5 別れの時①
スヴェンは走った。まるで何かに急き立てられるように、フィーの元へ駆けた。しかしその足が歩みへと変わり、次第に重い足取りへ。
どんな顔をして会えばいいのか。そんなことで頭がいっぱいになって立ち止まるも、でこぼこの荒れ地を削る車の走行音は鳴りやまない。
少し離れたところでブレーキ音が聞こえるとすぐ、自分の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
「スヴェン!」
四人乗りの、ドアも屋根もない開放的なジープ。その後部座席から飛び降りたフィーが猛然とこちらへ向かってくる。運転席に座る坊主頭のチャックが、助手席で今にも吐きそうなほど青ざめた黒髪の青年ミゲルの背中をさする光景も目に入った。ついでに、後部座席で立ちながらワクワクと輝かせた目を向けるサラの姿も。
ジンはいない。そのことにどこかホッとしていると、息を切らせてやって来たフィーが膝に手をついて呼吸を整えた。
「ハァ、良かったー……もう、行っちゃったのかと、思った…」
「……悪い。本当は今朝、会いに行こうと思ってたんだけど…」
ジンとのことがあって忘れていた。しかも、今の今まで。スヴェンは申し訳なく思ったが、フィーは息を落ち着かせて首を振った。
「いいよ、気にしなくて。別に約束してたわけじゃないもんね。それに私も、予想以上に時間かかっちゃったから」
「? 時間って?」
「へっ!? あ、いや、その…!」
キョロキョロとするフィー。挙動不審。怪しい。それによく見れば、目の下に
「寝不足か?」
「っ! 見ないで!」
ボフッと着ていた黒ローブのフードを被り、フィーは顔を隠した。言われたとおりに目をそらすも、ゴニョゴニョとしたつぶやき――サラの言うとおりだの、化粧がどうのこうの――が聞こえる。ふとサラのほうを見れば彼女は肩をすくめ、言わんこっちゃない、と言いたげな様子。
そして「少しぐらい寝とけば…」とはっきり耳が拾い、スヴェンは驚いた。
「もしかして、まったく寝てないのか?」
「……なんでわかるの!?」
口にしたからな、とは言わなかった。「私そんなに
愛しさがあふれ、
それを途中で止めたのは、何も掴んでいないはずの手に感触がよみがえったからだ。
あの、生首の感触を。
「? スヴェン?」
忘れていた、昔の出来事。消せない過去の行い。
それらを思い出させた
その果てにあった、悲しい男の物語。
「何かあったの? どうして、そんな……」
スヴェンはゆっくりと手を下ろした。
「どうして、泣きそうな顔してるの…?」
自分の手のひらへ目を落としながら、こちらへ手を伸ばそうとする彼女を声で制する。
「フィー、聞いてくれるか?」
「えっ!? う、うん…」
サッ、と手を隠す気配。それを目で追うことなく、スヴェンはジッと己の手のひらを見つめ続けた。赤い汚れは昼食のトマトソースだが、それを見てバウマンの執務室で見た写真が頭に浮かぶ。
奪われた
「俺は、人を殺したことがないんだ」
「……そう、なんだ。えっと、歩兵部隊にいたんだよね? そこでも?」
「従軍したのはたった一年だし、訓練のほうが多かった。それにあったとしても
「そっか、うん…」
気まずそうにうなずくフィー。戸惑いもあるのだろう。彼女は民間の
それでも、かまわずに続ける。
「人が死ぬところは見たことがある。でも、意外と平気だった。自分が生き残るのに必死だったし、戦争だから仕方ないって割り切ってるんだとばかり思ってた」
「……そうじゃ、なかったの?」
「そう、違った。俺は結局、何もかも憎んでたんだ」
目をそらしたくてもそらせず。
視線を落とした先にある自分の汚れた手を、スヴェンはギュッと握った。
