ってフランクさが売りなんだ」

(……レッドヘルム?)


 床を見つめながら、聞き覚えのある名前を記憶の中から引っ張り出す。

 その間も二人の会話は続いた。


『貴公に部下などおらぬだろう』

「これは異なことを。ではいったい、ここにいる者たちは私のなんだと?」

『己の胸に手を当ててみるといい』

「ふむ。下卑げひた言葉で手下、叙情的につづれば戦友とも、といったところでしょうか。おや、どれも部下と意味はそこまで変わらないかな?」

『……フン、女狐め』


 あまり仲のよろしくないやり取りをはたで聞きながら、スヴェンは思い出した。

 レッドヘルム。おそらく現北方大聖公ほっぽうたいせいこう、エリック・レッドヘルム。

 バウマンが親友ともと口にしていた人だ。


『……名は?』


 重く、静かに問う声。詰問口調ではないのに、まるで頭を無理やり押さえつけられたよう。


「……特殊実験機兵部隊所属、魔杖機兵ロッドギアパイロットのスヴェン・リーです。階級は導師であります」


 言い終わりに、カツンッ、と重なるヒールの音。


大聖公たいせいこうも人が悪い。彼は先ほど、ちゃんと名乗っていたではありませんか」

『まさか入室させるとは思わなかったのでな。驚いているうちに聞き逃してしまった』

「なるほど、左様でしたか。かの名高き北の英雄に、一泡吹かせてやったと誇りに思っておきましょう」

『無礼すぎて開いた口がふさがらなかっただけだ』


 相手にすることの億劫おっくうさをみじんも隠そうとせず、レッドヘルムは投げやりに吐き捨てた。それに対しアナスタシアが、何も言わずにきびすを返す。

 真横へ移動する人影。開けた正面。

 まるで高座から降り注ぐ、命じることに慣れた声。


『フードを取り、顔を見せよ』


 スヴェンは言われるがままにフードを取り、顔を上げた。内心を支配していたのは畏怖いふ畏敬いけいか。それとも、はっきりとした恐怖か。

 それほどまでに、対峙したことのない圧力プレッシャーだった。


(この人が、北方大聖公ほっぽうたいせいこう…)


 正面にある仕事机デスクの向こう側、白い壁の少し高い位置に取り付けられた大型モニター。その画面越しに、血で染まったような赤い頭髪の男がいた。

 やや長い髪を全体的に後ろへ流し、上げた前髪はまるで獅子のたてがみのよう。そしてそれらだけでなく、太い眉と強い意志を宿した瞳までもが深紅に染まる、肩幅の広い美丈夫びじょうふ。これが、エリック・レッドヘルム。


(教官の口振りだと、同い年みたいだったけど…?)


 金糸や銀細工などをあしらえた豪奢ごうしゃな黒ローブは胸元までしか映っていないが、その相貌そうぼうだけでも覇気があり、精悍さと体格の良さがうかがえる。しかし、おそらくバウマンより一回り体は小さく――これは彼が大きすぎるだけだが――そして年齢も一回りは下に見える。四十半ばには見えず、二十代と言われても納得。それほどに若々しい。髪を下ろせばもっと若く見えるかもしれない。

 ただ、その威光に陰りはない。ぶしつけな視線をひとにらみでいさめられたスヴェンは慌てて視線を外し、意味もなくフードを被りたくなった。他人にこんな態度を見せるのは生まれて初めてだ。

