2 ブレンの過去①


 妻の名前はスズ。ヤマトの名前なのは、父親が戦争で捕虜になった陰陽府の兵士だったからだそうだ。バウマンが出会った当初、幼い彼女は娼館しょうかんで『リン』と呼ばれながら下働きをしていた。

 父はひとりヤマトへ戻り、それで気の狂った母は娘を残し他界。少女は母親が働いていた東方系人種イースタニアンの娼婦専門の娼館しょうかんへ引き取られたが、そこで壮絶ないじめにあっていた。なんでも、母親が同僚たちにこううそぶいていたらしい。


『あんたらと違って、自分はいつかヤマトへ行き、こんな暮らしから抜け出すのさ』


 そして少女は、男に見捨てられたあわれな女のかわいそうな娘ではなく、募りに募ったねたそねみのはけ口とされるようになった。




 若かりしころのバウマンが少女の境遇を知ったのは、その娼館しょうかんを捜査した時だった。

 違法薬物の売買、魔導技術マギオロジーの違法使用、そして魔賊とのつながり。北方治安維持部隊の新人だったバウマンは初仕事でそれらを調べているうちに、あまりにもみすぼらしい少女と出会った。

 いくつものあざに、全身タバコの火傷やけど跡。瞳に生気はなく、やせ細った体はろくな食事を与えられていないことが一目でわかり、長い黒髪はつやもなくボサボサのまま。風呂へもまともに入れてもらえなかったらしい。

 事情を聴き、もうすぐ客を取ることとなる少女の管理の杜撰ずさんさに店主へ詰め寄れば「にも需要がある」とのたまう始末。

 バウマンはおぞましくなった。こんなみじめな少女が、男たちに物のように扱われる日が来るのかと。理想に燃え、潔癖けっぺきなところのあった未熟な青年にとって、それは苦痛だった。

 だからそれは、若気の至りだったのかもしれない。その場でバウマンは少女を買い取ることにした。人身売買は違法だが、少女は母親が残した借金を返すために娼館しょうかんにいたので、それを払いさえすれば自由の身だったのだ。

 そしてその日に、青年は少女を連れ帰った。渋る店主へ色をつけ、多めに金を握らせて。ブラッド家の財力ならば、それが可能だった。




「――――って、ブラッド家?」

「北方に領地のある、導聖卿どうせいきょうの一族だ。北方大聖公ほっぽうたいせいこう公の一族であるレッドヘルム家とも古くえにしのある、いわゆる名家だな」

「そこの家の人だったんですか?」

「次期当主だった。現レッドヘルム大聖公たいせいこうとも幼なじみでな。ちょうど、お前とヘンドリックスのような関係だった」

「俺たちはそんなに、付き合いは長くは……そもそも、そんなに偉くないですよ」

「関係性の話だ。もっとも、昔の話だがな。家名もスズと結婚して剥奪はくだつされた。それより、話を進めるぞ――――」




 ブレン・バウマン改め、ブレン・ブラッドは最初、その少女に手を焼いた。『リン』という名前以外は何も聞き出せなかったからだ。

 何も語らず、読み書きもできない。夜になると怯え、やせ細った体を震わせながら寝床へ入ろうとしてくる。どうやら金持ちの男に買われたのだと勘違いしていたらしい。あながち間違いではなく、それを正す手段もにはなかった。

 屋敷に少女を迎え入れても、家族は白い目を向けるだけ。下働きさせようにもあまりに手際が悪く、そのうえ体力もない。娼館しょうかんにいたころと同じようにいじめられる可能性がある。

 ブレンは仕方なく、屋敷の離れへと少女を幽閉した。次期当主が東方系人種イースタニアンの少女を飼っているとうわさされたが、それでもなるべくブレンはそこで少女と過ごした。読み書きを教え、屋敷の仕事のやり方を教え、できるだけ体力もつけさせた。

