10 バウマンの想い
いまだ続く、模擬戦の撤収作業。
スヴェンがそれを眺めていると、
重い体を動かして昼食を取りに行こうとするも、回復に努めるよう言われた。「こちらもまだ準備と手続きが残っている」らしく、長めの昼休憩。昼食は持ってきてくれるようだ。本当にありがたい。
だが、持ってきた人間はありがたくなかった。
「何かあったのか?」
パキッ、と二枚目のクラッカーを口に入れたところでバウマンに問われ、スヴェンはつい辺りへ目を泳がせた。
カラッとした風の吹く小高い丘の上。周囲が一望できるも、砂と岩と自らが破壊した跡ばかり。隠れられそうな場所はない。あるとすればマーシャルの
しかし、あれを――――己の過去の行いを、悪夢と断じていいものか。かみ砕いたクラッカーを飲みこんで、スヴェンはぼんやりと空を見上げた。
雲ひとつない青空。太陽が高く昇り、広く世界を見渡している。
「……お
「? 何か言ったか?」
と聞き返す声は少し大きかった。
その距離感に心のどこかで感謝しながらも、スヴェンはこれ幸いとごまかすことにした。
「別に。独り言です」
「そうか」
ただそれだけ。追及なし。黙りこみ、ジッとする気配。
残りの割れたクラッカーを口へ放る。
(……いつまでいる気だ?)
来てからずっとこの調子だ。先ほどの発言も、自分が早く帰ってほしくて並べ立てた謝罪のセリフに反応して以来。
今は彼と、しゃべりたくない。一人になりたい。
けれど、土足で踏み入ろうとしないその雰囲気にいつの間にか心を許し、あぐらをかきながら最近の
「新しい上司に、パワハラされまして」
「ふざけてるのか?」
「いや、わりと真面目に。『ナターシャと呼びなさい、フフフ』なーんて……どっちかというとセクハラ?」
「口に気をつけないと刺されるぞ。彼女の信者はかなり多い」
「呼んでも呼ばなくても、結局刺されそうだな……ちなみに教官は?」
「
「さすが妻子持ち」
ステンレスのカップを持ち、口に残るクラッカーのかすを冷めたココアで流しこむ。次に手を伸ばしたのは缶詰。ふたは開けられており、中にはまだ半分ほど残っているベイクドビーンズ。豆を煮るのにトマトソースを使ったタイプだ。
「……本当に、大丈夫なのか?」
バウマンの言わんとしていることを理解しながらも、スヴェンは気付かぬふりで軽口を叩いた。
「好き嫌いはないですよ。食えるだけありがたい。それに俺、このタイプ好きだし。もしかして教官はお嫌いでしたか?」
「……
「知ってます」
三枚目のクラッカーで缶詰の中をすくうと、赤いソースと豆がたっぷりと乗る。フォークはあるが使わない。
クラッカーで運んだ口に広がる、豆の食感とソースのさわやかな酸味。砂糖で甘味を引き出しているのも良し。
そんな
「今日はよく口がまわるな、珍しい」
ゴクンと飲みこみ、肩をすくめる。
「そうでもないです。ジンとはいつも――」
――こんな感じ、だったな。
「? いつもなんだ?」
「……いえ。そっちこそ気持ち悪いぐらい優しげなんですが、変なものでも食べました?」
後味に苦さが混じった気がして、スヴェンは口直しをしようと再びクラッカーで赤いソースごと豆をすくった。
皮肉を受け流してバウマンが言う。
「無理には聞かん。だが……」
慎重にクラッカーを口へ運び、そして――
「お前が話すまで、私はここを動かん」
――ボリッ、とベイクドビーンズごとクラッカーを折ってしまった。
「しばらくは二人っきりだな」
トマトソースがのどにからむ。むせた。せき込みながらも根性で口を閉じ、貴重な食事をココアといっしょに流しこむも、味は台無し。
クッ、と皮肉げな吐息を追い風が運んできて、スヴェンはぐいっと飲み干したカップを固い地面へ勢いよく叩きつけた。
――カァンッ!
