6 真実と事実
回る
映し出される女の影はしなやかな曲線を描き、何かをコロコロと蹴りつけるように走っていた。長い髪を後ろへたなびかせた太い影が、その後ろをドタドタと追いかける。後者の影が太く見えたのは、二人分ゆえ。
羽根のように軽いリズを背負って走るスヴェンは息を切らせ、懸命に足を動かし続けた。その中で、どこか流されるままになってしまっていることを自覚。今さらだが、とんでもないことになった。
全力で走る彼の顔を赤くさせるどころか青くさせていたのは、自分のいた基地が危機に
「――――止まって」
「っ!」
理由は、ほかにあった。
「静かに」
手短にそう言い残し、立ち止まったシズクが音もなく、スルリと右手の角を曲がる。彼女の足元を転がっていたタルボも、コロコロとこちらへ戻ってきた。
闇に溶け、消えるくノ一。
すぐに聞こえてきたのは、不吉な物音と小さな悲鳴。
――ドサッ。
「ぐぁっ…!」
続くのは、ゾッとするほど簡潔な言葉。
「
ドサッと落ちる音が重なってから顔を出すと、シズクが両刃のナイフのようなもの——確かクナイか——を持って悠然とたたずんでいた。
その刃から落ちる水滴が――――ピチョン。
「早く」
「……わかってる」
けたましい警報と静かな声に急かされ、スヴェンは舌打ちをしながら、水滴が落ちた水たまりをまたいだ。その水源である二つの死体を横目に。
これで、犠牲になった帝国兵は計十人。自分の部屋に転がっているであろう死体も含めれば十一。すべて、たった一人の女スパイによる犯行。自分はリズを背負って走るのに精一杯だったので、直接は手を下していない。しかし、協力しているのは事実だ。
反逆罪に加えて殺人の共犯。捕まれば確実に死刑。スヴェンはやっと、自らが絞首台へ全力疾走しているのだということを実感していた。
もう後には引けない。今はその重たすぎる事実だけで、ただ無心に走る。
すると、前を行くシズクが振り返りもせずに尋ねた。
「あまり、慣れていませんでしたか?」
死体のことだろう。もしくは人殺しの現場か。どちらも慣れていると言えばウソになる。
だが、今はそんなことどうでもいい。
「うるせぇ。余計な心配する暇あんなら、周りに気を配ってろよ」
スヴェンは大人しく背負われるリズの体勢を、走るリズムに合わせて整えながら答えた。
先導しているのは床をゴロゴロ転がるタルボだが、すっかり息の合った調子で並走する彼女が敵の少ないほうを探り、そこから改めて
だからこそ、彼女のひと言ひと言につい、いら立ってしまう。
「心配というか、どれぐらい足手まといになるのか不安になっただけです」
「足手まといなのは確実みたいな言い方だな」
「いちいち突っかからないでもらえますか? 集中できません」
「あんたが話を振ったんだろうが」
「一番騒がしいのはあなたですけどね。とにかく、リズだけは落とさないように注意してください」
「……言われなくてもわかってるよ」
スヴェンは小さく舌打ちをこぼした。水と油。こいつとは一生仲良くなれる気がしない。
そう思いつつも最初、猫を被っていた彼女に鼻の下を伸ばしていた――あくまでフィーいわくだが――ことを思い出し、なんとも言えない気持ちになる。あのころに戻りたいなどとは決して思わないが、こう、妙な悔しさも入り混じって複雑な心境。
そしてふと、一言もしゃべらない背中のリズが気になった。
(こいつも猫被ってたり……は、さすがにないか)
口数の少なさは出会ってから一貫している。印象が変わったのはあくまで周りがあれこれ言うからで、少女自身は何も変わらない。
死体を見ても騒がずに、今だってこんな大人しく――
――スピー…。
――寝てんのかよ。スヴェンは呆然とした。
(……くそっ、どいつもこいつも! こっちは命懸けだってのに!)