 少女を助けたことを若さだと揶揄やゆされても、ブレンは差し出した手の責任だけは、果たすつもりでいた。




「――――なんか、あれだな…」

「? どうかしたか?」

「いや、ちょっと……自分も最近、似たような経験を…」

「リズと呼んでいたあの少女か?」

「あ、はい。なんか名前も似てて、つい」

「……それだけなら、いいんだがな」

「? 教官?」

大師たいしだ。今は置いておこう。さて、どこまで話したか――――」




 それから、六年の月日が流れた。

 心の傷もえ、体も成長した少女は美しくなり、屋敷のメイドとして働いていた。

 リンと呼ばれながら、その勤勉さと手際の良さで認められ、年上の同僚とも仲良くやれていた。屋敷で働く唯一の東方系人種イースタニアンだったので、そううまくはいかないだろうと思っていたが、家人もおおむねリンに対して好意的になっていたのが幸いしてすんなりと受け入れられたのだ。それはひとえに彼女の努力の成果であり、ブレンは何もしてやれなかった。

 治安部隊から対魔賊特殊機兵部隊――通称、ミスティルテインズ――へ異動していたブレンはそのころとても忙しく、あまりリンとの時間を取れなかった。特に、現皇帝の弟であるアスブライン・ヘイズ・ゴダ・ギムリアがに下り、北方を中心に魔賊として活動を開始した時期であったため、その調査と対応に追われる毎日。後に彼が巻き起こした反乱を、若き日のエリック・レッドヘルム大聖たいせいと食い止めたのはまた別の話。そのころのブレンは、とにかく疲れていた。

 だが、屋敷へ帰ると必ず、リンと過ごした離れの小屋へ足を運んでいた。どれほど疲れていても、リンのれた紅茶を飲むのが唯一のいやしの時間となっていたのだ。彼女もまた彼の好む菓子などを用意して、何も言わずとも彼を待ってくれていた。

 そんなある日、リンはブレンに言った。


です』

『? スズ?』

『私の本当の名です。二人きりの時だけ、そうお呼びくださいませんか?』


 はにかんだその笑顔を見て。彼女の、本当の名を知って。

 そして、ブレンは確信した。


『私、本当はずっと……ブレン様に、そう呼んでほしかったんです』


 自分は彼女を、愛しているのだと。




「――――お前の言うとおりかもしれん」

「? 俺の?」

「あわれな野良犬を助けて、尻尾しっぽを振られて喜んでいたのかもしれん。とんだ愚かな偽善者だった」

「いやあれは、つい勢いで言っただけで…」

「それでも私は、彼女を愛した。私が彼女に与えた以上のものを、彼女は私に与えてくれた。だから、報いなければならないと思った。生まれてくる子のためにも、変えなければならないと思った……この世界を」

「世界を、ですか?」

「……東方系人種イースタニアンに対する迫害だ――――」




 北にある程度の平和が訪れたころ、スズの妊娠が発覚した。それを機に、ブレンは彼女と結婚しようと決意した。

 東方系人種イースタニアンとの婚姻という禁忌タブーに周囲は猛反対。家族も愛人として囲うつもりだと思っていたらしく、上官にも要職から外すと脅された。親友のエリック・レッドヘルムからもひどくなじられることとなった。

 そして、誰よりも反対したのはスズ自身だった。あまつさえ彼女は、ブレンのプロポーズを断って逃げ出したのだ。『ありがとう』と短い書き置きだけを残して。

 ブレンは彼女を追いかけた。家、仕事、地位や名誉、その責任――――そして、ただひとりの親友ともさえも捨てて。あてもなく飛び出し、自らの足で彼女を探し続けた。



 結局、彼女はすぐに見つかった。北方地域に東方系人種イースタニアンは少なかったので、足跡そくせきをたどるのは簡単だったのだ。だがその道中で、ブレンは悪い予感に侵されていった。

 店から叩き出されていた、叩き出してやった。生意気に金を持っていたから、倍の値段でふっかけてやった。夜、家のそばでうずくまっていたから、水をかけ、犬をけしかけてやった。そんな証言ばかり。