鳴ったのは、口論開始のゴングだ。
「それは無理に聞いてるってことでしょ?」
「まるで私といっしょが嫌なようだな」
「当たり前でしょうが!」
「喜べ、私もだ」
「……っ!」
初手のワンツーパンチであえなく撃沈。ちくしょう。
スヴェンは缶詰を口へ傾け、残り少ないベイクドビーンズをあおるように流しこんだ。割れたクラッカーもポイッと口の中へ。柔らかい豆と硬いクラッカーの食感がケンカするも、無理やりかんで粉々に。ソースの仲裁ごとゴクンとのどへ押しこむ。
それからひと息ついて語るのは、先ほどやってきた堅苦しい男のおざなりな説明だった。
「F型の……
繰り返しであることを強調するも、バウマンが気を悪くした様子もなく言う。
「話を聞くにどうやら、とんでもない暴れ馬のようだな。だがそうじゃない。お前は今日、これに乗る前から様子がおかしかった。そして、今も」
ドキッとした。空っぽの缶詰を握る手に力が入る。
「……まるで、
けれどやはり、
――カコンッ。
――あばよ、
こっちから、捨ててやったのだ。
「無理に聞かないはずでは?」
「だから聞いていない。ただの独り言だ」
先ほどの意趣返しらしい。チッ、と軽く舌打ち。
「どこが独り言だよ、くそったれ…」
「聞こえているぞ。それとも、それも独り言だったか?」
「……放っといてください」
「断る」
にべもない。スヴェンはグッと大声を出しそうなところをこらえた。
「やけにしつこいですね、今日は」
「当たり前だ」
もう、さっさと食事を終わらせて退散しよう。そう思い、スヴェンは最後のクラッカーを手にした。
それを口へ運ぶ前に――
「これが、最後かもしれん」
――ピタ、と手が止まる。
「お前に何かをしてやれるのは、今日で最後になるかもしれん。たとえ何もできずとも……」
ふと
あんたも、ジンと同じだったくせに。
「……後悔だけは、したくない」
パキッ、と鳴らしたクラッカーをガリガリとかみ砕くも、味わう余裕はなかった。
「そんなふうに言うのも、いろいろと世話を焼くのも、俺が特別だからですか?」
「? どういう意味だ?」
「ジンから聞きました。配属先に関して、尽力していただいたようで」
「あぁ、そうか。ちょうど決まりかけていたところだったから、タイミングが悪かった。いずれにせよ、決定は
悔やむ声色。惜しむ響き。それが、スヴェンの中にたまっていた、ドロドロとした真っ黒い油のようないら立ちへ火をつけた。
ギリッ、と奥歯をかみ締める。
「余計なお世話なんだよ、あいつもあんたも……勝手に子守り気取ってんじゃねぇぞ…!」
「……スヴェン?」
「気安く呼ぶなっ!」
昔、そう呼ばれることは少なかった。いつも別の呼び名だった。
卑屈で、すがりつくように自分を呼ぶ者もいた。ボス、アニキと呼びながら、勝手に人を盾にするようなやつら。そいつらが連れてくる暴力にまた暴力で返せば、いつしかひとつの名が定着していた――――バケモノ、と。
それをいつの間にか忘れていたのは、ジンが隣にいるようになってからだ。
初めての存在だった。肩を並べ、同じ目線で自分の名を呼んでくれる人。自分を、同じ人間として扱ってくれる人。語り合える人。これが、友だと――――親友だと思った。
だが結局、ジンもあいつらといっしょだった。
「どいつもこいつも、何が特別だ! そんなもんで人が喜ぶとでも思ってんのか!?」
パラパラと握りつぶしたクラッカーが土に落ち、砂と混じる。
「もう聞きあきてんだよ
――俺はお前を、英雄なんかにしたくない。
「誰がなるかそんなもんっ! ふざけんなっ!」
押し寄せる感情の波。
口をつく想い。目には熱。
「俺はただっ…! ただ、普通に…!」
ポタリと、涙がこぼれた。
「……特別なんか、どうでもいいのに…!」
世界がどれだけくそったれでも、いっしょに笑ってくれる友だちがいてくれれば。
ただ、それだけで良かったのに。
「
泣きじゃくる子どものようにスヴェンは鼻をすすった。あぐらをかくズボンの上へ、ポタポタと涙がこぼれる。なんて情けない。
腕で無理やり目をこすっていると、バウマンが再び自分の名を口にする。
「ヘンドリックスと何かあったようだが……スヴェン、お前は何か勘違いを――」
「気安く呼ぶなっつってんだろうがっ!」
巨大な足に寄りかかる、白髪混じりの頭とローブ姿の大きな背中が半分だけ見えた。
「あんたもあいつと同じだろ!?
