6 別れの時②

 そしてスヴェンは、フィーを抱き締めたことをすぐに後悔した。腕の中で彼女がガッチガチに固まってしまったからだ。どれほどガッチガチかというと、石像でも抱いているような気になるほど。やりすぎたかも。


(昨日から暴走しがちだな、俺……)


 前触れもなく抱きしめたのは二度目だということを思い出し、苦笑しながら腕を軽く放す。

 しかし、フィーは顔を上げなかった。こちらの胸にずっと顔をうずめたまま。風にさらわれる彼女の肩まで伸ばした赤毛が、鼻先をくすぐった。

 心配と名残なごり惜しさ。内心でせめぎ合う両者。ややあって前者に軍配が上がり、スヴェンが彼女の両肩を掴んでそっと引きはがすと――



――ビクゥッ!



 肩を盛大に揺らし、クワッと目をかっぴらく赤毛の恋人。あまりの反応にこちらも硬直。まずい、怒られるかも。

 すぐさま両手を上げて降参の意を示すも、焦点のぶれるクリッとした瞳をまぶたが隠し、そのままギューッと強く彼女の視界をふさいだ。白旗を上げるこちらの様子は見えなかったらしい。

 そして、手を添えずとも上向く細いあご。昨夜の再現。かすかに震えたそのくちびるを奪う、絶好の機会チャンス再来。

 ただ、そんな気のなかったスヴェンはキョトンとし、ついと目をそらした。


(もしかして、人前だって忘れてんのか…?)


 自分もつい忘れていたが、視線を向けた先には後部座席で立ち上がりながら目を輝かせるサラの姿。、とあごで合図。チャックは今にも口笛を吹きそうな表情でニヤニヤし、ミゲルはまだ顔を青くしながらも親指を立てていた。もしかしてあいつら、野次馬をするためだけに来たのか。


(……まぁ、いいか)


 スヴェンは彼らを見なかったことにして、そしてフィーが彼らの存在を思い出す前に実行へ移すことにした。「やっぱりダメッ!」とか言いそうだし。

 肩にそっと手を添え、頬にかかった赤毛を右手でなぞるようにして耳にかける。その都度つどビクッと体が揺れたが、いきなりよりはいいだろう。

 決して焦らずゆっくりと、しかし動きも止めずに顔を傾け、必死に目をつむる彼女の顔へ。今度こそ、余計な邪魔が入る前に――


「スヴェン・リー導師! どこにいるっ!」


 カッ、と見開く大きな目。間近でバチッと視線が合い、その瞳がすぐさまこちらの肩越しに何かを見つける。そして声にならぬ悲鳴を上げ、ボフッとフードに雲隠れ。

 フラグを立ててしまったらしい己を呪いながら、スヴェンは後ろを振り返って八つ当たり気味ににらんだ。


「返事をしろ! 出発の時間だぞ!」


 小高い丘でひざまずくマーシャルの影から出てきたのは、黒い髪をすべて後ろへなでつけ、眼鏡をかけるお堅い印象の男。白いローブは軍所属の魔導技師マギナーの証。自分に休憩の指示を告げた、アナスタシアの部下だ。


