3 ブレンの過去②


 その日、ブレンは帰りが遅くなった。教会での話し合いが長引いてしまったのだ。

 広がりを見せつつある東方系人種イースタニアン人権運動。それに対し、今までは取るに足らぬものとして放置していた帝国が、取り締まりを強化し始めたのだ。かつての指導者バウマン神父のいた教会で設けられた話し合いの場では時間だけが過ぎ、なんの対抗策も浮かばないまま解散となっていた。

 どうすべきか。家までの帰り道、ブレンはひとり考えていた。帝国のやり方は熟知している。本気になれば彼らは、自分たちを逮捕さえするかもしれない。でっちあげた罪状で。

 エリックに助けを求めるか。ケンカ別れをしてしまった親友の顔を思い浮かべるも、ブレンは首を振った。四大聖したいせいの一角となった今の彼にはこの北の大地すべてを治める責任があり、昔のよしみというだけで迷惑をかけるわけにはいかない。それに、彼は自分がスズと結婚したことを快く思っていない。もしかしたら一番の敵になる可能性だってある。

 いったい、どうしたものか。焦りを覚えると、ブレンはいつもバウマン神父の言葉を思い出すようにしていた。



――だからブレン殿、信じなさい。ただ信じるのです。



 まぶたを閉じ、胸に手を当てる。



――我々がつなぐ未来を。それが、血に汚れた大地で実るものよりも、きっと美しいことを。



 バウマン神父は悟っていたのだろう。自分が生きているうちに、それが見られないことを。だからそう言ったのだ。

 託されたものを、自分もまた託さなければならない。彼がつないでくれたものを、ここで終わらせるわけにはいかない――――美しいはずの未來を信じて。そんな決意がみなぎり、スッ、と胸が軽くなる。そしてブレンは目を開いた。

 すると、街灯が設置されていない草木の生い茂った道はいつの間にか暗闇に包まれていた。どうやら陽が沈んでしまったらしい。

 百合の花が咲き始めた温かな季節。日も長くなっていたからいつもよりかなり遅い時間だ。ブレンは考えることをやめ、急いで再び帰路に着いた。

 窓のそばに張りついて離れないサユリのため。そして、出来上がった夕飯を食卓に並べられないスズのため。

 自分の帰りを待つ、二人のために。




「――――そして私を待っていたのは、美しい未来などではなく……地獄だった――――」




 急いで帰っていると、集落近くの雑木林ぞうきばやしから子どものすすり泣く声がした。足を止めて耳を澄ませば、どこか聞き覚えのある男の子の声。

 ブレンはそれが、サユリが『お兄ちゃん』と慕う少年の声だと気付き、草木をかき分けて不気味さの漂う暗闇の中へ足を踏み入れた。昼間ならともかく、こんな遅い時間帯では大人でも迷ってしまう。野生動物が出ないともかぎらないし危険だ。

