2 ベッドの上の攻防

 暗く狭い廊下に、警報が鳴り響く。



――ビィーッ、ビィーッ!



 断続的なけたましい音。スヴェンは耳を覆いたくなったが、できなかった。両手がふさがっていたからだ。

 抱えているのは病的なほどに肌白い、栄養失調を疑いたくなるほど細く幼い足。病人が着るような薄緑のバスローブから伸びるその足の持ち主は、半開きのまなこから翡翠ひすいの瞳を輝かせ、黄金こがね色の長い髪をキラキラとたなびかせる、羽根のように軽い少女――――リズ。

 そんなリズをおんぶして走りながら、スヴェンは前を走るシノビ装束の女性へ声を荒げた。


「おい、あんた! おいっ!」

「うるさいですね。集中させてくださいとお願いしたはずですが?」


 あごのラインで切りそろえた黒髪をわずかに揺らし、切れ長の眼差しに厳しさを乗せた女性は、一瞬だけ流し目を送って再び前方を向いた。止まる気はないらしい。

 黒髪に、黒い手足と黒装束。闇に溶ける後ろ姿の中で目を引く素肌は、ストッキングと短い着物のすその狭間、二の腕まで隠す腕袋と肩口で切られたそでの間の可動域部分、そしてなまめかしい首筋だけ。時おり闇の中で見失いそうになる後ろ姿の目印にもなっていた。そして今もそれを頼りに、忽然こつぜんと消えた目の前の女性――――くノ一とやらであるらしいシズク・アマネの後を追って角を曲がる。

 すぐ視界に飛びこんできたのは、赤く仄暗ほのぐらい廊下。警報の音と合わせるように回転する赤燈せきとうが、壁際に等間隔で配置されていた。


「お、おい! こっちで本当に合ってんのか!?」

「私に聞かないでください」

「んなこたわかってるよ! けど、こんな調子で本当に――」

「黙ってついて来れないんですかあなたは」


 ぐ、とうめいて口を閉じるも、スヴェンは逃走する足を止めなかった。

 ハールバルズ隊の移動拠点である魔杖機船ロッドシップ、ナグルファル号の船内。みかたを裏切り、不思議な少女を背負って、そして謎の女性と逃避行。なんて現実味のない。

 いったいぜんたい、どうしてこんなことに。



『――――ジンたちが殺される?』


 夜の自室、薄暗いベッドの上。はたから見れば煽情せんじょう的な格好をした女が、男の腹の上でまたがっているような構図。そんな色っぽい状況だと気付けないのは、首筋にナイフを当てられていたからだ。

