第6話 developer

  プロローグ


 季節は、一足早い秋の訪れを感じさせた。

夏の喧騒の後では、虫たちの涼やかな声さえ寂しさを後押しするかのように聞こえてくる。秋の気配が人恋しさをいっそう募らせているようである。

 亜里沙の赤いミニクーパーは、駅前から続く県道133号線に入ると東雲交差点を左に曲がった。そのまま雲場池通りをまっすぐ進んで行く。

このあたりまで来ると、家々は深い木々に包まれており、まさに軽井沢の別荘らしさを実感させるのだ。森の中に忽然と、ロータリーが現れた。

これが、六本辻ラウンドアバウトと呼ばれるものであり、信号のないロータリーに六本の道が繋がっている。南北を貫いているのが旧中山道であるらしい。


 亜里沙は、慎重に時計回りに車を進めると雲場池前に出た。

雲場池は、湧き水が流れ込んでいるため透明度が高く、また池の廻りを豊かな木々が包み、その枝葉を湖面に映す美しい池である。

まだ、紅葉の最盛期には少し早いせいか、訪れる人もまばらであった。

亜里沙は、別荘の名前を確認するためゆっくりと車を進めていく。

最初の和風ではあるが現代的な建物の門柱には、『藤井テキスタイル』のプレートが掛かっている。赤いアメリカンポストが印象的であり、何故か既視性を感じさせた。

生垣の間から、エレガントな女性が車から買い物袋を降ろしている様子が見えた。


二軒目の建物が、目的の『アウトバーン』の保養所であることが門柱に埋め込まれたプレートにより確認が出来た。レンガで出来た太い門柱は苔に覆われ、鉄製の扉には蔦の模様が施されている。エクステリアからも大きな会社の所有であることが、容易に想像出来た。


 亜里沙は、鉄製の扉を押すと難なく敷地に入ることが出来た。鍵は掛かっていなかった。車の轍が数本残されていた。亜里沙は、これらを避けるように建物に寄せて車を止めた。玄関先までは、50m程はありそうである。しかし、人がいる気配はまるで感じられない。

 夏の避暑地は、裕福な人間たちを街の喧騒から誘い出す魔法の力を持っているようだ。しかし、秋にはその魔力も失われて人々が去ると寂しい避暑地へと戻って行く。


 1 依頼主金子百合子


 昨日の昼前のことである。

横浜みなと探偵事務所に久しぶりの来客があった。

亜里沙が、一人で事務書類を書いていた時であり、応対することになった。

客は、古い木製の扉に手こずっている様子で、なかなか姿を見せない。

慣れた様子で、亜里沙が内側から押し上げながら開けてあげる。

「すみませ~ん。この扉とっくに定年過ぎてまして・・・」

「こちら、探偵事務所さんで間違いないですよね」

「はい、横浜みなと探偵事務所で間違いありません。狭いところですが、どうぞお入り下さい」

客は、落ち着かない様子で見まわしている。

60歳絡みの上品な御婦人であった。職業柄スーツとバックからクライアントを値踏みする癖が出る。

「今日はどういったご用件でしょうか?」亜里沙の定番の切り口である。

「娘を捜して欲しいのです・・・」前回に続き、またしても娘である。

婦人は、金子百合子と名乗り(株)アウトバーンの常務取締役の要職にあった。

名刺を受け取った亜里沙は、不思議に思った。ここは、正直小さな探偵事務所である。横浜には、実際探偵業を名乗る大きな会社がいくつも存在しているのだが・・。

「金子様、どちらかのご紹介か何かでしょうか?」

「実は、新横浜銀行の小田頭取からご紹介を受けまして・・・。小さいけれど、あらごめんなさい。優秀な探偵さんがお二人いらっしゃるとお聞きしたものですから」

小田頭取とは、第四話に登場した人物である。


「そうでございましたか。よく言われるんですよ、優秀だって。小田様にはよろしくお伝えください。ところで、ご用件をお伺い出来ますでしょうか?」      亜里沙は、慣れない言葉遣いに苦戦しながら優秀な探偵としての態度で応対した。

「夫は、アウトバーンの社長をしておりまして、私共には30歳になる紗英という一人娘がいるのですけれど、一週間程前に家を出たきり連絡が取れ無くなってしまいましてね。二、三日様子を見ていたのですが、流石に心配になってお付き合いのある小田さんにご相談を申し上げたという事でして・・・。夫には、まだ話してませんが」

母親である百合子は、疲れた様子を見せながらも話を続けた。

「実は、紗英も会社の企画主任でして、以前にも社長である父親の徹雄とは経営上の意見の相違から家を空けることが何回かあったのです。これがいくら会社が大きくなっても家族関係に左右される同族会社の悪い面かも知れませんね。お互いに譲ることが出来ないのです。

でも、今回ばかりは少し深刻な話でもありまして、心配をしているところなのです」

「なぜ、父親である社長に内密にしなければならないのですか? 娘を少しも心配していないということですか?」明らかに、亜里沙の口調が普段通りに戻っていた。


「行き先に心当たりがあるとか?」

「軽井沢に私どもの保養所がございまして、そこの鍵が家から無くなっていたものですから、何れ戻ってくると夫は高をくくっているのです。でも、三日前から電話も繋がらない状態になってしまっていて・・・。私が確認をしに行ければいいのですけれど、仕事がある身なのでおいそれと時間が取れないのです。こんなご依頼でもよろしいですか?」

「もちろん、よろしいですよ!」亜里沙は、二つ返事で依頼を受けることにした。

単なる親子喧嘩のようである。電話に出られない事情があるようではあるが・・。

 夕方、所長の野島耕介が調査から戻ると、今日の依頼内容を説明した。

「亜里沙、休暇を兼ねて三日ほど軽井沢に行ってこい。その代わり連絡を密にな!」

今は、それほど重要な案件を受けてはいなかった。比較的簡単そうに思える案件を亜里沙に任せることで、身の危険と紙一重の職務に着いている亜里沙に少しでも報いたいと思う野島の優しさであったのだろう。

「所長、私の留守中にデートでもしようと考えているんじゃないでしょうね?