 ブレンは自分が世間知らずだと思い知らされた。社会的な地位の上にあぐらをかいて、そこから見下ろしながらわかっているだったのだと。そして同時に、彼らは彼女に出会わなかった自分自身なのだとも感じた。怒りよりもそれは、絶望に近い感情ものだった。

 彼女は無事なのか。その身に子どもを宿しながら、今どんなひどい目にあっているのか。考えれば考えるほど不安で張り裂けそうになる胸を押さえながら、ブレンは必死で走った。

 そしてたどり着いたのは、とある教会。スズはそこの年老いた神父に招き入れられ、宿や食事だけでなく治療まで施してもらっていた。

 外傷もあり、栄養失調にもなりかけていたが、母体も胎児も無事。そんな説明を眠る彼女の手を握りながら聞いていると、涙でにじむ視界の向こうで彼女の起きる気配。

 おもんばかる言葉も、おはようさえも言わず、ブレンは起き抜けの彼女へ再びプロポーズした。いくら断られようとも、うなずいてくれるまで決して手を離さぬ覚悟で。

 すると、寝ぼけながらスズが答える。


『はい、ブレン様…』


 夢だと思った――――とは、はっきり目を覚ました後の彼女の弁。


『スズを、お嫁さんにしてください…』


 だから、今のはなし。なかったことにノーカン卑怯ずるだ。半べそをかく彼女の文句に一切耳を貸さず、言質げんちを取ったブレンは無理やりその場で結婚式まで挙げた。

 事情を話してお願いした老神父は嫌な顔ひとつせず、神への仲介役とともに唯一の見届け人となってくれた。




「――――それが、神父だった」

「! バウマンって、今の……」

「しばらく教会でやっかいになると、すぐに彼のもうひとつの顔を知った。彼は、東方系人種イースタニアン人権運動の有名な指導者の一人だったのだ」

東方系人種イースタニアン、人権運動…? 初耳ですけど…」

「北では有名なものだ。もとより東方系人種イースタニアンに対する憎しみが少ないからな。北方地域では東方連合よりも魔賊による被害のほうが多い」

「どうりで、聞いたことないと…」

「昔も今も小さな運動だが、バウマン神父はいつか北の地のすべてに広めたいと考えていた。そして、移住を許されない多くの東方系人種イースタニアンがいる東方地域にまでその火を灯したい、と。あいにく私は彼の説く神の教えを傾聴けいちょうすることはできなかったが、彼の考えには大いに賛成した。そして彼は、手伝わせてくれと頼みこむ私を受け入れ、ブラッド家から放逐ほうちくされた私に不便だろうとその姓まで与えてくれた」

「それで、バウマンに…」

「私は、妻の幸せと子の未来のため、彼の活動を手伝うようになった。それは軍をやめた私の新たな戦いだった。そしてその日々は、つらく、苦しく……何よりも、幸せだった――――」




 炊き出しや職業の斡旋あっせん、人々への呼びかけや国への権利申請。時には東方系人種イースタニアンと帝国人とのトラブル解決まで。多岐たきに渡る活動をこなしていると、次第にブレンは東方系人種イースタニアン人権運動の矢面やおもてへと立つまでになっていた。

 加えて、先の大きな反乱をしずめた英雄の一人として彼は有名だった。辞めたとはいえ軍にも顔が効き、ちょうどそのころ北方全土を治める北方大聖公ほっぽうたいせいこうの位に就いていたエリック・レッドヘルムの唯一無二の友。影響力の高い人物として見なされるのは当然だった。

 しかしそれでも、うまくいかないことばかり。生家のブラッド家からは良い顔をされず、エリックとも連絡は途絶え、内政を司る文官に顔見知りはいない。そして何より、足を止めて自分たちの話を聞いてくれる人々は少なかった。

 結果を求めるブレンに、バウマン神父が言う。


『血を伴わぬ戦いはとても長い。東方連合との長い戦争はやがて終わるでしょうが、この戦いに終わりはないかもしれない。けれど、焦ってはいけません。焦れば人は、その手に剣を取ってしまう。力を選ぶ。それが、私たち人間に神が与えた手段なのですから』