頭をかきむしりたくなるも、リズを落とすわけにはいかないのでそれもできない。
せめて、確証が欲しい。迷いなく走るための理由が。できれば、自分の望む形で。
だから誰か、言ってくれ。ジンやフィーたちは無事だと。
スヴェンがそう願った時、すぐにその機会は訪れた。
「! 止まって」
「チッ、またか…! さっさとやってこいよ」
「いえ、これは……このままでは囲まれます」
「あ? そんなの、あんたなら切り抜けられるだろ?」
「背後を気にかける余裕がありません。いったん、どこかでやり過ごしたほうが……」
「やり過ごすったって、どこで――――っ!」
教えてくれる誰か。もしかしたら、助けてくれさえもする誰か。
いた。
「おい、こっちだ! 来いタルボ!」
「え? ちょっと、どこへ――」
「ここは来たことあるんだ、信用しろ! 部屋にいるかどうかは知らねぇけど…」
マルクス・レオン。
「……それに、聞きたいこともあるしな」
そしてスヴェンは、格納庫の帰りに何度か寄ったことのあるレオンの自室までの扉を、タルボに開けさせた。彼が自分に「君はバカなのか?」といつもの調子で言ってくれるのを信じて疑わず。
それはもちろん裏切られることとなる。己の望まぬ、最悪の形で。
※
――コンコンッ。
ノックの音に反応し、仕事机に備わっていた通話用のマイクを起動させる。これで
椅子の上で背筋を伸ばして座っていたレオンは、扉を開くことなく応対した。
「誰だ?」
『はっ、レオン博士ですか? こちら警備の者ですが、ただいま逃亡犯を追っておりまして』
「当たり前の職務をこなしているという報告を聞かせるために、わざわざ私の部屋をノックしたのかね?」
居丈高に問いただすと、相手はやや不機嫌になりながらも用件を告げた。
『この辺りで見失ってしまったのですが、見かけたりなどしておりませんか? 例のスパイと少女、それに反逆者の新人パイロットなのですが…』
「人物像までいちいち言わなくていい、すでに報告は受けている。私を誰だと思っているんだ」
『失礼しました。それで、いかがでしょう?』
「いかがも何もあるものか。情報があればすぐ言うに決まっているだろう。こんなところで油を売らず、さっさと職務に戻りたまえ。それが君たちの仕事だろ、まったく」
早口で言い切ると、呼吸がやや乱れて大きな息が出た。レオンは焦ったが、どうやらため息だと思われたらしい。バカにしたような形となった相手からの返事には、
『了解です。夜分遅くに失礼しました。仕事は我々に任せて、どうぞごゆっくりとお休みくださいませ』
それを最後に声が消え、レオンは慎重にマイクのスイッチを切った。そしてまたゆっくりと手を元の位置へ戻す。
両手は頭の上。伸ばした背筋には、何か尖った物が当てられている感触。
先ほどの兵士の皮肉が現実とならぬよう願いながら、上ずった声で尋ねる。
「こ、これでいいか?」
すると、背後から女の声。
「なかなかの役者っぷりでしたよ、レオン博士?」
扉のセキュリティを破った
「では、おやすみなさい」
(ヒィィィッ!?)
