4 夜空の下で①

 いつからこんなに、彼を好きになっていたのだろう。考えても考えても「いつの間にか」という答えしか浮かんでこない。

 きっと、よくある話だ。




「明日の朝、早いの?」


 金網のフェンス沿いを歩きながらフィーが切り出すも、反応なし。背中を向けたまま歩き続けるスヴェン。ここまでの道のりを支配していた沈黙がまたその場を重くする。

 基地の外周。明かりはほぼ届かず、辺りは真っ暗。見張り台も遠く、人の気配はない。見上げれば月は雲に隠れ、星の輝きが夜空に散りばめられている。冷たい夜風が身に染みる荒野だということを除けば、男女で歩くのに格好の状況シチュエーション

 だが実際は、恋人同士でもなんでもなく、無視されて感じるさみしさに夜風の冷たさが吹き荒ぶばかりだった。


「ねぇ、スヴェンってば」

「……」

「――――ねぇっ!」


 大声といっしょに足元の小石を蹴り飛ばすと、砂ぼこりが彼の長靴ブーツを汚した。


「? なんだ?」

「明日! 朝、早いの!?」

「……まぁ、そうだな。すまん」


 スヴェンが振り返り、申し訳なさそうに謝る。ちょっとイラッ。


「なんで謝るの?」

「だって、怒ってんだろ?」

「別に怒ってない」

「いや怒ってんじゃねぇか」


 声の大きさか、もしくはにじみ出るこのとげとげしさのことを言っているのだろう。


「無視されたから。それだけ」

「あ、悪い。考えごとしてた」

「考えごとって?」

「なんで怒ってんのかなーって」


 火に油を注ぎがちな男、スヴェン・リー。時にそう評されるこの男は見事にその評判どおり、フィーのくすぶるいら立ちを燃え上がらせた。


「だから、怒ってないって言ってるでしょっ!?」

「いやいや、どう見ても怒って――」



――ガシャンッ!



 冷たい手触りに混じるざらつき。掴んだ金網のびが少しだけ、パラパラと落ちる。


「百歩譲って……なんで、怒ってると思う?」


 頼りない星明かりが黒髪の青年の困り顔をわずかに照らし、フィーは顔をそらした。

 掴んだ金網の向こう側。真っ暗な荒野はさびしく、何も見えない。


「わかんねぇから考えてんだけど……なんか、すまん」

「わかんないなら謝んないでよ」

「いやこれは、わからないことに対してで――――悪い、言い訳がましいな」


 ものすごく困っている。雰囲気だけでそれがわかり、フィーの目に熱がこみ上げた。

 こんな自分が嫌だ。これが、最後かもしれないのに。

 それに――


「聞いてない…」

「? フィー?」

「今夜でお別れだなんて聞いてないっ!」


――まだ、心の整理なんてついていないのに。


「ジン以外の人間はどうでもいいの!? スヴェンっていっつもそうだよね、人の気も知らずにさ!」

「おいフィー、落ち着けよ。俺は別にそんなつもり――」


 バシッ、と肩に置かれた手を強く振り払えば、間近に迫っていたスヴェンの顔と正対する。

 驚いた顔。きっと自分のせいだろう。フィーは慌てて顔を背けて、こぼれる涙をローブの袖でぬぐった。


「私、ここで涼んでくから。先に帰っていいよ」

「いや、そういうわけには……」


 困り果てたような沈黙。つらい。涙がまたあふれてしまう。

 彼は、自分との別れをちっとも惜しんでいない。


「大丈夫だから……勝手に、どこにでも行っちゃえ…」


 ボソッとつぶやいたつもりだったが、聞こえたかも。けれどフィーはそれでもいい気がした。

 もう、どうでもいい。どうせこの気持ちは伝えないと決めていたのだから。

 育った環境が違う。きっと報われない。それにロリコンだ、こいつは。美人にも弱い。


(――――それに…)