「……ヘンドリックスが、そう言ったのか?」
「そうさ、あんたはどうなんだ!? 答えてみろよ
本当は、否定してほしかった。たとえ情けない顔を見られても、バウマンにこちらを向いて「そんなことはない」と言ってほしかった。
それでも彼は、背中を向けたままこう告げる。
「そういう面も、確かにあるだろう」
「……っ!」
言葉を失う。心のどこかで、彼は否定してくれると信じていたのだ。
そんな自分にやっと気付き、スヴェンは乾いた笑いが出た。
「ハッ……ハハハッ! あぁそうかよ、そうだ、わかってるつもりだって言ってたもんなあんた! 奥さんもかわいそうだぜ、あんたみたいな人間に同情されて!」
ピクッ、と揺れる大きな肩。
「同情だと?」
「だってそうだろ!? 差別を肯定してそばにいる人間なんて、上から目線で施して気持ちよくなってるだけの偽善者さ! そういえばたまにいたよ、あんたみたいなやつ! 気持ち悪くて無視したら手のひら返したように野良犬扱いされたぜ、せっかく優しい人間様が手を差し伸べてやったのにって
そして、彼の妻と自分も。
「野良犬があわれでつい情が湧いたんだろ? しっぽを振ったらそりゃかわいいよなぁ? ハッ、それの何が特別だ! 何が妻だ、親友だ! 笑わせんな!」
――ガンッ!
と巨大な足を蹴ってもマーシャルはビクともせず、その揺れは彼の背中へは伝わらなかった。
それを見て、肩が静まる。グチャグチャな頭の中で見つけた言葉を口にする。
「……
たとえもし、そうだったとしても。
そばにいる人に、こう言われて――
「――仕方ないなんて言われて、納得できるわけないだろ…」
ポツリとつぶやき、スヴェンは悔し涙をこぼした。今度はそっと、ただ静かに。この世界の誰にも聞かれぬように。
泣き叫んだってもう、むなしいだけだ。
(なんか、疲れた…)
フラッとよろめき、マーシャルへと手をつく。それを支えに立つものの、足元が覚束ない。心も体力も空っぽ。泣きつかれて眠る子どものように、このまま
ためらっていると、突然バウマンが言った。
「一度だけ、妻に
「……は?」
聞き間違いかと思った。それか、立ったまま自分は寝ているのか。それぐらい急だった。
「あんた、俺の話を聞いてたか?」
「終わったようだから話している。まだ何かあるのか?」
その言い草に思わずいら立ったが、怒る元気すらもうない。
ドスッ、とスヴェンはその場に腰を下ろした。
「ないですよ、もう。しゃべりたきゃどうぞご勝手に」
「そうしよう。あれは、妻が娘を産んだ時だった」
「私は、本当は息子が欲しかった。それが顔に出てしまっていたらしい。だから、怒られた。娘の前でそんな顔するなと」
「……へー」
「つまり、そういうことだ」
適当な相づちに、短い結論。なるほど、そういうこと――――って納得できるか。
「もしかしてふざけてます?」
「ふざけてなどいない」
そこからのバウマンの語り口はどこか途切れがちで、しゃべるのが嫌そうにも聞こえた。
「私は息子が欲しかった」
「それ、さっき聞いて――」
「そしてお前は、娘と同じ歳だ」
「――はぁ、そっすか…」
「それに、面影も妻と似ている」
「へ? いや、あんな美人に……」
似ているわけがない、とも言い切れない。なぜなら写真で見た時、彼の妻が自分の母に似ていると思ったからだ。母親似の自分と面影を重ねても間違いではないのかも。
だが、それはつまり。
「……俺みたいな息子が欲しかった、と?」
「そこまでは言っとらん。調子に乗るな」
「す、すいません」
「だがまぁ……似たようなものか」
諦めたようなため息に、え、と驚く。