帰ってきたら、ちゃんとチェック入れますからね!」

亜里沙が、照れ隠しに野島をからかった。

「それも良いかもな」野島も負けずに応酬をした。


 野島の許可を受け、亜里沙はその日の晩のうちに『大倉山』にある金子徹雄の住まいを訪ねた。『大倉山』は、東急東横線の沿線の駅の内でも閑静な住宅地として

ブランド力を持った住みやすい街である。

金子の家は、邸と言って良いほどの大きさであり周囲の家と比べても経済力の高さを

想像させた。都合の良いことに徹雄の帰宅前であった。

 亜里沙は、百合子から保養所のスペアキーと紗英の写真を受け取ると早めに磯子にある自分のマンションを目指した。三日ぶりの帰宅である。

明日に備え、三日分の服とモバイルPCを黒い革製のショルダーバッグに詰め込み支度が終わると、夕食を取るためになじみの店に向かった。


 2 保養所の捜索と『ミルクティ』


 翌日早朝に、亜里沙が運転するミニクーパーは横浜を離れ関越自動車道に乗ると軽井沢に向かった。藤岡JCTから上信越自動車道に入ると碓氷軽井沢ICで降り一般道を走ると9時前には、目的地に着くことが出来た。


 玄関にある重厚な木製の扉が、亜里沙を無機質に迎えてくれている。

扉の横にあるインタフォンを押す前に、周囲に気を配った。特に変わった様子は見受けられない。数本の轍だけが、何かを訴えているかのようである。

百合子から、予め紗英が免許証を持たないことを聞かされていたのだ。

亜里沙は、轍跡を消さないように注意深くミニクーパーを庭の片隅に止めた。

何回かインタフォンを押したが、中に人のいる様子は全く感じられない。

亜里沙は、鍵穴に差し込むとゆっくりとまわした。あまり良い気持ちはしない。

「カシャ」っと、乾いた解除の音が誰もいない庭先に響いた。


「紗英さん、いますか? お母さんに頼まれて来た者です。いたら返事を・・・。」

亜里沙は、我ながら間の抜けた声掛けだと思った。見るからに、自分が怪しそうである。リビングに入った。三十畳はありそうである。新しい設備ではないが、ふんだんに上質な木材が使われているのは、素人目にも明らかであった。

すぐに食堂に入った。時間軸を追うのは、食べ物に関する場所が的確なのである。

最初にキッチンの流しを見ると、朝食に使ったであろう食器類がそのまま無造作に並べられていた。表面が乾き固まっている状態から推測すると、二、三日は経っている可能性があった。次に冷蔵庫を開けてみたが、何日か分の食糧が残されていた。

三連のプリンが二つもあった。賞味期限は、今日までである。明らかに食べる予定に

入ってたものだろう。次にトイレを見たが別段変わった様子ではなかった。

二階の寝室に上がると、スーツケースが残されていて、クローゼットの中には女物の衣服が数枚掛かっていた。紗英が、滞在していたのは事実であろう。

両親の想像は間違ってはいなかったと言えた。                 しかし、紗英は何処にいるのだろうか。亜里沙には、判断がつきかねていた。                     急な用事が出来、二、三日保養所以外で外泊している可能性も捨て切れないのである。犯罪に巻き込まれたと考えるには、まだ早計ではないかとも思われた。平和に暮らしている一般の市民が、事故を除けば、犯罪に巻き込まれる可能性などそうあることではないのだから。


 亜里沙は、調査が一段落すると急に空腹を覚えた。腕の時計を見ると、正午の十分前であった。この時間まで、何も口にしてはいなかったことを思い出したのだ。

何故か、無意識に旧軽井沢にある『万平ホテル』を目指していた。           山小屋風のホテルの中庭に車を止めると、カフェテラスに入った。シーズンの過ぎた避暑地である。客の入りもまばらであった。数組の男女が物憂げに座っている。


亜里沙がオーダーした『フレンチトースト』と『ロイヤルミルクティ』が、若いウエイターによって運ばれて来ると、以前に一度だけ訪れた時のあいまいな記憶が突然蘇ってきた。

「このテーブルだったかしら? 窓越しに見える草木にも見覚えがあるもの・・・」

亜里沙は、自分に問かけるように呟いていた。

野島とではないことは、確かである。確か、別離の儀式のための最後の旅行であったはずである。抱かれた最後の夜の記憶もなかった。

亜里沙は、失った愛を未練で追いかける性格ではない。翌朝には、別々にホテルを去る約束をしていたに違いないのである。しかし、一人残された亜里沙は、ホテルを去る決心がつかず、いつまでもこのカフェテラスに座り続けていたのは事実であった。そんな別れの朝に頼んでいたのが、この『ロイヤルミルクティ』であったのだ。 味の記憶が抜け落ちている。

『ミルクティ』に溶け込んだ切なさを薄めるように、スプーンをかき回し続けていたことだけは、かすかな記憶として残っていた。再び、男の姿を見ることもなかった。   時間だけが亜里沙を静かに見守ってくれていたのだった。



 いまは、そんな出来事さえ懐かしい記憶として思える亜里沙がいた。

時間が心の痛みを忘れさせたのか、野島を愛する気持ちが過去を覆い隠したのか、

今更そんな理由を突き詰めても意味のない事だと亜里沙は思ったのであった。

亜里沙は、心に整理をつけると午後一時過ぎには、保養所に戻っていた。

何者かによる拉致だとしても、痕跡が必ず残されているはずである。その痕跡の一つが轍であることは間違いがなかった。亜里沙は、カメラに収めた。        再び二階の寝室に入ると、ベッドの周辺を隈なく調べて見ることにした。

 皴になった白いシーツをまさぐっていると、手にあたるものがあった。白いスマートフォンである。電源は入っていない。充電切れのようである。たぶん、紗英の物に

間違いはないだろう。母親の百合子の電話に応答がなかったことも、説明が付く。

スマートフォンを充電し、通話履歴また、メールの着送信を調べて見ることが紗英失踪の手がかりになると、亜里沙は考えた。                         


ここまでの経緯を野島に報告し、改めて指示を仰ぐことにした。

「亜里沙、状況から紗英さんは拉致された可能性が高いかも知れないな。

雲場池からほど近い『ホテル・サイプレス』に予約を入れておくから、明日からの調査に備えてゆっくりと、身体を休めておきなさい。これは、業務命令だぞ!」

野島の優しい指示であった。

「耕介、今日は随分と優しいじゃない?」亜里沙には、まだ『ミルクティ』の記憶が薄くではあるが残っていたのだ。

「仕事中だぞ。耕介と呼ぶなよ!」

「了解です。所長さま!」


 3 『ホテル・サイプレス』


 亜里沙は一通りの調査を済ますと、早めに保養所から退去することにした。

ホテルのチェック・イン前に、地元のスーパーに寄り食材を買い求めるつもりである。ここは、別荘族には有名な店であるが、今の季節には賑わいも失われているはずである。亜里沙は、広々と感じられる駐車場に難なく車を止めることが出来た。

 『ホテル・サイプレス』は、六本辻近くの森の中にひっそりと佇む小さなホテルである。亜里沙は、チェックインカウンターで予約済みであることを告げた。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」若い女性のフロント係は、丁寧に聞く。