「おいっ! まったく――――!」


 何やら文句を言っているようだが遠くて聞き取れない。聞き取れたとしても、文句を言いたいのはこちらだ。

 恨みがましくにらんでいると男がこちらに気付き、やや駆け足で近寄りながら叫んだ。


「どういうつもりだ、リー導師! いつでも動けるように機体のそばで待機していろと言った、はず……」


 印象に、神経質さが加わる。そんなヒステリックな叫びを上げながら近付くも、だんだん下り調子トーンダウン。どうやら自分の後ろでたたずむフィーの存在に気付いたらしい。

 命令を無視して女と会っているとは何事か。そう怒られる予感がしたのだが、思いのほか彼は気まずそうにしていた。

 せき払いをする男へ、いら立ちを抑えて敬礼。


「申し訳ありません……えーっと…」

「マルクス・レオン、君の担当だ。先ほど説明したはずだが?」

「すみません、頭がボーっとしてて……というか、担当?」


 聞き慣れない単語に眉をひそめると、彼は指で眼鏡を押し上げた。


「私は医師免許も持っている。かかりつけの医者とでも思えばいい。二度目だが、よろしく頼む。三度目はないぞ」

「はっ!」

「敬礼はいい。軍で研究しているだけで、別に軍人というつもりはない。気軽にレオンとでも呼びたまえ」

「はぁ…」


 そのわりには上官よりも居丈高いたけだかだなと思いつつ、気の抜けた返事をしたスヴェンは右手をダランと下ろした。いざ『レオン』と呼び捨てしたら嫌な顔をしそうなタイプだ。


「それで、レオン……先生。出発ってことは機体を船へ?」


 迷った挙句あげくの呼称に、レオンが鼻息をひとつ荒げる。気に入らなかったかと危惧きぐしたがどうやら受け入れてもらえたらしく、彼はそのことについて言及せぬまま固い口調で告げた。


「運んでもらう物はもうない。ストラノフ博士もほかの研究員も、すでに船へ乗りこんでいる。君もすみやかにマーシャルを魔杖機船ロッドシップへ……」


 途切れる事務的な声。そしてふと、彼は視線をスヴェンの後ろへ投げかけた。そちらには居づらそうにするフィーの気配が。

 口を挟む間もなくレオンの視線が再び転じ、今度はサラたちのほうへ向けられると、眼鏡のレンズが陽光の反射でキラリと光った。


「……別れは、済ませたのか?」


 まぶしくて目をそらし、そう言った瞬間の彼の表情をスヴェンが見ることはなかった。


「いえ、まだその…」

「なるべく早く済ませたまえ」

「は?」

「私は先に行っている」


 逃げ出すように向けられる背中。そしてレオンは、マーシャルのそばに停めてあった車へ歩いていった。あれで来たのか。

 何も言えずに見送るスヴェンの背中を、クイッ、と引っ張ったのはフィーだ。


「追わなくていいの?」

「……急いだほうがいいとは、思うんだけどな」


 一秒でも遅れたら怒鳴りつけるような、時間に厳しい印象。しかしどうやらそうでもなく、別れを惜しむいとまをくれたらしい。人を見た目で判断するのは良くないなと自省しつつ、スヴェンは心の中だけでレオンに礼を言って振り返った。


