7 同情
マルクス・レオンは薄情だとよく言われる。だがそれは、そう見られがちというだけ。情熱は人一倍だ。研究者とは得てしてそういうものだが、もちろん例外も。
その最たる例であるアナスタシア・ストラノフを前にして、レオンはやや緊張した面持ちで眼鏡の端を持ち上げた。
「————以上が、スヴェン・リー導師の状態報告となります」
「ふむ…」
四人掛けのソファーがある小さな客間に、多くの資料がきれいに並べられたデスク。そのどちらへも腰を下ろさず、白い壁の自室にカツカツと、ハイヒールの音を響かせて歩くアナスタシア。長い銀髪と白いローブの裾を揺らめかせ、ジッと視線を落とすのは手に持った一枚の紙――――F型
その紙の端が、ピシッと指ではじかれる。
「これだけかい?」
そう来るだろうと予想していたレオンは、用意していた文句を口にした。
「はい、それだけです。何も異常はありませんでした」
「生体反応も、
「幻覚症状も、どうやら自分の記憶のフラッシュバックだったようで。
「そして、戦闘結果も文句なし、か……」
アナスタシアはあごに手を当てて考えこみ、デスクの上へ腰かけた。
「マルクス、君はどう思う?」
レオンは腰掛けたままの彼女と正対し、身じろぎもせずに言った。
「正直、不可解ではあります。ですがそれを解明するために、彼をこの部隊へ招き入れたのでしょう? 何やらマーシャルの完成よりもご執心のようですし」
「おや、私に説教かい?」
紙へと顔を向けたまま流し目を送られ、胸の動悸が激しくなる。
しかし、どちらかといえば蛇ににらまれたカエル。そんな心境で冷や汗をかいていると、興ざめしたようにアナスタシアは視線を戻した。
「脅かしたつもりはないんだけどね」
「いえ、私はその…」
「別にいいよ。君の言っていることは正しいのだから」
アナスタシアが紙を投げ捨て、デスクの
優雅に組みかえられる足。一瞬だけ向けられた高いヒールの先から、黒いストッキングに覆われた長い足へと移る視線。短いタイトスカートと足の間に生まれる暗闇まで行き着く寸前、レオンは慌てて眼鏡を直すふりをした。
罪悪感からその無作法への注意もできず、上擦った声で言う。
「リ、リー導師をF型のテストパイロットにするのは、間違いなのでは?」
ごまかそうと焦ったのがいけなかったのか、上司に対してかなり大胆な発言だ。口が滑った。すぐにそう自覚するも、彼女はたいして興味のない様子でカタカタとキーボードを打ち続けるだけだった。やや肩すかしだがいつものこと。
レオンは少し落ち着いて主張を続けた。
「彼が非常に興味をそそられる素体だということは私にもわかります。私も同じ気持ちです。しかし、だからこそ私は彼をF型に乗せたくありません。もちろんマーシャルを完成させるために彼はうってつけの存在ではありますが、しかしもし、彼まで――」
「こんなふうになったらって?」
アナスタシアが薄いモニターの角度を変え、こちらへ向ける。レオンは思わずのどを鳴らしながら視線をそらした。
そこには、やや眠たげながらも
「経過七日目。ずいぶんともったほうだ」
十三人目のF型パイロット、あるいは被験者。
今までの十二人はすでにこの世にはいない。これまでは長くても一日目で精神が崩壊し、二日か三日で肉体が崩壊していたからだ。
だが、画像の彼は一週間も耐えている。F型
たとえどれほど、その姿を醜く変えようとも。
「……彼は、どうするのです?」
レオンが
「? どういう意味だい?」
それでも、不思議そうに尋ねる彼女と似ていたはずのその端正な顔立ちは、今はもう見る影もない。長かった銀髪はほぼ抜け落ち、元の面影を残す右半分の顔も目元がくぼんで、見るからに病人だ。
「もう限界なのでは?」
「あぁ、そうだね。けどまぁ、あと一回ぐらいはもつだろう。せっかくだからマーシャルとカーディナルの戦闘データを比較したい。決行日を伸ばしたのはそのためでもあるしね」