「ワタナベ アリサです」「えっ?ないですって?」

「ノジマ アリサ様で、伺っておりますが?」

「そう、そう 実は、ノジマなんです。旧姓ワタナベって、いう事でして・・・。」

 亜里沙は、まんざらでもない様子で、耕介のイタズラを楽しんでいた。

部屋に入ると、すぐにシャワーを浴び早めの夕食を取ることにした。その間に、

紗英の物である可能性の高いスマートフォンの充電を終わらせておくつもりである。

幸い、亜里沙と同じ機種であったため、充電には何の問題もなかった。

 久しぶりの開放感である。これが旅と言えるものなら、一人での旅も貴重な時間の使い方の一つであるのは間違いない事と言えた。

環境が変わるだけで、淀んだ日常からに非日常へと心がトリップし、全身の細胞が生まれ変わる気がするのである。

亜里沙は、スーパーで買ってきた食材をテーブルの上に並べた。大した量ではない。

チーズと生ハムを肴に、白ワインの組み合わせである。

明るさを残していた窓から見える景色も、すでに黒い帳に包まれている。

質素なディナーが終りかけた頃、スマートフォンの充電も終わったようである。


 電源を入れると、まさしく紗英の物であった。

母親の百合子からの着信が十数回、また名前のない同じ番号が六回。非通知が三回である。

最後の着信が、三日前の午前六時三十八分であった。これ以降に、バッテリーが切れたのであろう。

亜里沙は、野島がまだ事務所にいる自信はなかったが、連絡を入れてみた。

時間は、午後十時を十分程過ぎている。

野島が、電話に出た。

「所長、スマホは、やっぱり紗英さんの物でした。気になる番号があるので、至急調べてもらえませんか?」

「亜里沙、ご苦労さん。しかし、もう時間も遅い事だし仕事は明日にしてゆっくり休んだらどうだ?」

「はい分かりました、そうします。所長も早く部屋に帰って休んで下さいね。亜里沙がいなくて寂しいでしょうけど・・・」

「亜里沙、気遣いありがとう。でも、今夜はゆっくり寝れそうだよ」

「所長、そんなこと言うと、ずう~と、こっちにいますからね」

 

 早めにベッドに横たわった亜里沙であったが、眠気は訪れてこなかった。

無理に眠ろうとするほど、冴えてくるのだ。逡巡は、空が白み始めるまで続いた。

なぜ、今回紗英が父親を避けるように、家出同然に軽井沢に来ていたのか、その原因が明らかにされていない。両親は、最初今までのように紗英が自分の意思で戻ると簡単に考えていたらしい。しかし、現実は、別の方向に進んでしまった。

両親に反発して、紗英が自ら自分の意思で失踪したのでないとすれば、思いもよらぬ事件に巻き込まれた可能性も捨てきれない。と、すれば、紗英の命にかかわってくる問題でもある。今回も、野島の存在なしでは解決を見られない難解な依頼であった。


 4 電話番号の謎


 亜里沙は、早朝に軽井沢を離れた。

眠らずとも、この環境の中に身を置いただけで細胞が活性化したことを実感していた。進行する左手に、オレンジ色に輝く太陽が力強く登って来ている。

九時前には、事務所に戻ることが出来た。

野島は、すでに出社し自分でコーヒーを入れているところであった。

「ただいま~!」亜里沙は、自分の家に帰って来た気分である。妙に落ち着くのだ。

「何だ、亜里沙、もう戻って来たのか?」野島は、少し驚いた様子である。

亜里沙は、野島を見た瞬間思った。「私はこの人を疑いもなく愛している」と、


「着信履歴から、一刻も早くその人物を特定したかったの。これが紗英さんの・・」

亜里沙は、照れ隠しに話をそらしたのだ。


* 電話番号から、相手の氏名、住所を探りあてるのは、探偵業の業務の一つと言える。探偵業で禁止されている業務はいくつかあるのだが、電話番号による調査はこれに該当していないのである。特に依頼の多い浮気調査などには、電話番号を大いに活用していると言えた。具体的な調査方法としては、SNSなどを使った検索方法が一般的であるが、ヒット率は低い。

一番手っ取り早いのは、間違い電話を装って相手に直接掛ける方法であるが、リスクが高く事務所の電話を使うべきではない。最も多くの探偵業が使っている調査方法があるのだが、残念ながら業務違反に当たる可能性があるために拙著に乗せることは出来ないのである。ご容赦下さい。

 

 野島は、亜里沙に代わって電話番号による送信者の特定作業に入ると、約一時間ほどで氏名と住所を割り出すことが出来た。

名前は、柳沢真司、住所は横浜市港南区であった。

亜里沙は、早速依頼者で紗英の母親である百合子に連絡を入れ、途中経過を説明する意味で、(株)アウトバーンの本社で会う約束を取った。

本社は、ランドマークタワー20階のフロアーの約半分、400坪を占める規模である。約束の午後一時に訪れると、常務室に通された。


「わざわざ軽井沢まで行っていただいて、申し訳ありませんでした。で、どうでしたか?」

百合子は、単刀直入に聞いてきた。

「やはり残念ながら、紗英さんはいらっしゃいませんでした。でも、手がかりはありました。百合子さん、その前に少し親子関係についてお話してもらえませんか?」

「そこまでお話する意味が分かりませんが・・・」百合子は、戸惑い気味である。

「では、柳沢真司という人物に心あたりはありませんか?」

「やなぎさわしんじ?」明らかな反応があった。

「確か、紗英の男友達の一人だと思います。一度大倉山の方に遊びに来られましたから何となくは覚えていますわ」

「着信履歴から分かった事ですが、紗英さんは失踪直前に柳沢さんから電話を受けています。当事務所は、柳沢さんが紗英さん失踪の重要な鍵を握っているのではと推測しているのです。われわれは、この線から探ってみようと思っています」

「あなた達は、刑事さんみたいな仕事までしてくれるのですね。分かりました。

費用はいくらかかっても構いませんので、よろしくお願いします」

結局、百合子からは具体的な話は何も聞けず仕舞いであった。

自然の中に一人残される寂しさよりも、人間世界の心の闇は深く寂寥感が増してくる。自然は、意思を持たない分、悪意もないと言えた。人は、その自然の持つ素直さの中に美しさを感じ、また癒されるのかも知れないのだ。


 亜里沙は事務所に戻ると、柳沢の身辺調査を始めた。

柳沢真司は、紗英と同年齢の三十歳であった。関内駅前にある不動産会社(株)横浜リストの現在営業主任であるらしい。(株)アウトバーンと同じ業界であるのは、偶然なのであろうか。早速、柳沢の携帯に連絡を入れることにした。