「お前にも言われたけど、ジン以外の人間はどうでも良かった。むしろ死んでしまえって思ってたんだ、きっと。帝国人も、
「……うん」
痛みをこらえるような返事。けれど、
「俺は、人を殺してないだけで、いつだって誰かを殺したがってた。誰もが憎くて、実際、昔は殺しかけたこともある。この手で帝国人の首を絞めて」
「……で、でも、殺さなかったんでしょ?」
「たまたまなんだ。たまたま止められて、その止めに入ったやつも殴り倒して、そのまま殴り続けた……この手に血がこびりつくまで、何度もずっと」
強く握る両の手。ゴクリと息をのむ音が聞こえて、スヴェンは隠すようにその両手をポケットへ突っこんだ。
「ジンがいなけりゃ……化けの皮をはがしちまえば、俺はただの人殺しと変わりない。戦場でもなく、恨みつらみの
「そんな……そんなこと、スヴェンはしないよ」
「運が良かっただけさ」
「そんなことない。絶対に、スヴェンはそんなことしない」
あまりにも食い下がる声へ目を向けると、フィーは恥ずかしさも忘れてフードの下の顔をさらしていた。昨夜と同じ、自分をまっすぐ射抜くような眼差しで。
私の好きな人を、バカにしないで。そう言ってくれた時と同じ目で。
うれしかった。自分がいくら否定しても、自分を肯定してくれる人がいることに、泣きたくなった。それが彼女であることが、とても幸せだと思えた。自分も、彼女が好きなのだと気付けた。
けど――――だからこそ、だ。
「俺は、お前が好きだ。笑った顔が大好きだ」
「……へっ!?」
跳び上がる瞬間湯沸かし器を前にして、スヴェンは
「だけど、俺はきっと……お前に、ふさわしくない」
口をついて出たセリフ。だが、思いのほかしっくり。
だから、これでいい。スヴェンは合わせる顔がなく、そのまま振り返って来た道を戻ろうとした。
最後に、本心だったと伝えて謝ろう。彼女の好きな自分でいたいと言ったのは、本当の気持ちだったのだと――
――プッ…。
――伝えて、謝るつもりだったのに、スヴェンは気が抜けた。
「おい、フィー…?」
「ご、ごめっ…! 笑ってるわけじゃ……」
口元を手で、顔を赤毛で隠すフィー。小刻みに揺れる肩。髪の間からのぞく耳が髪色と同じぐらい真っ赤なのは、息を止めているからだろう。
どう見ても、笑いをこらえていた。
「お前、人が真剣にだな…!」
どさくさに紛れて恥ずかしいことを言った手前もあり、スヴェンは
「何がそんなにおかしいってんだ…!?」
「ち、違うの、おかしいわけじゃなくて……ただ、いっしょなんだって思うと、面白くなっちゃって…」
「意味変わんねぇじゃねぇか…!」
引き返すタイミングを失い、しばらくそのままにらみ続けていると、やっとのことで笑いを収めたフィーが軽くせき払いをした。「エホンッ!」と、あまりにもわざとらしく。
「もしかして、バカにしてんのか?」
「まぁまぁ、気にしない気にしない。いいでしょ別に」
「いいわけあるか――――って、おい、何を…?」
「いいからいいから」
鼻歌まじりで気分上々なフィーが近寄り、赤く汚れた自分の手を掴む。そのままテキパキと、手首に何かをはめられた。
「――腕時計…?」
革のバンドに、数字のみが描かれたシンプルな文字盤。長い針が一本、十二時の方向を指しているだけ。はめる習慣のない腕時計といえどもおかしいことぐらいわかる。短針がない。
「なんだこれ……日時計か?」
「うーん、ハズレッ!」
軽快に弾む声。スキップをするようにそばから離れる、楽しげな様子のフィー。
そのまま彼女は手を後ろで組み、笑顔をこぼしながら言った。
「そのまま見ててね?」
タタタッと自分の周囲を回り始めた彼女へ言われたとおりに目を向けていると、なぜか注意が飛ぶ。