「もつ……ですか」
「正確にはもたないけど……だって、もったいないじゃないか」
まるで、食べ残しでもあるように。純粋にそう言うアナスタシアの表情に狂気を見出し、レオンは言葉をのみこんだ。
アルフレッド・ストラノフ――――彼は、あなたの弟ですよ。そんな言葉を。
「……それよりも、どう対応しますか?」
話題を変えるつもりだったのだが、言葉が足りなかったらしい。
彼女が首を傾げる。
「なんのことだい?」
「リー導師と彼のことです。彼が自我を保っているのは、リー導師への執着によるものなのでしょう? 出歩ける状態ではないでしょうが、もし何かの拍子でリー導師と出会ったら……」
思わせぶりに言葉を切るも、反応はいまいち。傾げた首が反対へ動いただけ。もしや、言葉を選んだ彼という呼称にピンときていないのか。
そんな疑念を吹き飛ばすように、アナスタシアは「あぁ」と手を叩いた。
「忘れていたよ。そういえば、そうだった」
「……は?」
「どうしよう。まぁ、アルフはベッドにでも縛りつけておくとして……スヴェンには、船内の行動を制限させてもらうしかないかな」
ハイヒールをブラブラさせ、悩ましげに天井を見上げるアナスタシア。だが、そこまで真剣ではない様子。しかも忘れていたとは。
「正気ですか、あなた」
「そう目くじらを立てないでくれ。仕方ないだろう? 最近の私はスヴェンのことばかり考えていたのだから」
「だからって、そんな大事なこと…」
「君は、お母さんを困らせたことはないかな?」
突拍子もない質問に警戒を強める。こういうときの彼女は決まってこちらを
「意味がわかりません。ですが……母親には、あまり苦労をかけさせていないつもりです」
「けれど、子どものころはそうはいかない。記憶になくても、君は何度も困らせたはずさ」
「いずれにせよ、記憶にないならば肯定できません」
「そんなこと言わずに思い出してごらん? たとえば、そう……君はその日、ハンバーグが食べたくなった」
「……ハ、ハンバーグ?」
「しかし、その日はカレーとすでに決まっていた。君からのリクエストでね」
夕飯の思い出、という想定か。警戒していたはずのレオンが無意識に記憶を探ろうとした時、ストッキングに覆われた長い足が再びゆっくりと組みかえられた。
「その日まで君は、ずっとカレーが食べたかった」
重なる太ももとスカートのすき間。目を引きつけてやまない、先ほどよりも隙だらけな暗闇。すねへ伸ばした白い手がストッキングを伝線させぬようにゆっくりと上へ滑り、彼女はそのまま組んだ足へ肘を置いて頬杖をついた。やや前屈み。
自然と目移りしたのは、開かれた胸元。
「君はカレーに目がなかった。しかしその日、君はおいしそうなハンバーグを見て、目移りしてしまったんだ」
ボタンシャツを内側から押し上げるふくらみが二つ、身を寄せ合うように真ん中へ。白い曲線美の肌に挟まれた深い谷間の暗闇。
視線が動かせない。まるで、捕まってしまったように。
「頭の中はもうハンバーグだけ。カレーのことなど忘れ、君はおねだりするんだ————ハンバーグが食べたい、とね…」
色気のないセリフ。そのささやきになぜか、ゴクリとつばを飲む。あらわになった彼女の
ピクリ、と指を動かしたとたん。
「そしてお母さんは仕方なく、ハンバーグを作ってあげた」
目の前から消える、
いつもどおりのその後ろ姿を、まだ熱の冷めぬ頭でボーッと追う。
「明日こそはカレーにしようかと言っても、ハンバーグに夢中な君はこう返す。なんでもいい、とね。つまりは私も、そんな子どもと大差ないということさ」
デスクを回りこむ途中、ついた手を支えにバランスよく片足立ちするアナスタシア。ハイヒールがずれたらしい。上げた