営業職という事で、電話に出る可能性は高かった。はたして、柳沢は出た。


「突然の電話で申し訳ございません。わたくし、横浜みなと探偵事務所の渡邊と申しますが、金子紗英さんのことで二、三お話をお伺いしたいと思いまして・・・。」

亜里沙は、相手に警戒心を抱かせないよう丁寧に話した。

「探偵事務所さんですか・・・? 紗英に、何かあったのですか?」

「私どもは、紗英さんのお母様からご依頼を受けまして、紗英さんの居所を捜している最中でして・・・、お仕事が終わり次第、少しお話を聞かせて頂けないでしょうか?」

「分かりました。紗英を見つけ出すためなら何でも協力しますから」

柳沢からの電話は、紗英を心配した所以での行動であったらしい。


 柳沢の仕事が終わる午後七時ごろに、関内にある『馬車道十番館』一階での待ち合わせとなった。亜里沙は、朝から何も食べていないことを思い出すと、流石に空腹を覚えた。約束の時間に合わせて早めの夕食を取ることにした。

「亜里沙、俺も付き合うよ」と、野島が唐突に言う。

「所長、もしかして昨日寂しかったんじゃないんですか?」

「いや、ちょっと、先に情報を仕入れておこうと思ってさ」

「じゃ、ママの所ね」

二人は、久しぶりに中華街にある『你好』に出かけることにした。


「ママ、元気にしてた?」

「野島さんたちも元気そうで何よりよ」中国訛りで、笑顔で迎えてくれる。

狭いテーブルの上に数品の料理が並び、他愛のない会話の中、夕食は進んだ。

「ママ、アウトバーンっていう会社知ってる?新しいクライアントなんだけど・・」

亜里沙が、さりげない会話を挟んだ。

「良くは知らないけど、あそこが開発したエリアで問題が起きてるみたいだね。裁判沙汰になってるという話もあるし・・・」

「そうなんだ~! 開発って言うと、デベロッパーだよね」

ママから、情報通らしい思いがけない話が聞けたのである。ここは感謝である。

「所長、わたし行ってきます。お酒飲みながら食事楽しんで下さい」

「分かった。ご苦労様」野島は、亜里沙の手前遠慮していたのであった。


 亜里沙は、約束の時間より早めに着いたが、柳沢はすでに待っていた。

実直そうな印象の青年であった。

「柳沢さんですね。横浜みなと探偵事務所の渡邊です。お忙しいのにごめんなさい」

「いえ、僕の方こそ正直援軍が現れて喜んでいるんです」

亜里沙は、挨拶もそこそこにすぐ本題に入った。

「あなたと、紗英さんの関係を教えて・・・」

「紗英と僕は、正直言って恋人同士なんです。紗英のご両親には、まだ認めてもらっていませんけど・・・。どこで、僕の携帯番号を?」

亜里沙は、軽井沢での調査の際、偶然紗英のベッドの上で見つけた携帯の履歴からであることを説明した。

「真司さん、紗英さんとそれほど親密な関係でありながら、着信履歴に番号だけであなたの名前がなかったのは、何故なんですか?」

亜里沙の素朴な疑問であった。

「それは、最近非通知の着信が多く、携帯を代えたばかりでして、紗英も僕の名前を登録し忘れていたのかも知れません」

「分かったわ。あなたが電話を掛けた時、紗英さんは出られたのですか?」

「はい、二回は出てくれたのですが、それからの電話には出てくれませんでした」

「あなたは、紗英さんの滞在先は知っていたのですよね?」

「もちろん軽井沢に一週間ほど行くことは聞いていましたし、それも父親との経営方針を巡って対立しているので冷却期間を持つためだという事でした。しかし、三日を過ぎた頃から紗英にも非通知の電話がかかってくるようになり、少し怖いと訴えていたのです」

「非通知の電話に思い当たることがあるのね」

「誰から、とは分からないのですが、思い当たるような事があったのは事実です」

真司は、援軍を得たことで心強く感じたようである。ゆっくりと、話始めた。


「僕と紗英は、五年ほど前に『不動産流通推進センター』の講習会で出会ったのです。お互いが宅建業者なので、『宅地建物取引士』としての国家資格を取るためでした。紗英は、デベロッパー(株)アウトバーンの企画主任として、僕は、不動産販売業(株)横浜リストの営業主任としての立場での参加でしたが、我が社が、アウトバーンの企画商品であるマンションの販売を委託されていました関係上、二人が親しくなるのに時間はそう掛からなかったのです。

宅建士の合格率はご存じのように、15%前後なので二人同時に合格した時には大いに喜び合ったものでした」

柳沢の話には淀みがなく、誠実な人間性を感じさせた。


「昨年の十二月も押し迫ったころのことです。我が社が五年前に販売したマンションの居住者達から、集団訴訟が起こされたのです。建物に構造計算上の瑕疵が見つかり、それを巡ってのことでした。

訴訟対象は、販売を請け負った我が社、そして建設を請け負った(株)奥田組です。

両社は、事実無根であるとし、逆に提訴をすることになったのです。企画を担当したアウトバーンは除外されていましたが、紗英と僕は、宅建士の立場からこれが事実であれば絶対あってはならない事であると強く思ったのでした。

例え、アウトバーンの企画に非はなくとも、道義上の責任はあるはずだと紗英は考え、社長である父親に真相の究明を求めたのです。しかし、全く相手にはされず、

かえって父娘の関係に深い溝をつくる原因となってしまったようです。

でも、僕たちは諦めきれず二人で真相究明に乗り出したところでした。紗英は絶対何者かに拉致されたんです。僕からもお願いします。紗英を絶対助け出してやってください。お願いします‼」

冷静であったはずの真司が、最後には悔しさを滲ませながら懇願していた。

「大丈夫よ。安心して! うちは絶対失敗しない探偵事務所なんだから!」


 明らかに拉致の可能性がありながら、『捜索願い』が出されていない理由は何なのだろうか? ここに、警察の関与を望まない何かが隠されているはずである。

亜里沙は、これから事務所に戻り野島とこれからの調査方法を話し合うことになる。事件は始まったばかりである。今夜も解放されるのは深夜になりそうである。

しかし、考えて見れば職住が一緒というのも利便性が高いのだ。

テーブルの上には、手付かずの冷えた『ミルクティ』が残されていた・・・。


 5 建築業界の闇


 翌日の朝、野島が加賀町警察一課古畑巡査部長に連絡を取り、金子紗英の『捜索願い』の提出の有無を確認依頼した。古畑から十分後に連絡が入った。

「部長、昨夜午後八時に『一般家出人』として、港北署が受理していますね。依頼人は、母親の金子百合子となっておりますが・・・」

「古畑くん、ありがとう。恩に着るよ」古畑は、野島の元部下であった。


 『特異行方不明者』扱いでないことは、両親とも紗英の身の安全をある程度認識しているのではないかと、野島は考えた。しかし、自分の意思での失踪ではない状況から、強制的な拉致であることに間違いはなかった。