そして彼は、自分が気安く呼ぶなと言った名前を呼ばなかった。
「お前は特別だ、リー」
笑えるほど身勝手だが、突き放されたように感じる。
だけど違った。
「だがな、
彼はそう言ってくれた。
「ヘンドリックスに何を言われたのか知らんが、私が何かしてやりたいと思ったのはお前が特別だからじゃない。お前が私にとって、特別になったからだ」
特別なことと、特別になったということ。その
そしてバウマンが、いつもの重く響く声ではなく、遠い空へと消えてしまいそうな声で言う。
「娘とお前を重ねてしまった。息子のように思ってしまった。娘が……お前のように
スヴェンは何も言えなかった。なんと言えばいいのかわからなかった。ただ、その存在感のある大きな背中がかすんで見えて、不安に駆られた。このまま消えてしまうのではないかと。
思わず立ち上がって声をかけようとするも、バウマンは何事もなかったかのようにその大きな肩をすくめた。
「ヘンドリックスも、そうだったんじゃないか?」
「? ジンも……俺を息子だと?」
「なんでそうなるんだお前は」
鉄仮面が笑う。仮面にこもるような笑い声ではなく、まるで重苦しいその仮面を取ってしまったような笑い声だった。
そして、穏やかな声で続ける。
「あいつも単純に、お前が特別になっただけさ」
先ほども浮かんだジンの言葉が再び脳裏をよぎる。
しかし今度は、完全再現。
――俺はお前を、英雄なんかにしたくないんだ…!
(そうだ、あいつは……)
自分のことを特別だと突き放しておきながら、特別なものにさせたくないと言った。言ってくれた。
今ならわかる。自分にとって彼が
(だけど…)
――
スヴェンはまだ、ジンを許せそうにないと感じた。
ギュッと目を強くつむり、それをいったん忘れる。今はいい。今は、いつか許せる日が来るとわかっただけで十分だ。
今の問題は、この気恥ずかしさだ。
「まさか、こんなみっともない話をするはめになるとはな。あわれな老兵だと笑っても今なら許してやるぞ、リー」
「……スヴェンで…」
「ん?」
日陰から振り返る暗い横顔に、思わず顔を背ける。
そしてスヴェンは気まずげに頬をポリポリとかいた。
「スヴェンで、いいっすよ…」
そのつぶやきの後に訪れたのは――――沈黙。決して重苦しくなく、二人の間を鳥の親子の群れがのんきに並んで歩いているような、のどかでマヌケなもの。
せめて笑えよ、と顔を赤くしてスヴェンが思ったとたんに聞こえたのは「クックックッ…」と爆笑をこらえる引きつった声。何笑ってやがる、とさらにスヴェンが顔を赤くしたのは言うまでもない。
そして、父親の記憶がなく、もし生きていたらこんな感じだったのだろうかと夢想してしまった青年は、ごまかすように言った。
「あわれな老兵って、そんなに老けこむ歳でもないでしょ。奥さんだって若いんだから、また息子でもなんでも作れば……」
そこで、はた、と気付く。
娘と自分は同じ年齢。つまり十九歳。写真の中の彼の娘はまだ年端もいかぬ子どもで、おそらく五、六歳といったところ。つまり、彼は十年以上前の写真を飾っていることになり、奥さんもそれだけ歳を重ねているだろう。それでは出産は厳しいのかもしれない。
(けど、なんでそんな昔の写真を…?)
そんなものなのか、と首を傾げたスヴェンに対するバウマンの答えは、単純明快。
「子供を作るのは無理だな」
シンプルで、そして
「妻は死んでいる。娘も」
彼の背中が、またかすんで見えた。
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