『……ならば、我々もそうすべきなのでは? 神が与えたのならば、いっそ帝国に……』


 それは、彼の中の芽生え。人間たちをの当たりにしてきたからこそ、頭の片隅に常にあったもの。

 それを、バウマン神父は摘み取った。


『神はいつだって、我々を試しているのですよ。だからブレン殿、信じなさい。ただ信じるのです』

『何を信じればいいのですか?』

『我々がつなぐ未来を。それが、血に汚れた大地で実るものよりも、きっと美しいことを』


 ブレンにその言葉を伝えた翌朝、バウマン神父は息を引き取った。夜、眠りについてそのまま目覚めない、静かな逝去せいきょだったらしい。まだ元気だと思っていたが、老体に無理をさせていたのやも。ブレンは後悔し、まるで父親を失ったかのように心が痛んだ。

 それでもブレンは前を向いた。バウマンの姓とともにその意志も継いで、さらに精力的に活動の幅を広げた。

 なぜなら彼の中には師と仰いだ人の言葉が根付き、かたわらにはいつも、悲しみを分かち合える家族がいたから。



 五歳になる娘の名はサユリ。仮名はリリィ。スズが『リン』と呼ばれていたように、東方風の名を呼ぶことははばかられているため、帝国風の仮名も与えるのが習わしだった。いつもはサユリ、または『小さなリリィ』と呼ばれ、集落の子どもたちからは『ユーリィ』と呼ばれていた。

 ブレンたち一家三人は東方系人種イースタニアンの集落に身を寄せていた。そこで普段は畑を耕し、時には生活用品などの魔導技術マギオロジーの導入やその使用法の指導、修理などをしていた。どちらも以前は帝国の許可なくば不可能なことであったが、バウマン神父の長年の働きかけの実りがそこにはあった。その一助になれたことを、ブレンはこの五年でどんどん暮らしやすくなる集落の姿を見るたびに誇らしく思っていた。

 そんな景色の中でも、いまだにまぶたの裏で息づく光景がある。


『――――パパッ!』


 夕暮れどきの帰り道。小さな家の前に植えた、娘の名と同じ白い花畑。その間の細道を駆けてくる、幼い娘。

 歩けるようになってからというもの、全力疾走で迎えにやってくるようになったサユリはそこで必ずと言っていいほどにこけていた。後を追う母のしかりつける声も届かず、慌てて迎える父の腕も間に合わず、毎回べシャッと。まだ体がしっかりしていないのだ。

 しかし泣きもせず、自分でムクリと起き上がり、また駆け寄ってくる。


『おかえりっ!』


 膝をついて受け止めるその勢いと重みは、娘の健やかさの証。耐えられそうもない母へその突進を控えているのは、子どもながらに優しく聡明で――――というのは親バカだ。

 ブレンは工具を地面に置き、片手でヒョイッと首にしがみつく娘を抱きかかえた。


『ただいま、小さなリリィ』

『小さくないよ! もう大きいよ!』

『どうしたんだ? 昨日まではそんなこと言わなかったじゃないか』

『今日から大きいの!』


 美しい母の面影に浮かべる、子供らしい笑顔。頬に付いていた土を指で落としてやり、こそばゆそうな声を耳元で賑やかせていると、パタパタと迎えに来てくれたスズがクスクスと笑う。


『その子、背がすごく伸びてたんですよ』

『そうなのか?』


 ブレンが驚いてサユリを見れば『おっきいの!』と横いっぱいに短い手を広げる姿。苦笑していると、スズがいつの間にか地面に置いていた工具を持った。

 そして、娘のほおをくすぐっていた手が、慣れ親しんだ温もりに包まれる。


『おかえりなさい、あなた』


 柔らかく笑う妻と手をつなぎ、その日の出来事をはしゃいで語る小さな娘を抱えての、短い家路。

 とてもきれいな百合リリィの花に囲まれたその幸せな時間が、ブレンはこの先いつまでも、続くものだと思っていた。


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