「亜里沙、母親の気持ちはいま揺れているはずだ。真相を聞き出すには強く迫るしかないぞ」

「了解です!」                              亜里沙は、百合子との面会の約束を取らず直接押し掛けることにした。

本社のあるランドマークタワー20階に着くと、直接常務室に向い面会を求めた。

亜里沙の強い希望に、百合子は素直に面会に応じることになった。

「紗英さんは、間違いなく何者かによって拉致されています。これは、柳沢さんの話を伺って理解することが出来ました。これは、刑事事件と判断されかねない案件ですよ。子供が一番信頼すべき親が、なぜ『一般家出人』などと偽りの届け出をしたのかその理由をお聞きしたいのですが?」亜里沙は、納得がいかなかったのである。


「あなた達は、なぜ刑事みたいに人の会社に踏み込んでくるのですか? これ以上は関わらなくても結構ですから、お引き取り下さい」

「百合子さん、いえお母さん。私は柳沢さんから伺って今回の問題は、集団訴訟問題が裏に隠されていると考えているのです。もし、反社会勢力が紗英さんの口封じを目的に拉致したのが事実だとすれば、誰も紗英さんの命の保証は出来ませんよ。

私達みなと探偵事務所は、もちろん対価としてお金を頂くためにご依頼を受けているのは事実です。でも、無慈悲に奪われる人の命を見過ごすことは出来ないのです。

これが私たちの基本的なポリシーであると理解してください」


「分かりました。あなたの言う通りかも知れませんね。私は紗英の母親でありながらも会社の存続が一番の目的になってしまっていた。母親としては失格ですね」

百合子も、子供の無事を願う母としての顔を見せると続けた。

「紗英は、横浜の誰にもかえり見られない価値のないとされた土地を開発することで、豊かな街作りに貢献することをライフワークにしていたのです。

決して一部のお金持ちのためではなかった。ごく普通の人たちに手の届く、そして

文化的な暮らしが送れる環境作りでした。 宅建士の資格を取ったのも、公正また誠実に人々の役に立ちたいという考え方から 来たのでしょうね。

今回の瑕疵の問題は、もちろん当社の企画サイドには責任がないことははっきりしているのです。でも、建設を依頼した立場ではあるので、厳密に言えば監督責任はあるのかも知れません。紗英はそのことを父親に強く訴えていたのでした。


 瑕疵の原因は、反論のしようもなく建設業者サイドにあるのは明らかなんです。

業者とは、横浜に本社がある中堅ゼネコンの(株)奥田組と、そして実際の工事を請け負った下請けの(株)横浜エステートです。元受け業者が仕事を丸投げするのは、

もちろん利益確保のためなんです。限度額を超えて値切られた下請け業者が何を考えるかなんて 、素人でもお分かりになるでしょ。紗英は、この事実を表に出し、膿を出そうとしていたんですよ」


「当然、父親である社長もこの構図は知っていた?・・」亜里沙は念を押した。

「当たり前ですよ。建設業界の実態なんですから。でも、私たちが出した構造計算 書を偽るなんてことは、いままで一度もなかったんです。 それが問題なんです」

「紗英さんは、明らかに反社によって拉致されたんですよ。なぜ、警察に『特異

行方不明者』として届け出ないんですか? 本気で探そうとする意志が見えません」

亜里沙は、まだ納得がいかなかった。

「・・・それは、あの人が諦めているからでしょうね・・・。」

「何ですって? 諦めているって、娘の命をですか?」

「・・・・・・・・。」

「冗談じゃない! ふつう自分の命を投げ打ってまで、子供の命を救おうとするのが親なんじゃないですか? これでは、紗英さんが、家出を繰り返したのも当然ですよね」

「亜里沙さん、私はここまで事実を正直に話しました。どうか紗英を助けてあげてください。母親としてお願いします」 百合子は涙を流しながら頭を垂れた。


 6 野島の登場


 午後から、野島と亜里沙は、黒のアルファロメオに乗り横浜市南区にある奥田組の本社に向かった。担当者は前もって、百合子から聞いていた。

建設設計本部長飯塚構三である。亜里沙は、車での待機となった。

 野島は、二階の受付でアウトバーンの使いの者であることを告げ、飯塚部長との面会を願い出たところ、難なく三階の応接室に通された。

間もなく現れた男は、現場あがりを思わせる五十がらみの体格の良い人物である。

「アウトバーンさんからは、何も伺っておりませんがどういった御用件ですか?」

野島は、名刺を出しながら言った。

「あなたは、企画部の金子紗英さんをご存じですよね?」

「もちろん、良く存じています。当社にとっても大事なクライアントですからね。

それが、何か?」

「単刀直入にお聞きしましょう。紗英さんと最後に会われたのはいつ頃ですか?」

「はっきりとは、覚えてはいませんが三か月ほど前のことでしょうか」

「嘘を言っては困ります。十日ほど前に、面会しているはずですよ。受付の面会名簿に記録が残っている」

「探偵さん、あなたは、何が言いたいのですか?」飯塚の声に凄みが乗った。

これを意に返さず、野島は続けた。相手に怒りを持たせるのも、取り調べ手法の一つであった。

「あなたが請け負い建設をしたマンションの居住者から、建物に重大な瑕疵があったと、奥田組に対して訴訟が起こされている。これは紛れもない事実です。

道義的責任を感じた紗英さんは、工事の内容に疑問を持ち、あなたに説明を求めたんだ。違いますか?」

「何を証拠に言うんだ。ばかばかしいにも程がある。うちは元受けであって実際の工事は、エステートがやっているんだ。うちこそ、被害者だと言ってもいいんだ。

これ以上は、裁判中でもあることだし何も話すことはない。帰ってくれ!」

「飯塚部長、何かを知っているなら紗英さんを帰してくれるように頼んでくれないか? あなたも企業人の端くれですよね。あなたの生業の目的は人の命を奪うことではないはずだ。今の段階では、まだ警察も動いていない。あなたにも、大事な家族がいると思います。あなたが刑事事件で立件でもされたら、ご家族はどんな思いでこれからの人生を生きていかなければならないか、想像してみてください。あなたには、家族を守らなければならない義務があるんです。私の言いたいことは、これだけです」野島はきっぱりと言い切ると、応接室を出た。


 車の中で待機中の亜里沙のイヤフォンから、飯塚の慌てた様子の声が聞こえている。野島が応接室のテーブルに仕掛けた盗聴器からであった。厳密に言えば違法行為ではあるが、状況によっては使用することもある。せいぜいが注意処分であろう。