 なので、上にまたがったシズクの言っていることもうまく飲みこめなかった。


『ま、待て、いったいなんの話だ?』

『だから、基地にいるあなたの仲間を助けたければ、私に協力しなさいと言っているんです』

『いきなりそんなこと言われてうなずけるわけ――――っ!』


 グッ、と冷たい刃のひらを押しつけられ、息が詰まる。話はまったく見えないが、現時点でもわかることがひとつ。

 これは提案ではない。脅迫だ。


『そもそもあんた、捕まってたんじゃ……どうやってけ出したんだ…?』

『今はそんなことどうでもいいのでは? あまり時間はないと思いますよ、

『そんなハッタリかまさなくても、脅しならこのナイフだけで十分だろ…!』

『ナイフではなく、クナイです』

『んなもん知るかっ!』


 それこそどうでもいい。スヴェンは刃の下敷きとなっていたのどを動かして叫んだ。見えないのでわかるわけがないし、見えたとて同じ。クナイってなんだ。

 と、つい大声を出してしまったことに今さら気付き、全身が強張る。殺されるかも。

 しかし、あっさりと離れるナイフ改めクナイ。ひとまず得られた安堵にドッと体から力が抜ける。

 暗闇の中でかすかに閃く、刃の光。


『取引にはまず、お互いの歩み寄りが必要です。少し話をしましょう。でも、今度大声を出したら殺します』


 輪を作っている後部が頭に。クナイとやらを逆手に持ち直したらしい。ベッドにつけたままの背筋へ悪寒おかんが走る。

 というか、どいてはくれないのだろうか。


『……話って、このままで?』

『妙なことをされても困るので』


 シズクが馬乗りの体勢を崩さずに言う。このままのほうがをしそうなのだが。

 なんて命知らずなことは言わずに、スヴェンは悪さをしそうな両手を枕よりも上へと置いた。


『それで、なんだよ。仲間の命と引き換えに寝返れってか?』

『ざっくり言うとそうなりますね』

『やっぱり脅迫じゃねぇか…』


 やなこった、とは簡単に言えない。自分の命はともかくとして。

 だが、確証が欲しい。


『あんたの仲間……その、陰陽府か? そいつらが俺の仲間を人質にしてるって証拠は?』


 スヴェンは慎重に尋ねた。もし本当だったとしたら、まずは危害を加えられていないかを知りたい。それに、仲間とはどの範囲までを指しているのか。


『声ぐらい聞かせてくれよ。何も用意せずに脅してるわけじゃないんだろ?』


 ジンやバウマンなどの軍人ならともかく、サラのような一般人だったらまずい。

 そして、そこにもしフィーが入っていたら。スヴェンは恐怖で息が詰まりそうになるのを必死にこらえながらも、その場合はもう言いなりになるしかないと半ば諦めていた。

 だが、シズクはあっさりと首を振った。


『ありません』

『……あ?』

『別に、捕らえてなどいませんから。陰陽府は関係――』


 矢継ぎ早に口を挟んで彼女のセリフを奪う。


『じゃあ、基地に攻撃でも加える気か?』

『いえ、そうではなく――』

『ハッ、なんだよ。やっぱりハッタリじゃねぇか、くだらねぇ。いちいち回りくどいことしてんじゃ――』



――ボフッ!



 壁ドンならぬ、壁ボフ。いや、壁ではなく枕だ。枕ボフ。

 語呂ごろも悪ければ、刃物を使っているので本家かべドンよりも心臓に悪い。


『少しは人の話を聞いたらいかがですか?』


 頭の横をクナイで突き刺して覆い被さる、みがかれた刃のような造形美の顔立ちを眼前にして思う。こいつさては、話し合いとか苦手だな。

 自分を棚に上げたスヴェンは冷や汗を垂らしながら、両手をさらに高く上げた。


『お、落ち着けって。あんまり騒いだら部隊の誰かが駆けつけ――』

『そう、彼らです』

『――? いや、何がだよ』

『あなたの仲間を殺そうとしているのが、ですよ』


 思わずゴクリと生つばを飲みこんだのは、何やら甘い香りが鼻先をかすめたからだった。内容は最初はなから信じていない。


『もう少しまともなウソつけよ。何をどうしたらそうなるってんだ?』

『心当たりは?』

『……あるわけねぇだろ』


 一瞬、アナスタシアの顔が浮かんだ。あの狂気的な笑みが。

 快楽殺人鬼。そう言われても説得力はある。だからスヴェンは視線をそらした。突拍子とっぴょうしもない発言を信じたわけではないが、アナスタシアについては何も確信をもてなかったからだ。

 その心の間隙かんげきを、相手は見逃してはくれなかった。


『今、あなたの頭によぎったものを当ててみましょうか?』


 驚いて見返す。理知的な眼差しに浮かぶのは、暗闇で光る猫の瞳。本当に頭の中をのぞかれていても不思議ではないような輝きだ。


『あなたも、本当は気付いて――――っ!?』


 しかし、とたんに変わる顔色。なぜかビクッと反応。頬も少し赤くなったような。

 なんだ、と思う間もなくクナイが首元へ突きつけられた。


『ちょっ…!? は、話し合いはどうした…!?』

『あ、あなたこそ、いきなりなんのまね――――ひゃんっ!?』


 馬乗りの腰が浮き、重みから一瞬だけ解放。クナイを持つ手首の狂う方向によっては確実に死んでいたことだろう。九死に一生。

 そんな奇跡を甘受かんじゅすることもなく、スヴェンは瞬時に状況を理解した。

 動揺して振り返るシズク。視線を落として確認した先には、枝のような手でをつついた体勢の、こちらへカメラを向けるタル

 タルボだ。


『タル?』

『な、なんですかこの変な――』


 おすだったか。話が合わなそうで残念。しかし、相互理解は諦めない。男同士のきずなを深める儀式のようなものだ。

 だが、それはまた別の機会に。



――ガシッ!