「こっちじゃなくて針!」
「針って、
時刻を確認するように視線を落とす。はめる機会などないのでどうにも慣れない。
違和感をぬぐえぬまま見つめていると、長針は――――クルリと一周しようとしていた。
「な、なんだこれ?」
「どう? すごいでしょ」
スヴェンを中心に円を描いたフィーが正面へ戻り、自慢げに鼻を高くする。同時に長針もピタリと元の位置へ。
そしてフィーは次に、先ほどとは逆方向へ回り始めた。長針がその後を追う。まるで、彼女の居場所を示すように。
「サラに教わったんだ」
飛び跳ねるように周囲をクルクル回り続けるフィーに戸惑い、スヴェンはその場から動けぬまま、回り続ける針と彼女を交互に見続けた。
「教わったって……これ、自分で作ったのか?」
「一からじゃないけどね。腕時計を改造して……方位磁石というより、
「
「それそれ。サラの家はそっち関係が専門なんだって」
フィーと同じく、サラも民間
「それ、個別の
ピョンピョン楽しそうに回りながらフィーが言う。なるほど、さっぱりだ。
「何かの呪文か?」
「もー。つまり、こういうこと」
クルクル回っていた針がピタッと止まり、フィーがおもむろに近付いて左手を差し出す。手首には同じデザインの腕時計。互いに時刻を確認するような格好となり、腕時計が隣り合うように並ぶ。
彼女の時計の針もひとつだけ。しかし自分のものより短く、そして、こちらを指していた。
「これ、二人で見たら正確な時間がわかるタイプのペアウォッチなんだけど、私が改造したの。昨日」
「もしかして、それで徹夜か?」
「……お、思ったより、時間かかっちゃって…」
フィーが気まずげに頬をかくと、その左手を追って長針がほんの少しずれる。どうやら腕時計同士で反応しているらしい。
「本当はサラとおそろいだったんだけどね。どうせならスヴェンとおそろいにしたら? って言ってくれて」
照れくさそうなその言葉に、スヴェンは驚いてサラのほうへ目を向けた。気付いたサラが「おかまいなくー」と言いたげにヒラヒラ手を振る。聞こえていないはずなのに察しが良い。
しかし、そうだとしたら話は変わる――――いや、元に戻る。
「それでー、でもそのまま渡すのもお下がりみたいでヤダなーって思って……せっかくだから、私の
「……受け取れない、こんなの」
「ふさわしくないから?」
間髪入れず問い返された言葉に、顔が曇るのを自覚。
しかしなぜか、フィーはうれしそうだった。
「俺は本気で言ってんだ。俺なんかじゃ、お前には…」
「……ふーん。じゃあ、チャックかミゲルにでもあげようかなー」
「は?」
「うーん、ジンでもいいかなー。受け取ってくれるかわかんないけど」
「待て待て、これはサラのなんだろ?」
「サラのは私がはめてるし」
「いや、そうじゃなくて……サラとおそろいに戻せばいいだろうが。なんで男に渡そうとすんだ」
「知らないの? 二つに分けた
そうなのか。ならばサラが持つのもおかしいかもしれない。
「けどだからって、あいつらに渡すこと…」
チラリと目を向ければ、車の陰でうずくまるミゲルと、その後ろで「きたねぇっ!」と悲鳴を上げるチャックの姿。たぶん吐いているのだろう。二日酔いか、それとも車酔い――――いや、両方か。何しに来たんだあの二人。
「本当にあいつらでいいのか?」
ぞんざいに親指を向けると、フィーはそちらを
「アハハ……じゃあ、やっぱりジンかなー」
「そんなふうに決めていいもんじゃねぇだろ」
「でも
「それとこれとは、その……」
スヴェンは口ごもった。自分にとやかく言う資格などない。それにジンならば、という気持ちもある。
二人はよくしゃべるし、相談事などもよくしているようだった。並んで立っているところなど想像にたやすい。なまじ二人がお似合いなだけに、胸がモヤモヤする。