「北野さん、まずい事になりましたよ。いま探偵が嗅ぎつけて来ましてね。ええ、

そうなんです。紗英が説得に応じないからって、すぐ処分なんてしたら先生の身が

危ないことになるかも知れません。このことは、先方によく言っておいて下さいよ。

所詮おんなですよ、少々騒いだからと言っても、世の中まで動かせるわけがない。

父親にも強く言っておりますので・・・ はい、よろしくお願いします」

最後は、飯塚のすがるような声で、電話が切れていた。


 野島が、タイミングよく車に戻って来た。

「所長、バッチリと録音出来ましたよ」亜里沙の声が弾んでいた。

亜里沙は、野島が再生を聞いている間に百合子に連絡を入れると、聞き出した。

「お母さん、いまのところ紗英さんが無事であることが確認出来ました。居所までは、まだ分かりませんが・・・。奥田組に関係のある北野という名前に聞き覚えは

ありませんか?」

「紗英は、無事なのですね。ありがとうございます。北野さんですか?・・・確か、

奥田の社外取締役にいたような、気がするのですけれど・・・」

「分かりました、調べて見ます。お母さん、またご連絡をしますので・・・。」

亜里沙は、奥田組のホームページにアクセスすると、役員に該当者がいないかを調べた。

「所長、該当者が一人います。北野美代子です。女性なんですね・・・」

「この美代子が、当該者でない可能性も残されているが、住所を調べてくれ」

名前から住所を探るのは、ネット社会においてはそれほど難しい事ではなかった。


 7 市議会議長北野重人の存在


 北野美代子の家は、青葉台駅前から続く桜台通りの中程にある桜台公園脇にあった。表札は、北野重人である。

重厚な木の門構えに続く石塀の上に、横浜市市議会議長北野重人のポスターが誇らしげに数枚張られていた。野島は、少し離れた場所での待機となった。

「奥田の者ですが、会社からの用事で参りました」と、亜里沙は伝えた。嘘も方便である。玄関先での応対であった。

「実は、株主の方から次期総会に向けて、社外取締役様の勤務実態を調べて欲しいとのご意見が上がりまして、お聞きして回っているところでして・・・」

亜里沙は、警戒を抱かれないように、丁寧に説明をした。

「お恥ずかしい話ですが、役員報酬を頂きながら少しもお役に立てていませんのよ。夫には、来年度からは役員扱いを外して欲しいと頼んでいるところなのです」

美代子は、夫に似ず良識のある人物のようである。

「では、名義貸しといったところでしょうか?」

「そうかも知れませんね・・・」亜里沙の問いに、美代子は素直に認めた。


 秋の夕暮れは早い。陽が落ちると、急に寒さを感じるようになる。

野島は、これからの展開を考えながら車のヒーターを入れた。

港北インターまで来た時、バックミラーに映る車の不自然さに気が付いた。

ロメオの速度を落としても、追い抜いていかないのである。尾行であるのは、明らかであった。野島にとって、このような状況は逆にチャンスであると言えた。

相手の車を振り切らない程度にジュリエッタのスピードを上げた。排気音が心地よく腹に響いた。案の定、必死にくらい付いてくる。

三ッ沢を抜けると、駅前から首都高速に乗り換えた。黒いベンツがカーブの度に見え隠れしている。野島は少しスピードを緩めた。ミラーでベンツを確認すると、石川町で高速を降り一般道へ出た。勝負どころの路地を見つけると、急ハンドルを切った。狭い行き止まりの路地にロメオを入れると、野島だけが車を離れた。

追って来たベンツが、急ブレーキをかける音がビルの谷間に甲高く響いた。

車を降りた黒い影は、二つであった。

「随分と手間を掛けさせてくれるじゃないか?」小さい影の男が言う。

亜里沙に気が付くと、無理やり引き摺り下ろそうとドアを開け腕を掴んだ。

「何するんですか?」亜里沙は抵抗した。

「男は何処に行ったんだ?」男の大きい影が周りを警戒しながら吠えた。

「最初から私一人です」亜里沙が気丈に返答をした。

「嘘を言え! このアマ!」男の小さい影が、タイトスカートから美しく伸びた亜里沙の左足首を強く掴んだ。

「乱暴しないで!」                              亜里沙の叫び声と同時に、隠れていた野島が肩の高さに構えたマグライト6Dを二人の眼に照射した。目くらましを受けた二人がやみくもに、野島に殴り掛かって来る。しかし、一瞬早くこん棒と化したマグが唸りを上げて二人の肩に振り下ろされていた。まともに衝撃を受けた二人の影は、立ち上がることもなく冷たい地面に崩れ落ちている。マグライトをこのように使うことは、過剰防衛にあたる可能性があった。野島は、彼らを路地裏に引き込むことで、通行人からの目撃を避ける計算でもあったのだ。


「誰に頼まれたか、言うんだな。それとも、二度と歩けない方が良いのか、どちらか選ぶんだ」こういう時の野島は、普段優しいだけに鬼気を帯びるとすごみが出る。

現役時代に、組織犯罪を扱ってきた経験が生きていると言えた。

二人の財布から名刺を抜き取ると、見覚えのある組の烙印が押されてあった。

「お前たち、黒田の者だな。誰に頼まれたか言えば帰してやってもいいよ。お前たちの帰りを待っている家族もいることだろうし」野島は、二人の情に寄り添った。

「分かった。詳しくは知らないが、どうせ議長の北野からだろうよ。若頭から、少し

あんた達を脅かせば大人しく手を引くだろうと言われたのさ。俺たちはいつも一方的に命令されるだけなんでね。素人じゃないんだろ? あんた強すぎるぜ!」

「あいにくだったな。もう一つ聞くが、アウトバーンの紗英さんは何処にいる?」野島は、核心に迫った。

「まだ、軽井沢にいるはずだよ。若頭が行くまで隔離しておけという命令だから、

危害は加えてないはずだ。しかし、分からないな。見張ってるのは、若い男だしな」


 野島は、監禁場所を聞き出した後、加賀町署の古畑巡査部長に連絡を入れこれまでの経過を詳しく話した。署から数名の警官が到着すると、亜里沙の撮った轍の写真も証拠品として渡した。 野島は被害届を出さないが、事情聴取の後は警察の判断にゆだねることにした。そして、治療が必要であれば、処置してやって欲しいと付け加えた。みなと探偵事務所は、犯罪者を裁く権利など持ってはいない。せいぜい失踪者の発見が定款なのであるから・・・


 8 紗英の発見


「亜里沙、行くぞ!」

二人は、深夜の高速道路を軽井沢に向かって疾走した。十二時前には着けそうである。国道18号に出ると、中軽井沢を右折し通称ロマンティック街道を浅間山に向かって遡った。北軽井沢に着くと、右折し照月湖まではゆっくりと車を進めた。

すれ違う車もなく、夜が静まりかえっている。湖畔に古く小さなロッジが見えて来た。ロッジの一部屋に灯りが見える。野島は、エンジンを切ると用心深く扉に近づき、思い切り蹴り上げた。

