4 ブレンの過去③

――パチンッ。



 ペンダントの閉じる音が聞こえてハッとする。

 表情がうかがえないバウマンの白髪交じりの頭は、再び空を向いていた。


「すまなかった、長くなって。人に話すのは初めてだったから、どうも勝手がわからなくてな」

「いえ……大丈夫、です…」

「……泣いているのか?」


 その言葉に驚き、顔へ手をやると――


「――あれ? 俺…」


 ほおをぬらす涙の跡。先ほど決壊した涙腺るいせんの堤防はまだ直っていなかったらしく、いつの間にか涙を流していた己に驚く。

 慌ててぬぐうも、震える声は取り繕えなかった。


「すいません、俺…」

「なぜ謝る」

「だって、俺……俺は…」


 空を見つめるバウマン。頭に浮かぶ、彼の妻と娘の顔。自分の中にも確かにあるその憎悪の果てを聞き、胸をさいなむ罪悪感。自分には泣く資格などない。

 けれど、彼は言った。


「ありがとう」

「……え?」


 悲しげな含み笑いで、空を見上げたまま言った。


「私の家族のために泣いてくれているのだろう? だから、ありがとうだ」


 ゆっくりと、泣いてしまった子どもを慰めるような調子で言われたセリフに、スヴェンはやや呆然とした。だが次の瞬間にはもう、こらえようとしていた涙があふれてきた。

 ぐしゃぐしゃになる視界と、しゃくりあげる涙声。「そこまで泣くことないだろうに」と呆れ、そして少し申し訳なさそうだった声の主は振り返らず、そのまま自分が泣きやむのを待ってくれた。




 そしてバウマンは、事の顛末てんまつを語った。


「その男たちは、東方系人種イースタニアンが働く娼館しょうかんに出入りしている者たちだった」

「それってもしかして、スズさんが小さいころにいたっていう…?」

「そうだ。そして集落の者たちが言うに、そいつらは手のつけられない半グレどもだったそうだ」


 バウマンの調査によると、男たちはどうやら昔スズをいじめていた女どもから頼まれたらしい。

 東方系人種イースタニアン人権運動で彼が有名になるほど、自然とその妻も話題になる。そしてそれが、あのどこぞの金持ちの変態に買われたと思っていた『リン』だった。老いてしまい、簡単に客を取れなくなった自分たちと比べ、なんと美しく育ち、幸せそうなことか。自分たちがいじめていたはずの、あのみすぼらしい娘が。

 嫉妬しっとに狂った女たちが次に取った行動は、男に頼るというお粗末なもの。


「昔の伝手つてで、女たちが男たちに金を渡していた事実はすぐにわかった。そして、に女どもは同じことを口にした。殺せとまでは頼んでいない、とな」

「! って……殺したん、ですか?」

「殺した」


 バウマンが無感情に語る。


「できるかぎり、苦しめて殺した。拷問ごうもんは専門分野ではなかったが、精通する同僚が昔いてな。それを参考に、妻と娘の苦痛と無念を少しでもわからせてやるため、一人ずつ、いたぶって殺してやった」


 そして彼はいったん言葉を切り、一呼吸を置いて付け加えた。

 今度はまるで、懺悔ざんげするように。


「女を、兵士でもない民間人を……守ろうとしていたはずの、東方系人種イースタニアンを————私は、殺したのだ…」


 スヴェンは何も言えなかったが、バウマンも自分の言葉を望んでいたわけではなかったらしく、再び感情を消して続けた。


「私はまだ、わかっているだったのだ。帝国人にとって東方系人種イースタニアンとの婚姻が禁忌タブーであるように、東方系人種イースタニアンにとってもそれは同じだということに気付いていなかった。女たちの狂気も、男たちの凶行も……すべて、私が招いたことだ」


 静かな罪の告白に、思わずカッとなる。


「そんなことあるわけないっ! 全部、そいつらが…!」


 バウマンの行いに、悪い点などあるわけがない。歯を食いしばってのスヴェンの言い分は、小さく首を振るだけで却下された。


「集落の者たちは、どうして誰も助けてくれなかったと思う?」

「っ! それ、は…」


 思い当たる節は、ある。

 それを口にしたのはバウマンだった。


「彼らは弱者だ。単に怯えていたというのもあるだろう。しかし同情的ではあったものの、彼らはどこか仕方ないものを見るような目で、妻と娘の遺体を抱えて立ち去る私を見ていたよ。お前も、そこは理解してやれるんじゃないか?」