 だが、まさか一人ということはないだろう。そんなあては外れ、大きな木のそばでポツンとうずくまる小さな少年。

 ブレンは慌てて駆け寄った。ただうつむいて、ブツブツとつぶやきながらすすり泣くだけの、顔見知りの少年へ。様子がおかしい。


『こんな時間に何をしているんだ? 危ないだろ』


 肩に手を置いて声をかけると、少年は泣き腫らした顔をガバッと上げ、目を皿にしてこちらを見つめた。


『……おじさん?』

『迷子になったのか? まだ一人で出歩いていい歳では――』

『おじさんっ!』

『――っと…』


 胸にしがみついてきた少年を受け止め、ブレンはしかりつけるよりも先に落ち着かせようとした。『もう大丈夫だ』と何度も声をかける。

 しかし、少年はなぜか謝り続けるだけ。


『ごめんなさい……ごめんなさい…! 僕、何もできなくて、助けを呼ばなきゃって……でも、お父さんもお母さんも、誰も助けてくれなくて…!』

『? 何か、あったのか?』

『それで、おじさんを探して……でも、どこにもいなくて、暗くなっちゃって……それでも、探さなきゃって…! ほかに、誰もいなくて…!』


 要領を得ないセリフ。恐慌パニック状態だ。ブレンは少年の肩を左右からガシッと掴み、驚く幼い顔を真正面から見据えた。


『しっかりしろ。何があったのかだけ話せ』


 状況把握を優先。こくなようだが、これはただ事ではない。軍人時代の勘が一刻を争うと警鐘けいしょうを鳴らしていた。

 厳しい言葉に呆然とする中で、口だけが少年の意思から離れたようにうっすらと動く。


『……ユーリィが、パパって叫んでた…』


 のどが言葉にすることを拒んでいるかのようなかすれ声。


『おじさんが帰ってきたんだって、花畑のほうを見たら……ユーリィ、逃げてた』


 それでも、伝えなければならない。そんな声。


『男の人がいて、でも、おじさんじゃないって気付いたら、ユーリィがまた叫んだんだ…』


 ひどく怯えながらも、使命感に駆られるように紡がれたセリフが――


『……パパ、助けてって…』


――幼い娘の甲高い悲鳴が、頭の中の世界を揺らした。


『それで、僕――――っ!?』


 ブレンは少年の胸ぐらを掴んだ。


『サユリはどうした!?』

『おじ、さ……苦しっ…!』

『さっさと答えろっ!』


 のど元は緩まるも、鬼気迫る表情で背後の木へ押しつけられた少年は先ほどより怯えながら叫んだ。


『男の人に捕まった! それからは知らないんだ!』

『見捨てたのか、娘をっ!』

『! 違うっ!』


 非力な手が締め上げる腕に抗うも、ブレンは何も感じなかった。

 真っ赤になる視界。その向こうで、ビクッ、と反応する小さな何か。


『い、行こうとしたんだ僕はっ! でも、すぐにおばさんの悲鳴も聞こえ、て……』


 愛する妻と娘。頭の中に浮かんだ二人の笑顔が――


『……男の人の笑い声が、いっぱい、聞こえたんだ…』


――自分を呼ぶ、悲痛な叫びでかき消える。


『だから僕、助けを呼ばなくちゃって……それで――――っ!』


 ブレンは少年を突き飛ばして走り出した。ならされた道から外れ、真っ直ぐ雑木林を突き抜ける。やぶを蹴飛ばし、茂みで手に小さな傷を刻み、大きな木の根に足を取られて顔をぐしゃぐしゃにしながら。

 破裂しそうな心臓と激しい呼吸音を遠くに聞き、ブレンは頭の中で必死に唱え続けた。大丈夫、そんなわけない。

 そんなこと、あるわけがない。



――パパッ!



 娘はきっと、昨日と変わらず胸に飛びこんでくる。自分の遅い帰りに、不機嫌になっていたことも忘れて。

 そして、妻が言うのだ。



――おかえりなさい、あなた。



 柔らかく笑い、そっと自分の手を握って家路につくのだ。

 あの、短くも大切な時間を、今日もいっしょに――



――ズシャッ!



 ブレンは再び足を取られて地面へ身を投げ出したが、勢いを止めずにそのまま立ち上がって走り出した。掴んだ土が爪の間へ食いこみ、さらに口の中へまで。顔は傷だらけ。関節も悲鳴を上げ、打撲も無数に。走って転ぶのがこんなにも痛いことを、とても久しぶりに思い出していた。

 だから、今度から――――今日からは全力で走ろう。娘が転んでしまうその前に、こちらから抱きしめに行こう。

 君を抱きしめるこの腕を、きっと、間に合わせてみせる。




「――――けれど、何もかも遅かった。私は……間に合わなかった――――」




 家の見える道に出ると、いつもの花畑が目前に広がっていた。その向こうには、小さな明かりの灯る我が家。

 ブレンは足を止めた。自分の荒い息づかいだけが聞こえる、静かな夜だった。娘は家から出てこない。きっと、暗くて自分の姿に気付いていないのだろう。そう自分に言い聞かせながら、重い足を引きずって前へ進む。

 ガンガンと頭の中で鳴る嫌な予感を、娘の名を呼ぶことで落ち着かせ、身体中に響く鼓動のままに妻の名を呼ぶ。

 今、帰ったぞ。やけに遠く感じる家へそうつぶやく。

 重い足取りのまま花畑の囲む細道へ差しかかるも、娘はまだ家から出てこない。いつもならもう飛び出しているはずなのに。

 だからブレンは、ひどく疲れていることも忘れて歩を早めようとした。早く、安心したくて。



――パパ、お腹すいたっ!