そして、キュッと布地をかすかに動かす、タイトスカートの内側の引き締まった筋肉。
「ちなみに、君はどっちが好きだい?」
彼女の体の上下へ目移りしながら口を開きかけるも、その直前で我に返る。
「わ、私は、今は研究がすべてですので……そのようないかがわしい質問には答えられません」
「ハンバーグかカレーか、という話がいかがわしい? おかしなことを言うね、どうも」
「あ、え…?」
おかしさを理解するも、思考は停止。
カツンとヒールの音を鳴らしたアナスタシアが、その長い銀髪を耳にかけた。
「マルクス。君はなんの話だと思ったんだい?」
クスリと妖しげな笑みを浮かべる横顔。そのまま何事もなかったようにデスクの裏側へ周り、椅子へと腰かけるアナスタシア。してやられた。
この魔女、女狐――――いや、この女はきっと
「ほ、報告も終わったので、私は失礼させていただきます…!」
プシュッと音を立てて開いたドアを足早にくぐると、彼女の声が追いかけてきた。
「それじゃ、アルフとスヴェンの件は任せたよ」
「え?」
振り返るとそこには、ストラノフの聖女としての営業スマイル。
「二人を会わせないようにね」
――ガー、ガチャン。
無情な
そしてレオンは大きく肩を落とし、
(どうしていつもこうなるんだ…)
しかしレオンは、彼女が手玉に取る男性を指では数えきれないほど知っていた。もちろん女性も。だから自分が特にだらしないというわけではないのだ。
そんな言い訳めいた慰めを心の中で唱えていると、無機質な船内アナウンスが廊下に響いた。
――浮上開始。全乗組員は作業中断、衝撃に備えよ。繰り返す――――。
レオンは慌てず、そばの手すりに掴まった。揺れはそこまでではなかったので、このまま歩いてもいい。しかしアナスタシアとの会話に疲労を感じていた彼は壁に寄りかかり、船の高度が安定したことをアナウンスされるまでその場にとどまることを決めた。なんとはなしに、そばの小さな丸い窓から外を眺める。
空は青く、地上は砂だらけ。何も目を引かれない荒野。そしてぼんやりとした視界の中、遠くで何かを発見。小高い丘の上に誰かいるようだ。
ジープの後部座席から立ち上がった、遠くからでもわかる赤毛の人物。こちらへ向けて手を振っている。
(あれは、確か…)
スヴェン・リーの背後にいた女性。同僚か、もしくは恋人。まるで抱き合っているような距離感だったから、おそらく後者なのだろう。
(もしかして、彼が甲板へ出ているのか?)
彼女の手を振る先を予測し、レオンは天井の向こう側を見通すようににらんだ。自室で待機を命じたはずなのに、まったく。
などと悠長にかまえている場合ではない。
(まずいな、変にうろつかれたら…)
アルフレッド・ストラノフは身動きできないが、スヴェン・リーが彼の眠る医務室へ顔を出す可能性も。レオンは休憩を中断し、スヴェンを迎えに行くことにした。
そして手すりから手を離したとたん、床から少し大きな振動。
「っとと…」
転げるほどではないものの、レオンは手すりに掴まり直した。ようやく出発か。
予定外の時間を過ごした地へ再び顔を向けると、先ほどの赤毛の女性がまた目に入った。力いっぱい両手を振り、ジープから降りて飛び跳ねている。
(……まだ、若いな)
マルクス・レオンは薄情ではない。ただ研究者として、ある程度の情は捨てなければならないと覚悟しているだけだ。
己の弟を実験台にし、それを子どもの夕飯事情にたとえ、あまつさえ死に
だから彼は同情する。アルフレッド・ストラノフに。
だから彼は、フィー・ヴァレンタインを見て、こうつぶやいた。
「————かわいそうに……」
決して薄情ではない男はただ彼女から目をそらし、その場から逃げるように立ち去った。
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