薄い木の扉は、木の葉のように舞い上がった。

驚いて飛び起きた男の顎を野島の膝が捕らえていた。男は悶絶しながらその場に崩れ落ちた。若い男であった。自分の身に起きたことを認識する前に、彼の役目は終わっていたのだ。

野島が、部屋の奥に目をやると、マットの上に寝かされている下着姿の女の影が見えた。

「亜里沙、来てくれ」野島の声を合図に、亜里沙が部屋に入り声を掛けた。

「紗英さんですね? 大丈夫でしたか?」

「ええ、逃亡を防ぐからって、服を脱がされただけでしたから・・・」

紗英は、亜里沙の真意を理解したようである。亜里沙は服を捜し出してあげると、

手渡した。

「あなた達は?」亜里沙は、紗英が落ち着いたところでこれまでの経緯を話した。

「そうだったのですね。ありがとうございました。身の危険は感じなかったのですけれど、連絡が一切取れなくてそれだけが不安でした」

亜里沙が、携帯を渡すと紗英は待っていたかのように、母親の百合子に無事であると

連絡を入れた。

「お母さん、心配かけてごめんなさい。わたし、大丈夫だから。たった今探偵さんに助けられたところなの。すぐ帰るから、待っててね・・・」

「それと、もう一人いいかな。真司さんなの。今回の進展は、真司さんの証言によるところが大きかったの。心配してると思うから・・・」亜里沙は、真司の心に寄り添ったのである。


 野島の腕時計は、午前三時を指していた。

テニスブームの最盛期、照月湖湖畔は、若い男女で賑わいリゾート地北軽井沢の

中心を担っていた。そんな喧騒の中に妻潤子がいたのである。潤子は、東京にある女子大の三人組の一人として、野島も東京にある大学の夏合宿という名目での参加であった。同じ三人組という事で、二つのグループが一緒にテニスをすることになり、 野島は、三人の女子の中でも特に潤子と気が合った。そんな二人が惹かれ合うのに

大した時間は掛からなかった。野島にとっては、ここが二人の大切な場所であったのだ。

今はすっかり寂れ、昔の面影さえ残っていない。潤子さえも消えてしまった今がある。そんな地に野島を導いたものとは、何であったのか。

25年前と少しも変わらず照月湖の湖面に映る青白い月の影だけが、知っているのかも知れなかった。野島は、この地に別れを告げた。

「亜里沙、帰るぞ!」

「所長、休まなくても大丈夫ですか?」

「俺たちは、紗英さんを一刻も早く百合子さんのもとに返すのが優先すべきことさ」

「了解です!」 亜里沙の明るい声に、野島は救われた思いであった。


 9 紗英の証言


 横浜に戻る車の中で、紗英の拉致に至った詳しい話を聞くことになった。

「紗英さん、黒田組が動いたという事は、どこかでシッポを踏んだってことね」

亜里沙が、要点を話しやすいように聞いた。

「私の分かった範囲で、お話しますね。瑕疵の問題は、父に話しても埒が開かなかったので、建設を請け負った奥田組の飯塚本部長の所に行き、何が原因であったのか説明を求めたのです。入札制ですから、利益の出ない仕事は受けなくても良いのです。工事の仕様書には、基準となる標準価格を載せますので以前とは違い大幅な利益割れをしてでも無理やり受注することは、ほとんどなくなっているのです。

奥田組の提示した金額は、標準価格を少し上回る程度だったので、問題はなかったのです。しかし、実際の工事は奥田組の下請けである(株)横浜エステートが行ったのでしたでした。ここまでは、建設業界としては、よくあることで問題にはならない慣習の一つなのです。


 居住者からの瑕疵の訴えは、特に開口部に発生するひび割れだったので、私は構造計算を疑っていたのです。エステートの設計部に行って、強制的に我が社の設計部が作成した構造計算書と合わせて見たのです。驚いたことに、明らかに数値が違っていたのです。使用されるべき鉄筋の口径より細く、また本数も大幅に減らされていました。エステートの話では、奥田組が最初から数値を指定してきたとのことでした。

当時の現場監督に話を聞いたところ、下請け価格はアウトバーンの想定した標準価格の約半値だったそうです。ここに不正が行われた土壌があったのです」

紗英は、悔しそうに話してくれた。

「北野議長と奥田組は、何処に接点があるのかしら?」亜里沙は、単純に思った。

「北野と飯塚の関係を考えれば、奥田組の利益の一部が北野側に流れていると考えるのが自然じゃないかな。そして、その金の一部が反社の黒田組にも流れている。

奥田を叩けば、黒田が動く。これが紗英さんが襲われた構図だろう」

野島は、的確に推理をした。


「手抜き工事の方は司法に任せるとして、我々は北野の悪事を暴くとしよう」

野島が話終わるのと同時に、ロメオはランドマークタワー正面に着いていた。

長かった夜が明けた。東の空が白く輝き出している。

紗英を降ろした後、二人は事務所に向かった。一仕事終えた安堵感に気持ちは高揚していたが、身体は疲れ切っていたのである。

主がいなかった部屋に、明かりが灯った。


 10 政治家の隠された正体


 充分休養を取った二人は、午後から北野邸のある桜台へと向かった。

横浜市議会は、現在開かれておらず在宅である可能性に賭けた。

市議会議員に似つかわしくない、ベンツCクラス二台がガレージに納まっている。

インタフォンを押すと、中に入るように指示された。紗英の奪回が早くも知らされているようだ。まもなく、二人の人相の良くない男たちを従えて応接間に赤ら顔の小太りな男が入って来た。

亜里沙は、生理的にこのタイプの男はいけ好かないと瞬時に思っていた。

「探偵さんが、私に何の御用ですか?」すでに、定番化したパターンである。

「紗英さんを拉致したのは、北野議長、あなたの指示ですよね」

「拉致とは、人聞きが悪い。建設業界の常識というものを教えてあげていたのです」

「何とでも言うがいい。屁理屈を並べてもあなたの行為は正当化されませんよ」

「野島さんとやら、あなたも随分と乱暴な人だ。無抵抗な人間にこん棒を振り下ろしたと聞いています。いくら探偵業に免許はいらないと言ったところで、更新時にこれを受け付けない理由など、私はいくらでも作ることが出来ますよ」