レオンは声にならぬ悲鳴を上げた。くそ、言うことを聞いたのに。ではどうすれば良かったというのだ。いやだ、死にたくない。
さまざまな思いが駆けめぐり、ついには走馬灯まで頭の中に流れながら泡を吹いた瞬間、もう一人の
「おい待て! 殺すな!」
「はい?」
ピタ、と止まるナイフ。わずかにぶれた冷たさと、少しだけこぼれた熱。
「いきなりなんですか?」
「その人は知り合いなんだよ」
「いるでしょうね、それぐらい。あなたは元々この部隊の人間なんですから。それで?」
「いや、それでって……」
もしもレオンに意識があったら、打ち合わせぐらいしておいてくれと叫んでいたことだろう。しかし残念ながら彼は今、魂が半分抜けていた。白目をむきながら見る走馬灯のくだりは、神童ともてはやされた幼少期に差しかかっている。
「とにかく、この人は見逃してくれ。協力してやってんだからこれぐらいのわがままいいだろ?」
「今のところ、なんの役にも立っていませんけどね」
「うぐっ…!」
「……ハァ、わかりました。その代わり、ちゃんと何かで縛っておいてください。私は外の様子を見てきますから。さぁリズ、行きましょうか」
「? おい待て、なんでそいつ連れて――」
「怖がるんですよ、この子。その白ローブを見るだけで」
背後から出口へと向かう気配。居残ったほうの気配は戸惑うも、すぐにガサゴソと辺りを物色。やがて気絶しているレオンの胸元のネクタイとその予備の分で、彼の手足を椅子に縛りつける。
そしてデスクの上の資料を雑に払いのけ、レオンと向かい合うように腰かけた気配は「……もらしたりしてないよな?」と失礼なことを口にしてから白目をむくその顔を叩いた。
――パシンッ。
「レオン先生、起きてください」
「アババババ…!」
「いやアババじゃなくて……大丈夫か、この人」
心配する素振りを見せるも、容赦のない二発目。
――パパンッ。
ついで、三発目。往復ビンタ。
「おーい、レオンせんせーい。うーん、起きねぇか…」
その言葉に反し、レオンはやや覚醒していた。走馬灯のくだりはいよいよ
そして重いまぶたを上げると、目の前には見知った顔が腕を振り上げる構図。
「……リー導師?」
「あ――」
――パァンッ!
きつい目覚ましの一発に「ブヘェッ!?」と上がる奇声。首から上が吹き飛ぶような事態にはならなかったが、その回転と角度はかなりのもの。
目にかかるほどの黒髪に、眠そうな目尻をした黒い瞳をもつ眼差し。ハールバルズ隊の黒ローブを着て、彼専用となった青い
「起きてたんすね。なんか、すんません」
スヴェン・リー導師。この部隊に着任した新人であり、F型
すべて思い出した。
そしてレオンは頬の痛みも含めて怒りに燃え、彼を問い詰めようと体を動かそうとしたが、肝心の手足が動かせない。なんと、椅子に縛りつけられているではないか。
「リー導師、いったいどういうつもりだ!? すぐにこれを解きたまえ!」
「先生、静かにしてくれ。さっきの怖いお姉さんが帰ってきますよ?」
一も二もなく背筋をピンッ。
よみがえる恐怖。触って確認できないが、首からかすり傷程度の血が流れている。薄皮一枚か。
「……こ、殺されたかと、思った…」
「泡吹いてましたもんね。初めて見ましたよ俺、ホントに泡吹くやつ」
「笑っている場合かね、君…! 今の状況、が……」
いや、そうだ。今の自分よりもまずい状況なのは、彼のほうだ。
「自分が何をしているかわかっているのか、リー導師…! こんなことをしでかして、死刑は免れんぞ…!」
「うっ……やっぱそうですよね。改まって言われるとマジで焦ってくんな…」
「そんな悠長なことを…! いったい誰にそそのかされた? あの女スパイに色仕掛けでもされたのかね?」
聞いたことがある。東方のスパイ、ニンジャ。その中でもニンジャの女、クノイチとやらは男に対する
しかし、スヴェンはやや青ざめながら苦笑した。
「いやいや、勘弁してくださいよ。あんなベッドの上で組み伏せてくるようなやつ」
「なんと……そ、そんなに激しいのかね…?」