 彼の言うとおりだった。わかる。まるで手に取るように。

 帝国人くそやろう尻尾しっぽを振る負け犬。自分もそんな風に思ったことはあるし、それに似た空気が東方系人種イースタニアンの身内同士でも漂うことを知っている。

 それは、あざけりや憎しみ、ねたみといった感情ものだ。


「うまくやれていると思っていたのは、愚かな私だけだったらしい。よくよく考えると、妻も娘も友人は少ないようだった。だから、本当にあの少年には悪いことをしたと思う」

「? あの少年って…?」

「サユリの『お兄ちゃん』さ。彼だけはいつもサユリと遊んでくれて、最後まで助けようとしてくれていたのに、私はひどいことをしたものだ。しかし、いくら謝りたくても……」


 沈黙とともに、バウマンが手をかざす。一番高いところから下り始めていた太陽が角度を変え、日陰にいた彼へ光を当てていた。

 それをまぶしそうに見上げ、彼がひっそりとつぶやく。


「私はもう二度と、あそこへ足を運ぶことは、できないだろう…」


 悲しみと怒り。諦観ていかんと絶望。そして、郷愁きょうしゅう。バウマンの言い草に、スヴェンはさまざまな感情を読み取った。いっそ、そいつらも恨んでやればいいのにと歯がゆく思った。

 だがそれだと、きっと彼は


「……私は、女たちを殺した後すぐに、帝国の北方治安維持管理局へ出頭した」

「! そんなことしたら、逮捕されるんじゃ…?」

「罪をつぐなおうと思った。どれだけそしられようとも、二人にのはそれからだと思った」

「っ!」


 定まった意思の響きにスヴェンは思わず止めようとするも、それはすでに過去のこと。彼は今もここいる。

 ならば、捕まった後に心変わりしたのか。そんな予想は前提からくつがえされた。


「私は捕まらなかった」

「え?」

「治安部隊の若い軍人は、だけを聞いた。私が殺した人間の命に、の確認だけしか取らなかった。そして、どうやら私の顔を知っていたらしいその軍人は『ご苦労さまです』と敬礼をした。ただ、それだけだった…」

「……え? でも、それって……そんなの、まるで…」


 燦々さんさんと照りつける太陽の下で熱中症にでもなったかのように、見えている世界がグニャリと歪む。

 人里に出た熊や、街中を荒らす野犬と同じ扱い。

 そんなのまるで、害獣駆除だ。


「それがこの国の、東方系人種イースタニアンの現実だ、スヴェン」


 バウマンが言う。そして彼は巨大な足の影から出て、久しぶりにこちらを向いた。

 うやうやしく鎮座ちんざする巨人マーシャルの目の前で相対し、揺らめく陽炎かげろうの向こう側に見えた彼の顔は、ひどく疲れているように見えた。


「お前はきっと、それを理解しておくべきだ」


 スヴェンは彼の言い様に、理不尽さを感じた。

 それを教えるためだけに、あんな長い話を。そんなの、最初から知っている。だからこの胸の憎しみは消えないのだ。

 けれど、知っているようで知らなかった。知りたくなかった。

 母と似た女性の悲しい結末を。はかなく散った百合リリィの話を。自分に似たみにくい同胞と、残酷な現実リアルを。

 そして自分はそれを知り、どうすべきなのか。


「教官は……どうしたんですか?」

大師たいしだ。どうした、とは?」

「その後です。それから……教官は…」


 救いを求めるように問うスヴェンへ、呼称の訂正は重ねられなかった。


「……私は、妻と娘を、そのに含めなかった」


 バウマンが胸元へ手をやり、何かを握りしめる。きっとペンダントだ。


「だから誰も知らないのだ、二人の墓の場所を」


 二人の写真が入っているのであろう、肌身離さず身につけているペンダント。

 それをそっと、包みこむような手。


「あの日のように後を追えぬまま……私はずっと、二人の墓を守っている」


 そんな悲しき墓守はかもりの姿が、そこにはあった。


「……もう、東方系人種イースタニアンには失望しましたか? だから、軍に戻ったんですか?」

「軍に戻ったのは、抜けがらとなっていた私をエリックが訪ねてきたからだ。こんな愚かな男でも、親友ともはまだ必要だと言ってくれた。大した助力はできないが、二人の墓のそばでならとこの仕事を引き受けている。彼への恩義と、ただの引け目だ」