 フィーは胸の痛みに耐えながら思った。

 きっと、自分は彼に――



――ガシャ…。



「――っ!?」


 意識を奪う音と振動。隣できしむ金網。

 スヴェンはゆっくりとフェンスへ背中を預けて、向き合わぬまま自分の隣に並んだ。


「急に決まったんだ、一昨日おととい

「……え?」

「配属先」


 真剣な横顔を照らす、雲間から顔をのぞかせた月明かり。


「謹慎が解けて真っ先に内示を受けたんだけど、なぜかその日のうちに辞令が突然下りたみたいで。そしたらすぐ次の日、一日中検査されてさ」

「検査って…」

「運動能力測定というか、健康診断というか……なんか妙に念入りで、ほぼ一日がかりでさ」

「一日がかり……スヴェン一人に? 軍人って配属先が変わるだけで、そんな入念にやるものなの?」

「さぁ? 上からの命令らしくて、上官たちも首を傾げてたけどな。しかも今日は精神鑑定までやらされて……実は結構くたくたなんだよな」


 ため息には疲れの色。どうやら本当らしい。「東方系人種イースタニアンだってことで危険視されたのかもな」と彼は吐き捨てるように言ったが、それにしても妙だ。それとも、そんなものなのだろうか。


(従軍経験がない私じゃわかんないや)


 なんとなくカリカリと金網のびを落としていたら、スヴェンがおそるおそる問いかけてきた。


「というわけなんですが、いかがでしょうか…?」


 下手したてに出た口調。誰だお前は。

 違和感に思わず目を向けると、スヴェンは明後日の方向を見ながら続けた。


「伝える暇がなかったということで、許していただけないでしょうか…?」


 似合わない、本当に。誰だこいつ。フィーは忍び笑いをもらした。ダラダラと冷や汗でも流していそうだ。

 笑い声をこらえて小刻みに肩を揺らしていると何を勘違いしたのか、スヴェンは泡を食ったようにしゃべり出した。


「その、内示の段階で言うのもあれだったし、決まってからは拘束されて、そしたら今日になって、ちゃんと伝えようとしたら先にジンが……いやジンは同じ部屋だったからなだけで、お前をないがしろにしたつもりは…!」


 しどろもどろ。少しかわいいと思ってしまった。


「もういいよ」

「うっ…! そ、それにだな、夜は遅かったし朝は早いから邪魔だろうと思って、でもいちおう探しては――」

「もういいってば」


 からっとした涙を指先ですくいながら笑顔を向ければ、スヴェンは一瞬だけ目を見開き、それからホッとしたような表情を見せた。そしてぐったりと、フェンスへもたれかかる。

 フィーもそれにならい、隣に並んでフェンスへ背中を預けた。


「入れ違いだったんだね。私も探してたから」


 そのまま、夜空を見上げる。新たに月を隠した雲は先ほどよりも分厚く、周りの星が一段とキラキラしていた。


「そうだったのかー……やけにどこにもいねーなーと…」

「うん。ごめんね、スヴェン」

「いや、しょうがねぇだろ。お互い誰かに言付けでもしとくべきだったし」

「そうじゃなくて、わがまま言っちゃったこと」

「わがまま?」


 恋人ではない。なる気もない。彼が一番大事にしている人を、自分は知っている。

 それでも同じように想ってほしいと望んでしまうのは、この恋心を捨てきれない自分のわがままだ。


「でもこれが最後だし、別にいいよね? おあいこってことで!」

「まぁ、そっちがそれでいいなら……?」


 笑って問いかければ、釈然としない面持おももちでスヴェンがうなずく。理解にはほど遠いようだ。何がおあいこなのか、自分でもいまいちわからないが。

 息が白くなるほどの寒い季節は過ぎたというのに、まるでその目に見えてしまうほどの大きなため息をついて夜空を見上げるスヴェン。その様子が面白くてからかおうとしたが、フィーはそれをやめて彼と同じように再び夜空を見上げた。