 あぁ、遅くなってごめん。



――夕飯、温め直しますね。



 冷めたままでも美味しいさ。だから、早くいっしょに食べよう――


『――いっしょに、帰ろう……』


 幻へ投げかけた言葉が消える前に、ブレンの顔へ、横から強い風が吹きつけた。



――ビュゥ――――ッ。



 夜風に舞う白い花びら。その中に、花びらが混じっているのが目についた。そして百合の香りの中にわずかながら混じった、。ブレンは足を止め、うつろに横を向いた。

 娘の名と同じ、白い花畑。踏み荒らされた跡のあるその真ん中に、赤く染まる花が――


『――サユリ…?』


――美しい百合リリィの花に囲まれた娘が、まるでいつものように転んだ格好で倒れていた。


『――――サユリッ!』


 慌てて駆け出すも、花を踏まぬように走る。すぐに娘のそばへ。小さな体と投げ出された短い手足が白い花のベッドの上でうつ伏せとなり、頭の周辺に咲く踏まれていない花は、血で赤く染まっていた。


『サユリ、サユリッ!』


 間に合わなかった腕で抱き起こすと、娘は眠っていた。


『目を……目を開けてくれ、サユリ…!』


 土に汚れた顔をなでると、乾いた血が指にざらついた。


『なぁ、小さなリリィ……パパ、帰ってきたぞ…』


 風に揺れる百合リリィの花に囲まれた小さなリリィは冷たく、その名の花のように何も物を言わない。

 娘は、死んでいた。それを受け入れられなかった。


『ウソだろ、なぁ……怒っているだけだろう? 遅れてすまない、何度でも謝るよ、サユリ…。だから、起きて……パパに、おかえりって――』



――パタッ…。



 力なく落ちる小さな手。パサリと舞い散る赤い花びら。


『……あ、あぁ…』


 その時、ブレンはやっと気付いた。


『ウソだ、ウソだ……ウソだぁぁぁ――――っ!』


 最愛の娘を、失ったのだと。




 ブレンは泣き叫んだ。こびりついた血を洗い流すほどの涙を幼い顔へ落とし、何度も何度もなでながら娘の名を呼び続けた。

 サユリ、ユーリィ、小さなリリィ――――私の天使、私の宝石。呼び方を変え、起きてくれといくらささやいても、娘は起きてくれない。

 しばらくすると家の扉の開く音がして、ふと顔を上げる。


『スズ…?』


 涙でぬれた視界の中、うごめく暗闇。人影のようだが暗くてよく見えない。

 それでもブレンは、悲しみで混濁こんだくする意識の中で呼びかけた。


『スズ……サユリが…。君と私の、小さなリリィが…』


 すがるような目をその近付いてくる人影へ向けていると、それはこう言った――――男の声で。


『よぉ。遅かったな、帝国人くそやろう



 心臓を、握り潰されたのかと思った。


「パパ、パパとうるさかったから、つい殺した。男はそう言った」


 帝国人くそやろう。その言い方を知っている。


「男は花畑に足を踏み入れようとした。その前に私は襲いかかり、馬乗りになって殴り続けた。気付けば、そばにあった小さな岩まで使っていて、いつの間にか頭ごと潰れていた男の顔を確認できなかった」