「だったら今でも、本当は帝国が間違ってると思いますか? あいつらが……この国が、間違ってるんだって」

「……そんな単純な話ではないんだ、スヴェン」


 バウマンは幼子へと言い聞かせるようにゆっくりと首を振った。


「誰が間違っていて、誰を救うべきなのか。そういう話ではない。『この戦いに終わりはないかもしれない』と言った師の真意が、今ならよくわかる」


 彼の師。バウマン神父。

 最後まで、美しい未来を信じた人。彼に信じることを説いた人。


「彼は忠告していたのだ。敵も味方もないのだと。私たちが戦っているものはとても大きく、目に見えぬほど小さく、自分の中にすらあるのだと」


 目をそらした視線の先には、どこまでも青い空に浮かぶ太陽。


「それでも、ただ信じて……未来に託すしか、道はないのだと…」


 それをまぶしげに見つめる顔は何もかもを諦めていた。その言葉とは裏腹に。

 卑怯だ、と思った。


「そんなの、押しつけられても困りますよ…」

「……押しつける?」

「だ、だってそうでしょ? 教官ができなかったことを、俺なんかができるはずないじゃないですか」


 息を止め、まるで幽霊でも見たかのような顔を向けるバウマンに怯まず、スヴェンは正直な気持ちを告げた。


「俺は、頭だって別によくないし、そんな大層な運動で人を導くなんてできっこない。ジンの言うような、英雄なんてバカな妄想のほうがまだわかりやすい。だって、目の前の相手と戦えばいいんですから」


 バウマンたちが戦っていたのは差別ではなく、人の悪意そのものなのかもしれない。

 敵も味方もなく、大小もない。人々の心に平等にある悪意もの

 そんなの、どうしようもない。


「殴られたら俺は、殴り返すことしかできない。俺は結局、その男たちと大して変わらない人間だ。そんな俺にどうしろってんですか? そりゃ……そりゃ俺だって、なんとかしたいとは思いますけど、でも――」

「待て、スヴェン」


 軽く混乱パニックになっていたスヴェンを、バウマンが言葉だけで制する。


「そう聞こえたか?」

「? 何がですか?」


 首を傾げると、彼は背を向けた。


「私が、お前に……私の意志を継いでほしいと、そのように聞こえたか?」


 おおげさな言い方だ。だが、おおむね合っていような気もする。


「そんなふうに聞こえましたけど、勘違いでしたか?」

「いや、合っている」

「……そうですか」


 ズシンと感じる見えない重り。

 それは、すぐに外された。


「全部忘れろ」


 スヴェンは呆気に取られた。


「忘れろって…?」

「私の言ったことだ。ついでに、ヘンドリックスに言われたことも忘れてしまえ。やつはお前のことになると考えすぎるきらいがある」

「いや、そんなこと言われても…」


 忘れられるはずがない。特に、彼の妻と娘の話などは。

 まるで自分のことのように、その悲しみはスヴェンの胸へ刻まれていた。


「……いつか、会いに来てやってくれないか?」

「? 誰にですか?」

「妻と娘に。お前ならば、きっと二人も気に入るだろう。無理にとは言わんが、望むのはそれだけだ」

「え、それって…」


 誰も知らない二人の墓。そこへの招待状。断る理由などない。

 しかし、それだけというのはなんとも自分に都合が良い。


「知っておくべきだって話だったじゃないですか。だから、俺に教えてくれたんでしょう?」

「深い意味はなかった。話しているうちに、後悔がよみがえってきてな」


 バウマンは一度だけ、小さく肩を揺らした。「後悔することばかりだが…」とつぶやいた彼は、小さく笑っていた。


「いまだに『バウマン』を名乗っているのが、ずっと、申し訳なくてなぁ…」


 聞く者の胸を締めつけるような、悲痛な笑い声だった。


(……そうか、この人は…)


 信じることをやめた。託されたものを、誰にも託せなかった。未来につなげられなかった。それでも師が与えてくれた姓を捨てていないのは、きっと心残りがあるからだ。

 スヴェンは迷った。少しでも彼の救いになるのならば、彼の意をんでやるべきなのではないかと。かといって、何をどうすればいいのか皆目見当がつかないし、それはただの同情で決めていいものではない気もした。