 星座をなぞるでもなく、ただ目に焼きつける。


「それで、なんだ?」

「え?」


 彼と過ごす最後の夜を。


「さっき、探してたって」

「あー、あれ? 特に用はなかったかな」

「いやねぇのかよ。それじゃなんで探して――」

「なくちゃダメ?」

「――まぁ、別にいいけど…」


 互いに目を見ず、同じ夜空を見上げての会話。小さな星たちが見守るおしゃべり。

 なぜだろうか。いつもより少しだけ、素直になれた。


「さみしいね、これが最後だなんて」

「おい、勝手に人を殺すな。生きて帰るに決まってんだろ」

「そういう意味じゃないよ、もう」

「じゃあどういう意味だよ」

「そのまんま。こんなきれいな星空……」


 フィーは空に向けて右手をかざした。あの星たちをかき集めて、そして持って帰ることができたらいいのに。


「もう二度と、スヴェンとは見れないんだなーって」


 かざした右手をそっと下ろす。もっと良く見えるように。持って帰るのは無理でも、心の奥のほうにまでこの景色が刻みこまれるように。

 そんな少しの感傷と幸福感にフィーが包まれていると、間を空けてスヴェンが尋ねた。


「お前の故郷って、ど田舎なんじゃなかったっけ?」

「……は?」

「前に言ってただろ? 街灯もなくて、道で馬やら羊やらが普通に練り歩いてるような場所だって」

「勝手に捏造ねつぞうするな!」


 ただ、街灯がどうのという話はした気がする。


「あれ、違ったか? チャックの話だったかな…?」

「――――を付けるな! 普通の田舎です!」

「なんだ、やっぱり田舎か」

「……もしかして、ケンカ売ってる?」


 雰囲気ムード台なし。コノオトコ、ドウシテクレヨウカ。

 もれる殺気に息をのみ、硬直したスヴェンは言葉少なに人差し指を立てた。


「違う、上。夜空、星」

「? だから何?」

「だから、あれだ。故郷じゃ見えねぇのかって話だ」


 言われるがままに夜空を見上げ、怒気の抜けた頭の中で目の前の景色と故郷のを比べる。


「……あんまり意識したことなかったけど、故郷うちのほうがよく見えるかなー」

「へぇ、そうなのか」

「ただ空を見上げる機会が多いってだけかもしれないけど……こう、なんて言えばいいのかな? 満点の星空っていうか、砂浜……みたいな?」

「砂浜?」

「そう! 空に敷き詰められてるみたいで、夜なのにすごく明るくて、手ですくえそうなんだけどサラサラこぼれちゃいそうな感じ!」

「よくわからんが、なんかすごそうだな」

「時期と天候にもよるけどね。いつでも見れるわけじゃないから」

「運次第か。まぁいいさ、楽しみがひとつ増えた」

「フフ、そうだね……?」


 いや、何がどうだね。フィーは上目遣いでスヴェンに尋ねた。


「……故郷うちに、来る気なの?」

「? だって、お前が二度と見れないなんて変なこと言うから。実家を継ぐんだろ? じゃあ今度はそっちでまたいっしょに見れば……え、ダメなのか?」

「あ、いや……」


 答えにきゅうする。思考が追いつかない。だって、あまりにも話が飛んで、当たり前のように進めるから。

 動揺してうつむく赤毛と、驚きで揺れる黒髪。見守る小さな星たちですら息をゴクリとのみそうになるその妙な沈黙を、そっぽを向いた黒髪の青年が破る。


「来てほしくねぇなら行かねぇよ」

「え?」

「お前が指定すればいいだろ。別に、どこだっていいさ」


 今度は場所の話。しかも若干すねている。それが、フィーの胸を甘く締めつけた。

 彼の中で、自分との再会が決まっていることがうれしい。少し子供っぽいその姿がかわいい。ますます好きになってしまう。

 これが、最後だというのに。


「ううん、来ていいよ」


 彼はきっと来ない。


「無理しなくてもいいぞ」

「無理なんかしてない、歓迎するよ。私んちに泊まれば?」

「それはまずくねぇか?」

「でも、周りに宿なんてないし」

「そいつは参った」


 彼はきっと、自分の手の届かないところに行ってしまう。


「両親と、妹がいるけど……かわいいからって手を出さないでね」

「フィーに似てんのか?」

「そっくり」

「なら大丈夫だろ」

「殴られたい?」

「殴ってから言うなよ」


 軽く突き出した拳を、パシ、となんなく受け止められる。楽しそうに小さく笑う彼。まだこの手の届く距離。

 こんなじゃれ合いも、できなくなってしまうのだろう。


「とりあえず、ジンに相談だな。なんなら野宿でもいいし」

「……ふーん、やっぱりジンもいっしょなんだー」