ジンならば。そう思いこもうとしてもダメだった。
たとえジンでも――
「ヤダ?」
「絶対に嫌……っ!?」
とっさに口を押さえるも、吐いたつばは飲みこめず。
やられた。スヴェンは悔しげに顔を歪ませながら、勝ち誇った顔をしているであろうフィーのほうをにらんだ。
しかし予想に反して、そんな顔はどこにもなかった。
「私も、ヤダなーって」
うれしそうに、そして幸せそうにほほ笑みかける表情。
いつもより少しだけ、大人びて見えた。
「スヴェンがほかの
「……なんで、いきなりケイト?」
「まぁいいや。それで、どうする?」
「? な、なんだ?」
両手を差し出すフィーに動揺し、とっさに身を引く。ついでに左手へはめた腕時計を思わず隠してしまった。
「返す? 返さない?」
右手で隠す腕時計の感触。火を見るよりも明らかな答え。
聞くまでもないと思ったのか、フィーがすぐに手を引っこめる。ニコニコと憎たらしいのにスヴェンは何も言えなかった。
「大事にしてね、それ。私も大事にするから」
「……お前は何もわかってねぇんだ」
「おもちゃを取られたくない子どもみたいなポーズで言われても、説得力ゼロ」
「ぐっ……お前は知らねぇんだよ、本当の俺を…!」
意地を張る子どものようにスヴェンは口を尖らせた。
すると、フィーが言う。
「お前が何者なのかは、お前が決めていい……だっけ?」
スヴェンは目を丸くした。会話の流れで少し出しただけなのに、覚えていたのか。
フィーが続ける。
「それでスヴェン、私の好きな自分でいたいって言ってくれたでしょ? あれ、すごくうれしかったの」
放心する自分に近寄って腕を取り、彼女は鏡合わせのように互いの腕時計を再び近付けた。
「昔のスヴェンを私は知らないし、それが本当のスヴェンだって言われたら私、何も言えなくなっちゃうんだけど。でもね、でも……」
そして、もうひとつ。
「……本当に、してくれないかな?」
「? 本当、に…?」
「だって、スヴェンが決めていいんでしょ? だから——」
己の、確かな
「——『私の好きなスヴェン』を、あなたの本当にして」
お伺いを立てるような表情から、まるで花が開いたような笑みへ。
隣り合う腕時計が離れ、重なる手。絡み合う指。
ふと浮かぶ、大きな背中。
――憎んだままでも、お前なら大丈夫だ。
バウマンのセリフにはきっと言葉が足りない。
「フィー、俺……」
「何?」
小首を傾げて、優しげな表情で見上げるフィー――――彼女がいれば。
たぶんあれは、そんな注釈付きだったのだろう。
「……ありがとう。大事にする」
スヴェンがそれだけ言うと、目の前の表情がからかうような色合いに変わる。
「ちなみにそれは、時計を? 私を? それとも自分を?」
「全部」
「ヨシッ! 百点!」
「偉そうに」
皮肉げに言うと、弾けるように笑うフィー。その笑顔を見て急に心がうずいた。それはまったく身に覚えのない感情で、どう名付けていいのかスヴェンは一瞬わからなかったが、すぐに答えが出た。
「なぁ、フィー。やっぱりジンは抜きにしよう」
「? なんの話?」
これがうわさの、独占欲。
「お前の故郷。砂浜みたいな星空、だっけ? いっしょに、二人だけで見よう」
ほほ笑むと、首を傾げていた彼女がこちらの意図を察し、顔をパッと輝かせる。
そして、満面の笑み。
「うんっ!」
赤毛を揺らしてうなずくフィーの姿を見て、スヴェンは絡めていた指を離した。そして強く彼女を抱きしめた。
自分へ向けられるその笑顔を、空から照りつける太陽にすら、見せたくなくて。
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