 そのまますすけたような背中へ声をかけれずにいると、ピクリ、と彼がわずかな反応を示す。見つめる先は果てなき青空ではなく、遠い地平線。

 そしてバウマンは、突拍子もないことを尋ねた。


「お前、好きな子はいないのか?」

「……は? な、なんですか急に…」

「どうなんだ?」

「いや、どうなんだって言われても…」


 なんだ、この会話。とたんに気持ち悪さが胸を先行する。「今度、家にでも連れてきたらどうだ」なんてバカなことを言い出しそうだ。

 そんなあり得ない想像をしながらも、はた、とスヴェンは気付いてズボンのポケットを探った。指に引っかかる少しくしゃくしゃな固い紙。

 取り出したそれは、ジンとの相部屋から出ていく際にくすねていたフィーと自分が映る写真。迷惑そうな自分の背中を引っ張り、ピースサインを向ける赤毛の彼女。


「私が言ったんだ。『お前が何者なのかは、お前が決めていいんだ』と」


 まるで今日のような青空の下、元気に笑う彼女が輝いて見えた。


「だから、さっきの話は忘れろ。心の片隅にでも置いておけばそれでいい」


 写真に目が釘付けになりながらも、スヴェンはバウマンの言葉を聞いていた。


「ただ、ひとつだけ……スヴェン――」


 彼女から目が離せなかった。


「――人を愛せ」


 無性に、会いたくなった。


「私のような人間がお前に望めることなど、そんなものだ」

「……俺には、難しいかもしれません」

「お前が、スズとサユリを殺した男たちといっしょだからか?」

「っ!?」


 ギョッとして、思わずバウマンの背中へ目を向ける。

 彼は小さく肩をすくめた。


「そんなこと、あるはずがない」

「でも、俺は…! 俺もあいつらと同じで、帝国人を憎んで――」

「お前は素直すぎるだけだ。人一倍ひねくれているように見せかけてな」


 バシッ、と頭を叩かれた気分。そんな余計な一言。そのおかげで、スヴェンの気持ちは知らず知らずのうちに軽くなっていた。

 そしてバウマンが、こちらをチラリと振り返る。


「憎んだままでも、お前なら大丈夫だ」


 そのままクイッとあごをしゃくった。


「? なんですか?」

「体調不良のはずなんだがな。フェンスの修理もせずに、まったく」

「は?」

「大目に見てやる。さっさと行け」


 振り返り、こちらへ歩き出すバウマン。わけがわからずに彼があごで示した先を目で追う。

 遠く、荒野に上がる砂煙。車だ。基地にあるはずのジープがこちらへ近付いている。

 そしてスヴェンは口を開けた


「あ…」


 ドアも屋根もない車の後部座席に立つ人影。

 風になびく、遠くからでも一目でわかった赤毛。


「フィー…」


 呆然と彼女の名を呼ぶ。同時に、ポン、と大きな手が肩に置かれる。


「周りに流されるなよ、スヴェン」


 そのまま横を通りすぎるバウマンの口から出てきた言葉は、三度みたび重ねて耳にするもの。


「お前が何者なのかは、お前が決めていいんだ」


 そして、厳しい声。

 悲しい願い。


「……だから決して、私のようにはなるな」

「あ…」


 スヴェンは遠ざかる背中へ手を伸ばしかけた。けれど、彼がそれを望んでいないことを悟り、その場から動けなくなった。歩みは大きく、背筋は伸びていて、一見するといつもどおりの姿。意外な豊かさを見せていた表情も、今は元の鉄面皮へ戻っているのだろう。

 だが、そこに背負う悲しみとごうを知ったスヴェンは、せめて最後にと声をかけた。


百合リリィの花を持っていきます」


 足を止めずに遠ざかっていくバウマンへ、大声で叫ぶ。


「いつか必ず、墓参りに連れてってください! 教官っ!」


 それでも振り返らず。決して立ち止まらず。

 返ってきた怒鳴り声は、いつもどおりの訂正だった。


大師たいしだっ!」


 それにどこかホッとし、同時に少し苦笑い。

 そしてスヴェンは後ろを振り返り、間近に迫っていた車が上げる砂煙へ向かって、全速力で駆け出していった。

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