『――っ!』

『でかした、タルボッ!』


 逃せぬ好機。

 尾を引く動揺の隙を突き、刃物を持つほうの手首を思い切り掴む。くノ一といえど――意味はいまだにわかっていないが――力はそれほど強くない。グイッと引っ張り、相手の体を引っぺがす。抵抗するもう片方の手も無理やり掴み、枕へバフッと押しやった頭の上でひとまとめ。形勢逆転。

 グルリと体を入れ換えて、仰向けに組み伏せたシズクへ馬乗りになると、スヴェンは素早くクナイを取り上げた。片手で彼女の両手を押さえつけながら、自由なほうの手で扱い慣れぬ刃物をもてあそぶ。


『いい眺めだな、クノイチさんよ。気分はどうだい?』


 ニヤリと笑って見下ろすも、シズクに動揺の色はなかった。初心うぶな少女のようだった反応は消え失せ、ジッともくしてこちらを見上げる。


『……ハッ、大人しいじゃねぇか。もしかして、上に乗るほうがお好み——』


 グッ、とのみこむ下品な冗談。

 そして、横からジーッとなめるようにこちらの様子を撮影するカメラをチラリ。


『おいタルボ。お前それ、ってないよな?』

『タル?』


 こちらを捉えて放さない一つ目レンズに、思わず浮気現場をられているような気分になったが、さすがに考えすぎか。いずれにせよ、早目に決着をつけたほうが良さそうだ。

 スヴェンは真剣な表情に切り替え、組み伏せられたまま動かないシズクへと告げた。


『これからあんたを引き渡す。おりの中に逆戻りだけど、死ぬよりましだろ? だから大人しくしてろよ』


 棒状で掴みづらいクナイの柄を握りしめ、チラつかせながら大きく息を吸いこむ。叫べばそのうち、誰かが来て――


『誰が来るのですか?』


 静かな問いに、スッと口をふさがれる。吸いこんだ息が逃げ場を失い、肺をめぐってゆっくりと散り散りに。

 本来、スヴェンはその問いに付き合う必要はなかった。だが、何かが引っ掛かる。


『……誰がって、そりゃ、警備の人間とか…』


 即答もできなかった。


『警備の人間ですか。確かにいましたね』

『当たり前だろ。いくら空の上で安全だからって、この船は立派な軍艦なんだから』

『ですが、研究者ばかり。


 詰まった息を押しのけて『あ…』とこぼれる声。

 シズクは身じろぎもせずに言った。


『あなたも、本当は気付いているのでしょう? この部隊にはと』


 先ほどの続き。どうやら頭の中をのぞかれてはいなかったらしい。残念ながら的外れ。

 しかし、それを変だと思っていたのも確かだ。


『……だからどうした。追い詰められたからって妙なこと言い出してんじゃねぇよ』

『そちらこそ、どうして大声を上げないのですか? せっかく優位に立ったのですからさっさと誰か呼べばいい』

『それ、は……』


 ひとつ、可能性に思い当たる。だけどあり得ない。浮かんだその考えを振り払うように強く首を振る。

 すると、あっという間だった。



――ガシ、クルッ。



『へ――――っ!?』


 形勢再逆転。それを理解できたのは、ひねり上げられた腕に痛みを感じた後。

 うつ伏せに寝転がされ、背中で腕を固められる。関節はガッチリとまっていた。いつの間に、どうやって。


『対人戦で、魔導師ごときに遅れを取るわけにはいきませんからね』


 タルボは床に蹴落とされていた。今度はそちらにも気を配っているようで、二度目の援護は期待できそうにない。詰みだ。

 告げられる王手チェックメイト。しかし耳元でささやかれたそれは、どこか甘美に響いた。


戦闘員かれらは今、にいると思いますか…?』


 。頭の中で繰り返した瞬間、打ち消したはずの可能性がムクリとよみがえる。そして浮かぶ、フィーの笑顔。ジンの小憎たらしい笑みや、教官の鉄面皮。みんなの顔。

 少し寂れた、荒野の真ん中にある基地。

 枕にうずめていた顔が固まり、目を見開く。見えていないはずのそんな自分の表情を、まるで手に取るようにわかると言わんばかりに、頭の後ろからクスリと小さな笑い声が降ってきた。


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