「北野さん、過剰防衛でも何でもいい。しかし、反社が急に善良な市民を気取っても

仮面はすぐ剥がれますよ。あなたが、市民のために働いたとして受け取る対価は全部

税金で成り立っているのですから、金額もはっきりしています。しかし、隠された収入があれば、賄賂性があることが市民の前に公に晒されることになる。

あなたを議員にするのは、市民一人一人のあなたの政治に対する信頼感なんです。

奥田組の利益の一部があなたに流れているのは明白です。なぜそこまで金に拘るのですか?」野島は、問いただした。

「あなたは、政治というものを誤解しているようだ。票は金で買うものなんですよ。

純粋に自分の住んでいる地域の発展を考えて投票をする人間がどれだけいると思うのですか。皆自己の利益に囚われている。そんな人間を当てにしても受かりはしない。

やはり大きな組織を動かすのは金なんです。私は、金のために政治家をやっているわけではないのです。むしろ、ボランティアであると言っても良い」北野は、嘯いた。


「私が問題にしているのは、あなたのお金の集め方ですよ。金が悪いと言っているわけではありません。お金に罪はないのですから。今回の地域住民による集団訴訟は、地域発展のために頑張っているといいながらあなたが引き起こしたのです。奥田組に便宜を図る代わりに、賄賂を要求した。その結果、奥田はその資金を作り出すために偽装工作に手を染めることになった。そして、真実を解明しようと立ち上がった一市民の声を暴力団を使ってまで、抹殺しようと企んだのですよ。

あなたが、目指しているのは、市民の小さな喜びや安定ではない。自分さえよければというエゴと私欲に過ぎない。一番政治家にはふさわしくない人間です。

あなたを裁くのは、私ではない。地域社会を少しでも良くしたいと願う小さな市民と

司法の手によってです」

たかが探偵業である。世の中の善悪を裁くほど自惚れてもいない。

司法が正義であることを願うばかりである。


 11 終章


 翌日の午前中、野島と亜里沙の姿はアウトバーンの常務室にあった。

紗英は先に待っていた。

「今回は、本当にありがとうございました。お二人には、感謝しかありません」

最初に、紗英がお礼を伝えた。

「どういたしまして。ところで紗英さん、お父様とは、お話されました?」

亜里沙は、気になっていたのだ。

「ええ、昨晩。でも、無理でした。父は、私の説得に失敗したことで、北野からは随分と責められたようでした。結局、娘を失ってまで会社を守ろうとしたのです。

経営者としての判断は分からないでもないですが、やはり娘を守って欲しかった。

父娘としては、もう元の関係には戻れないのです。

私は、一旦退社することに決めました。真司さんと目の届く小さな単位の仕事から始めてみたいと思っています。そして、今度は二人して一級建築士に挑戦したいと思ているんです」紗英は、目を輝かせながら未来を語ってくれた。

「ところで、お幾らお支払いすればよろしいですか?」今年度いっぱいで常務の職を辞する予定の百合子が、母親として聞いてきた。

「こちらで、お願いします」野島の顔を横目で見ながら、亜里沙がテーブルの上に

請求書を置いた。

「この金額で、よろしいのですか?」百合子は、訝し気に見ている。

請求は、三十万であった。

「足りない分は、全部紗英さんへのご祝儀という事で…。」


 ランドマークタワー20階から見える空はより高くなり、一段と秋の深まりを

感じさせている。亜里沙の眼に高い空に漂うひつじ雲が映っていた。


 エピローグ


 久しぶりに、本格的な二人だけの外食と呼べるものであった。

紗英が感謝の気持ちを表すため、横浜ロイヤルパークホテル68階にある『ル・シエール』へ招待をしてくれたのである。もちろん、亜里沙は二つ返事で招待を有難く受けたのだが、野島は、気が進まない様子であった。

「所長、せっかく紗英さんからのご招待なんだから、お受けましょうよ」

「クライアントからの招待というのが、・・・」

「まったく、融通が利かないんだから・・・、私一人でも行きますけど・・・」

「分かったよ。亜里沙が今回も活躍してくれたことだし、そのご褒美とするか」


 予約時間の19時5分前に店内に入った。『ル・シエール』は、天空を意味し

ヨーロッパの貴族の邸宅を模した、上質なフランス料理を提供する店である。

二人は、夜景の見渡せる窓側の席に案内をされた。亜里沙の揺れる赤いドレスが、普段の食事とは違う心の高ぶりを伝えている。

二人にとってこれ以上の幸せな時間はないはずである。

コース料理は亜里沙の心を満たし、ワインの酔いが心地よく体に染透っている。

後は、ドルチェを残すのみとなった。


野島が無意識にジャケットの内ポケットからハンカチーフを取り出そうとした時、

一枚の小さな紙が舞い上がると、静かに床に落ちて行った。

「俺が拾うから…」野島は気付いていたのだ。

「私が拾ってあげる・・・」亜里沙が拾い上げたのは、一枚の写真であった。

「これって、奥さん・・・。」亜里沙の言葉が続かない。

「綺麗な人だね・・・そうなんだよね。忘れてなんか、いないんだよね・・・」

 亜里沙の眼がかすかに潤むと、野島の顔が滲んだ。

「亜里沙ごめん、こんな時に・・・」野島の言葉が亜里沙の心を押した。

「なぜ、耕介が謝るの? 意味わかんないよ。だって、まだ愛しているんだよね。

無理に忘れなくてもいい! わたし、許してあげるから・・・」

亜里沙の大粒の涙が窓ガラスに、はっきりと映り込んでいた。

「亜里沙、潤子がおれの前から姿を消したのは、実は五年前の今日だった。   それを思い出させてくれたのが、照月湖の月だったということ。今日ぐらいは、一緒にいてやりたいと思っていたんだが、亜里沙に言い出せないでいた。亜里沙が楽しみにしていたことを奪うなんてね。五年も経つと、潤子を忘れている時間も増えて来ていてね、それも、亜里沙の存在が大きくなった来たせいだろうと思う・・・」


「今日は、一人になりたかったということなの?」

「それは、違う。俺たちはいま、色々とあるけれど十分に幸せだと思っているんだ。

今、愛しているのは、亜里沙であることには間違いがないよ。でも、潤子は俺の人生の中で初めて愛した女だったということ。この事実は消えてはいない。

きっと、潤子も俺たちのことを温かく見守ってくれていると思う。そんな女だった。

せめて一日でも、亜里沙と二人で静かに偲んであげたいと思っていた。それだけのことだよ」

「耕介、いまからでも間に合うんじゃない? 家に帰って三人でケーキ食べよう!」

亜里沙は、テーブルに置かれていた『ドルチェ』を包んでもらうと、野島の手を引いた。

『天空』から地上に飛び降りた二人を、タクシーが日常へと運んでいく。

イルミネーションの間から優しく二人を見下ろしている月は、たぶんあの照月湖で見た月と同じであろう。

「耕介、男の記憶って折り重なっていくって言うけど、ほんとだね。junkoさんを永遠に忘れなくていいから、亜里沙も忘れないでね。心の半分でもいいから‥‥…」



おわり











 


 





















 

 







 








 




 




 







 





 










 























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