「それじゃ、そろそろ行く」

「……うん」


 さみしげにうなずき、フィーがフードを目深に被る。

 ダメかなと思ったが、ダメで元々。


「さっきの、仕切り直さないか?」

「へっ!? べ、別にいいけど、その、心の準備が…」


 意外といけたと拍子抜け。しかし、スヴェンは焦った。


「急いで準備してくれ。サラたちがこっちに来やがる」

「そうだね、サラたちに見られたら恥ずかし……ギャ――――ッ!」


 しまった、余計なことを。スヴェンは舌打ちと同時に耳をふさいだ。

 そして「いつからそこに!?」と慌てふためくフィーへ、こちらへやって来た三人が歩み寄り、それぞれ返答する。


「いや、俺が運転してきてやったんだろうが!」

「フィーってば、私たちのこと完全に忘れてたよねー」

「……ウプッ…」

「一人だけおかしいやつがいるな」


 スヴェンは呆れながらミゲルへ白い目を向けた。相変わらず顔色が真っ青。


「そこの二人はわかるけど、お前はいったい何しに来たんだ?」


 野次馬と、運転手兼やっぱり野次馬。しかしこの真面目そうな青年はそんな性格ではないはず。

 サラにからかわれて涙目になっているフィーを横目に見ていると、ミゲルが答えた。


「何って、見送りに決まってるだろ」

「そんな青い顔で言われてもな」

「……昨日、飲みすぎたみたいでさ。記憶もないんだ…」


 気分の悪さを取り繕おうとする苦笑いに、おや、とスヴェンは思った。

 ということは、だ。


「お前もしかして、昨日の裸踊り――」

「あーっとスヴェンちょっとこっち来いっ!」

「な、なんだよ?」


 抱きかかえるように肩を掴んできたのは、背の低い坊主頭のチャック。

 後ろで「裸踊り?」と首を傾げるミゲルに聞こえぬよう、ヒソヒソと会話する。


「あいつ、全然覚えてないみたいでさ。後でばらすんだから内緒にしてくれ」

「ばらすって、あいつ記憶がないんだろ?」

「ジンがばっちり証拠写真を残した」


 グッ、と親指を立てるチャック。それを突きつけてやる、と。


「悪趣味だな」

「お前もその場にいたらひと口かんでただろ?」

「否定はしない」


 鼻で笑って肩をすくめる。するとチャックはニッと笑い、こちらの肩から手を外して離れた。


「それよりも、俺がなぜここに来たか知りたくないか?」

「だから運転手だろ? ごくろーさん、帰り道も気をつけろよ」

「人をパシリ扱いすんじゃねぇっ!」


 別にそんなつもりはなかったのだが、チャックは怒ったように指を突きつけてきた。


「聞いたぞ! スヴェンお前、アナスタシア様の部下になるんだってな!」

「あー……」


 思い出したのは、今朝にジンから得た情報。彼は女性誌をわざわざ買うほど、アナスタシアの熱狂的ファンだ。


「なんだ、恨み言か?」

「サインもらっといてくれ! を忘れんなよ!」

「……覚えてたらな」

「シャァァァッ!」


 早く帰らないかなこいつ、とスヴェンは思った。

 小躍りする小坊主を尻目にミゲルが言う。


「本当に良かったよな、アナスタシア様の部下になれて」

「お前もサインが欲しいとか言うなよ」

「え……あ、いや、それは置いといてさ!」


 表情に出かけた本音を隠し、ミゲルは大きく息を吐いた。


「俺だけじゃなくて、みんな心配してたんだよ。お前はほら、その……きっと最前線送りだろ? やっぱりなんだかんだ、一番死ぬ可能性が高いからさ」


 にごした部分――東方系人種イースタニアンだから――を読み取って、そのれ物扱いに心がうずきながらも、スヴェンは肩をすくめてみせた。自分は、もう大丈夫。

 同時に、大丈夫ではなさそうなことを思い出した。


「あの聖女様の部隊なら安全だって?」

「何かの実験をするだけの部隊なんだろ? 俺やチャックみたいに、魔賊を相手にする治安部隊よりもよっぽど安全じゃないか!」

「どうだかな。鳥肌が立つぐらい、身の危険は感じたけど…」


 冷めた顔で遠くを見つめると、ミゲルは首を傾げた。彼にはわかり得ない事柄だ。この場で唯一その言葉を理解できるのは、ともにアナスタシアと対面したフィーだけ。

 そして運悪く、サラとのじゃれ合いを終えた彼女に話を聞かれていた。


「スヴェン…」

「……そんなに心配するなって。さすがに、その……本気じゃないだろ」


 まるで魚の開きのように、胸から腹をかっさばかれた感覚。そんな人体実験紛いのことを部下にはしない――――と、信じたい。

 うまく笑い飛ばせなかったスヴェンに、理解の及んでいなかった三人が同時に首を傾げるも、サラが何かを閃いて目を輝かせた。


「あ、もしかしてー……浮気の心配?」


 こいつ、やっぱり苦手だ。