「ゴクリじゃねぇよ。なんの話だ」
ハッとして
レオンは目だけをそらした。
「ならどうして……ん?」
すると彼の視界に、不思議な物体が飛びこんでくる。
カメラだ。
「タル?」
「
「あ、先生こいつです。俺が言ってたやつ」
スヴェンが片手で軽く掴み、目の前に差し出してくる。あまり重そうな様子は見受けられない。
「君が言っていた、例の……幻覚…?」
「だから、幻覚じゃないでしょ」
「タル」
研究者の
しゃべった。いや、音声機能があるのか。なんて中途半端な。これなら音楽でも鳴るように作ったほうがましだ。しかし、こちらの言語を理解しているような。
「……誰かが
「それにしてはこいつ、芸が細かいっていうか、バカっていうか…」
「タルタルタルッ!」
「あ? 今お前、俺のほうがバカだっつったか?」
自分もそのように聞こえた。いや、見えたのだ。そう、
感情表現。言語理解。中途半端な音声機能。
まさか。レオンは息をのんだ。
「自律思考型の
「え、なん――――ちょっ、先生!?」
「タ、タルゥッ!?」
「バカな、ストラノフ博士が…!? いや、まさかそんなわけ…!」
首だけ伸ばして一つ目レンズをまじまじ見つめるその形相に、スヴェンとタルボはドン引きしていた。そんなことなどおかまいなしに、レオンが鼻息を荒げる。
完全自律思考型
「誰が作ったんだこれは!? まさか自分などと言う気じゃないだろうな!?」
「お、落ち着いてくれよ先生。俺の部屋に転がってたんだって。この船に乗ってる誰かが作った
「タル!?」
それはすなわち、帝国最高の頭脳と言われるアナスタシア・ストラノフをもしのぐ英知の持ち主ということになってしまう。
(たとえば彼女の研究データを盗み出していたのだとしても無理だ! こんなものを作れて、この船に侵入させることが可能な、者、など……)
レオンは呆けた。「? 大丈夫すか?」と気味悪がる声も遠く、閃いた。
一人、いるではないか。
「そうか、それが……いや…」
点と点がつながり、すべて明らかに。
「彼が君を、そそのかしたのだな?」
つまびらかになった真実に思わずほくそ笑み、レオンは含み笑いでそう尋ねた。
そんなドヤ顔への反応は、思わず同情してしまいそうなほどに
「いえ、違いますけど」
「タル」
「なぬっ!?」
「なぬって……そもそもこいつ、タルしか言わないし」
「タル」
首を振って、首を傾げる。一挙手一投足まで似せた動きの、一人と
「バカな……で、では、君はいったいどうしてこんなバカなまねを…?」
彼が何か吹きこんだのならわかる。あのあわれむべき、裏切り者の彼が。きっとそのために、この
確信を強めるレオンの目の前で「いや、それがですね…」と言いづらそうに頭をかくスヴェン。
そして彼は、やや思い切った調子で口を開いた。
「実は、さっきの女が変なことを……この部隊が俺のいた基地を襲撃しようとしてるなんて、物騒なことを言い出しまして…」
レオンは絶句した。しかし、頭の片隅で納得もした。すべて
知ってしまったのか。
「そんなバカな話、あるわけないですよね? もちろん俺はもう捕まったら死刑だろうけど、あいつらは別に何もしちゃいないし」
黙りこむレオンの脳裏に、彼との別れを惜しむためにやって来ていた数人の顔が浮かんだ。
「? 先生?」
そして、一番そばにいた赤毛の若い女性を思い出す。
船が出る時、最後まで手を振っていた彼女を。
「……何、黙ってんすか」
レオンはすぐに首を振れば良かった。だが、彼にはできなかった。
そして最も悪手だったのは、繰り返したことだ。
「あんた、なんで……」
船の出発前。スヴェンに別れを惜しむ
――ガッ!
胸元を掴まれ、強引に目を合わせられる。
いつもの眠たげな表情はそこにはない。
「答えろよ、マルクス・レオン」
絶望に顔を凍らせ、今にも爆発しそうなほどに目を血走らせる、怒りそのものがそこにはあった。
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