「? なんだよ?」

「いいえー、べっつにー?」

「おい、言いたいことがあるなら……フィー?」


 金網をたゆませ、勢いづけてフェンスから離れる。そのまま大きく一歩、二歩。

 ガシャリと小さな音がして、スヴェンがついて来るのがわかった。


「スヴェンはずーっとジンといっしょだもんね。これまでも、これからも」

「そう言われるほど昔なじみじゃねぇよ。それにこれからだって、部隊は別になったからな」

「でもきっと、ずっといっしょだよ二人は」


 ゆっくりと歩き出しながらフィーは言った。自分では届かない場所で、二人はいっしょ。そこにはあのアルフレッドもいるかもしれない。

 彼らは特別なのだ。普通の自分と違って。


「それにスヴェンってばジンがいなくちゃ、うまく周りの人とやってけないでしょ?」

「バカにするなよ。あいつがいなくたって、俺は……」

「心当たりが?」

「……多すぎるな」


 しょぼんとした空気。ついてくる歩調ものろのろ。落ちこむスヴェン。

 そんな彼はきっと、特別な人間の中でも特別なのだと思う。


「だよね。きっとジンがいなかったらスヴェンなんて、すみっこでひとりぼっちになるタイプだし」

「おい、言い方に気をつけろよ」

「みんなもスヴェンのこと遠巻きに見て。私もきっと、怖くて近寄れなかっただろうなぁ」

「だから言い方……そんなにか…?」

「フフフ、どうだろうねー? でも、あんまり今と変わってない気もするかなぁ」

「いやどっちだよ」

「どっちでも。みんなきっと今みたいに、スヴェンのこと認めてたと思うよ」


 誰もが彼にかれる。その強さと気高さに。

 その背中に守られる安堵あんどと、その背中を追いたくなる衝動に、心を掴まれる。


「それでアルフレッドは、やっぱり敵視してたと思う」


 それと同じようにきっと、誰も彼を無視できない。


「それは勘弁してほしいところだけどな」

「仕方ないよ。敵も味方もいっぱいだもん、スヴェンは。実は昔からそうだったんじゃない?」

「……どうかな。味方はあまり、いた記憶がない」

「気付いてなかっただけだよ、絶対。スヴェンってば鈍感だから」


 彼を支えたいと思う人はいたはずだ。それが今は、ジンだったり。

 そしてそれをうとましく思う人物も。それが、アルフレッド。

 彼の物語に、自分の配役はない。


「私も結局、好きになってたんだろうしなぁ…」


 故郷で彼の名を聞く日がいずれやってくるだろう。もしかしたら英雄だなんて呼ばれているかもしれない。もしくは、別の何か。いずれにせよ、自分には手の届かない存在になる。そんな確信がある。

 そんな人を好きになるなんてきっと、よくある話。村娘が勇者に恋しても、結ばれるべきはお姫様なのだ。そうしないと物語が締まらない。

 きっと、自分は彼に――――ふさわしくない。


(それに、邪魔者にだけはなりたくないし)


 それは予感だ。いつか彼のお荷物になってしまう予感。自分を少しでも思い出してくれるとき、彼には笑っていてほしい。だから伝えないと決めた。けれど、さすがに考えすぎかとも思う。

 内心でフィーが苦笑していると、後ろをついて来ていたはずのスヴェンはいつの間にか立ち止まっていた。


「? スヴェン、どうかしたの?」

「あ、いや、その……」


 広い空き地の中央。振り返って尋ねるも、少し距離が開いており表情をうかがえない。どうしたのだろう。

 首を傾げながら近付く。同時に、後ずさる足音。


「……なんで逃げるの? 別に怒ってないんだけど」

「それはもちろん、わかってる」

「じゃあ何!?」


 やはり怒っているのでは、という返しも聞こえずにズンズン迫ると、薄闇の向こうの仏頂面が見える位置まで簡単に近付く。体が硬直しているのか、表情までいつにも増して固い。

 だが、目はこれでもかと泳いでいた。


「私に何か、伝え忘れてることでもあるの?」


 白い目でにらむと、スヴェンがぎこちなく首を振る。


「ない、何もない。ただ、お前が…」

「私?」

「……さっき、妙なこと言わなかったか?」


 妙なのはお前だ、とは言わずに記憶をさかのぼってみる。

 そしてすぐに、頭の中のリプレイ映像は止まった。


「……あ」


 巻き戻して、もう一度再生。


『私も結局、好きになってたんだろうしなぁ…』


 かけ忘れた心の鍵。外し忘れた括弧かっこ

 いずれも、もう手遅れだった。

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