 誰が言ったのか、想像できる。


「するとすぐ、ドアから男があと四人ほど出てきた。家の中からもれる明かりに照らされた、その男たちの顔は……」


 それは、きっと――


「……皆、東方系人種イースタニアンだった」


――、なのではないか。


「それに気付いたのは、その場で全員を殺した後だったがな。顔がわからなくなって、どんな顔をしていたか思い出そうとしたら……あぁ、そういえば、と」


 魔杖機兵ロッドギアの巨大な足にもたれかかり、空を見上げるバウマン。ずっと同じ体勢のまま、調子も変えずに語る彼がスヴェンは恐ろしかった。

 その所業が、ではない。肩だけはみ出た後ろ姿は、首を少し回せばこちらへ目を向けられる。それが怖かった。

 今、彼に見られることが、とても恐ろしかった。


「……お前はそのころ、どうしていた?」


 ビクッ、と跳ね上がる肩。飛び出そうになる心臓に、思わず閉じた口。彼の声の調子は責めているものではない。

 それでもスヴェンは言い訳をするように震える口を開いた。


「そのころは、たぶん……母が亡くなって、俺は施設に…」

「父親は?」

「父は、もっと以前に戦争で……正直、顔もあんまり覚えてないんです」

「……そうか。お前も幼かったのに、大変だったな」


 どこか素っ気ない言い草に、気分を害することはなかった。ただ彼は話題を変えたかっただけなのだ。語るべきその先をためらって。

 しかし、スヴェンはそれに気付けなかった。ひどい罪悪感が胸の中を渦巻き、頭の中は何かを言い繕おうといっぱいいっぱいだった。

 だから、とは言い訳できない。


「お、奥さんは、どうなったんですか?」


 それほどにスヴェンは、この世で最も愚かしい質問をした。


「……妻、は…」


 詰まる言葉。うつむく気配。果てない青空から目をそらすバウマン。スヴェンはそれを不思議に思う間もなく、己の失敗を悟った。

 笑い声。妻の悲鳴。家から出てきた男たち。それだけで、想像にかたくない。


「……スズは、だった…」


 スヴェンは自分を殺したくなった。


「一瞬、妻だとわからなかった。私はまるで他人事のように、ボロボロの彼女へ自分の服をかけ、そして自然とその手を握った。物言わず、静かに横たわる彼女を抱きしめながら」

「教官、それ以上はもう……無理して話さなくても――」

「その時、指がピクリと動いた。彼女は目を覚ましたんだ」


 顔を真っ青にしていたスヴェンへ、呼称の訂正はなし。バウマンは今、己の過去に埋没しているようだった。


「まだ生きていた妻へ、私は必死に呼びかけた。彼女には、もう……と思って…」


 スヴェンは耳をふさぎたくなったが、聞かなければならないとも思った。


「けれど、彼女は手の温もりだけで私だとわかったらしい。潰されていたのどを必死に動かして、何かを伝えようとした」


 自分と似た憎しみをもつ人間が、いったい何をしたのか。

 スヴェンは、知らなければならないと感じた。


「……『リリィ』と、彼女はずっと娘の名を呼んでいた。かすれた呼吸音とともに、何度も何度も……」


 チャリ、と金属がこすれる小さな音。バウマンがうつむいたまま、首にかけていたらしいペンダントを手に持つ。

 パチッとふたを開いた中には、写真が入っているようだった。


「娘は助けた、無事だと。初めて、妻にウソをついた」


 スヴェンは目をそらした。自分にはきっと、その中身を見る資格がない。

 けれど、わかる。


「妻は安心したように息をつき、私の腕の中で眠りにつこうとした。行かないでくれと泣く私へ彼女は困ったようにほほ笑み、震える指で何かを伝えようとした」


 ペンダントそこにはきっと、あの写真があるはず。


「『ありがとう』と、彼女は私の胸へ書きなぞった。昔のあの、短い書き置きのように。そして、スズは――」


 彼のデスクの上。常に彼を見守るように置かれた、彼の宝物。


「――また、私を置いて……行ってしまったよ…」


 白い百合リリィの花畑で撮った娘を抱く妻の写真が、彼に笑いかけているのだろう。

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