 そして、少しでも粗相そそうをしたら首が飛ぶのでは、などと不安を感じていると。


『……フンッ、東方系人種イースタニアンか』


 その汚物ごみでも見てしまったかのような反応に、頭がカッとなった。


「なに――――っ!?」

「とまぁそういうわけで、お許しいただけますか? エリック・レッドヘルム大聖たいせい


 ガバッと上げた顔を今度は物理的に押さえつけられ、目の前に立ちふさがったその犯人がエリックに許しを請う。

 彼は難色を示した。


『部下にそのつもりはないようだが? 我ら四大聖したいせいに対する無礼な態度、一族郎党はおろか上司ともども万死にあたいすることを努々ゆめゆめ忘れるな』

「もちろん存じ上げておりますが、私が許しを願ったのはです」

『……貴様と話していると頭が痛くなるな、売女ばいた

「あなた様に情報を売るこの身、売女ばいたと呼ばれても差し支えないでしょう。もちろん、そのような意味で仰られたのですよね?」


 あらわになった悪意を飄々ひょうひょうとかわしながらも、アナスタシアは言外にナイフを突きつけた。もし違ったらわかっているな、と。

 頭を押さえつけられながら、スヴェンはまるで、何かの取引現場に居合わせている感じを覚えた。


『……は、必要なことなのか?』


 感情を消した問いに、あっけらかんと答える涼やかな声。


「いいえ、あんまり。ですがまぁ、プラスになることはあってもマイナスになることはありませんよ、に」

『どちらでも良さそうだな』

「正直に言うとそうですね。ただこの部屋をご覧いただければわかるように、私はきれい好きなんです。そして何より、我らが偉大なるギムリア帝国軍の軍紀に従い、決断したまででございます」


 頭から手が離れ、解放されたスヴェンが顔を上げると、目の前で手を広げたアナスタシアがうやうやしく頭を下げていた。堂に入った芝居だ。スヴェンは怒りを忘れ、目の前で腰を折る上司へと呆れた目を向けたが、つい彼女が突き出した形の良い尻に目を奪われた。

 白いローブ越しでも伝わるその煽情せんじょう的なライン。そして、開けたすそからのぞく、肌を透かす黒いストッキングに覆われた足――――と、目線が下へ泳いだ瞬間。


『私がこの世で最もみ嫌うものはなんだと思う?』


 突然の問いに目を向けると、エリックはアナスタシアではなく、はっきりとこちらを見ていた。

 そして、眉ひとつ動かさずに言う。


『発情したサルだ。もう下がれ、下賤げせんの民よ』

「っ! てめ――」

「はいストップ、そこまで」


 見事に言い当てられた羞恥しゅうちに激情を起こすも、鼻白んで立ち止まる。白く細長い指がくちびるに当てられたからだ。

 近付く美貌びぼうに、脈打つ心臓。


「いい子だから、少し黙っていなさい」


 クスリともらす吐息が聞こえ、息をのむほどの美しい顔が離れていく。去り際に、人差し指でくちびるを軽くなぞられた。

 背筋にゾクッとしたものが走り、スヴェンが慌てて――顔を赤くしてしまったのは不慮の事故だ――口元をそででぬぐうと、アナスタシアが何事もなかったかのように言う。


「それで、ご返答いただけますか?」

『今のをなかったことにできるとでも?』

「もちろん。困るのはあなたですよ?」


 問いかけの応酬おうしゅう。その張りつめた雰囲気に、スヴェンはやっと今がとんでもない状況だと気付いた。

 先ほども言っていたが、相手は四大聖したいせい。皇帝に次ぐ、四人の権力者のうちの一人。雲の上すぎて感覚が麻痺していたが、今もしかしたら自分の首には縄がかけられているのかもしれない。それも、目の前の上司ごと。

 床が開くだけで絞首刑。そんな状況。支配者たるエリックにとっては造作もないこと。

 しかし、彼女の自信はなんだ。


『……よほど、お気に入りと見える』


 先にほこを収めたエリックに、内心で驚く。どういうことだろう。彼女も四大聖したいせいの一族だからだろうか。


「ええ、否定はしません」


 北方大聖公ほっぽうたいせいこうと対等な雰囲気を見せる東方大聖公とうほうたいせいこうの娘、アナスタシア・ストラノフ。そんな彼女の背中を見ながら、彼女の弟であるアルフレッドとのたび重なるいさかいを思い出す。実はとっくに処刑されていてもおかしくなかったのではないだろうか。

 そんなふうに口元を引きつらせながらも、スヴェンは次第に小さな違和感を覚えた。


『フン……新しい玩具おもちゃ、というわけか。自慢ならばゲオルグ殿にでもすればいい』

「相変わらず嫌われていますので、父上には。おっと、レッドヘルム公、通信を切るにはまだ早いのでは? ご返事をいただけておりません」

『軍紀に従い、すでに決断しているのだろう? 許可も何も、私がとやかく言うことではない』

「……本当に?」


 先ほども感じた雰囲気。まるで、取引現場のような空気。


『……私は、もう、北方大聖公ほっぽうたいせいこうなのだ』

「そう、それは良かった」


 交わすのはきっと、偽りのさかずき


「ありがとう、エリック」

『……魔女め』


 二人はまるで、互いに寝首をかこうとする共犯者のようだった。

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