 逃げの一手とばかりに「それじゃな」と手を掲げたスヴェンに追いすがる、自他共に認めるファン一号とおそらく二号。


「おい逃げんなスヴェン! てめぇ、アナスタシア様とそういう関係だったのか!?」

「帝国中の男を敵に回すことになるぞ…」


 チャックはともかく、ミゲルのほうは青い顔と相まって迫真のセリフだが、相手にしていられない。スヴェンは捕らえられた腕と肩を無理やり振りほどこうとした。

 しかしそこで、信じられないものを見て力が抜ける。


「おい、フィー……なんでお前まで」

「へっ!? い、いや、私は信じてるよ! 信じてる、けど……」


 チラリとこちらをうかがう目つき。そして、視線を外してキョロキョロと。明らかに信じていない。

 スヴェンは絡みつく二人を引きはがし、フィーに歩み寄った。


「するわけねぇだろ。サラの野次馬根性丸出しな発言なんていちいち気にすんな」


 そう言うと、隣でふんわりとたたえられていた笑みの圧力が増した気がしたが、なるべく見ないようにした。

 フィーがそれに気付かず、顔をうつむかせる。


「でも、アナスタシア様、美人だし…」

「お前なぁ……それだけで――」

「スヴェン、スカートの中、のぞいてたし…」


 とたん、背後で燃えあがる嫉妬しっとの炎。横からは突き刺さるような視線。いわゆるゴミを見るような目。

 スヴェンは四方へ激しく首を振った。見えなかったから無実――――などとはもいかず、川の向こうで手を振る父と母の姿が一瞬だけ見えたものだ。

 と、そこで思いつく。


「もし浮気したら、今度こそ殺せよ。得意のチョークスリーパーで」


 トントン、と自分の首を叩く。罪に対して罰が重すぎる気がしないでもないが、まぁしなければいい話だ。スヴェンは小さくため息をついた。

 すると、フィーの表情が一変し、曇り空から晴天へ。


「わかった! 練習しとくね!」

「しなくていい」

「今度こそ息の根止めるから!」

「決定事項みたいに言うな。ったく……ほら」

「? 何?」


 首を傾げるフィーの前に右手を差し出したまま、スヴェンは言った。


「住所と連絡先。知らなきゃ会いに行けないだろ」

「あ、う、うん」


 まごつきながらもフィーが紙を差し出す。どうやら用意してくれていたらしい。スヴェンはそれを握って、フィーといっしょに映る写真の入ったポケットへ突っこんだ。そして「じゃあな」と背中を向けて歩き出す。

 湿っぽい別れになる、その前に。


「あ。おい、スヴェン」

「俺たちは!?」


 ミゲルとチャックの声へ、背中越しに手を振る。


「そのうちどっかで会えるだろ。お前たちが死んでなきゃな」

縁起えんぎでもねぇこと言うなっ!」

「お前も死ぬなよ! 元気でな!」


 追いかけてくる声から逃げるようにスタスタと歩く。見送るのはいいが、どうも見送られるのは苦手だ。

 そんな気持ちなどおかまいなしに、次はサラの声。


「スヴェーン、結婚式には呼んでねー」

「俺に言うなよ友人代表」


 ヒラヒラとやはり手だけ振り、スタスタとさらに歩を速める。離れがたい気持ちを抑えながら。

 すると、後ろから今度は声ではなく、タタタッと駆け寄る足音が聞こえた。


「スヴェン!」


 後ろ髪を引かれて立ち止まる。チラリと肩越しに振り返れば、フィーはそれ以上は近付いてこなかった。

 そして彼女はその場にとどまり、大げさに手を振った。


「行ってらっしゃい!」


 スヴェンは息をのんだ。

 呼吸が止まり、まるで時まで止まってしまったかのようにフィーを見つめた。


「気をつけてね! 風邪とか引いちゃダメだよ!」


 周りの景色が吹き飛び、手を振る彼女だけが目に焼きつく。そしてこみ上げる熱に、慌てて前を向く。

 望みどおり。なんてことない別れなはずなのに泣きそうになってしまったのは、別れがつらいからではない。


「待ってるから、早く帰ってきてね!」


 ただいま。そう言える相手が――――おかえりと、迎えてくれる場所がある。ただそれだけのことで涙を流しそうな自分が恥ずかしくなり、スヴェンはフィーにばれる前にその場から離れようとした。

 その直前に、ポツリ。


「……行ってきます」


 慣れない言葉。口の中で転がる違和感。「行ってらっしゃーい!」と手を振り続ける彼女の気配とともにそれを感じ、スヴェンはかみ砕くように口を固く閉じた。そして不意に、左手にはめた腕時計へ視線を落とす。

 ひとつだけの長針が指し示すその先は、初めて手に入れた自分の帰るべき方角なのだと知って、スヴェンは口元がにやけるのを必死にこらえていた。

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