第5話 謎解きのMake up

プロローグ


 明けたはずの梅雨が戻ったかのように、鬱陶しく雨が続いている。

窓の外の帳も白く霞んで見える。ベイブリッジは今日も霧の中に違いない。

薄茶に変色した壁紙の上の時計は、八時十分過ぎを回ったところである。

「亜里沙、調書は終わったか?」野島が声を掛けた。

亜里沙は、先日担当した『調査報告書』を書き終えたところであった。

内容は、最近立て続けに調査依頼のあった『人妻の浮気』に関してである。

亜里沙は、慣れた様子で本来の才能を発揮している。

「そろそろ、店仕舞いにしようか?」野島が再び声を掛ける。

「OK! 終了です」亜里沙の声が、狭い事務所の中に広がる。

亜里沙は、少し疲労感を感じているこの時間帯が好きである。心地よい疲労感が

明日という日を迎える希望に代わるからだ。


 亜里沙の声に合わすかのように、電話が鳴った。

野島は、手で亜里沙を制して受話器を上げた。

「はい、みなと探偵事務所です」

「もし、もし、港探偵事務所さんですか?」

「はい、そうです。ご用件は?」野島が聞く。

「そちらに、亜里沙さんは、いらっしゃいますか?」年配の女性の声であった。

「亜里沙、お前にだ」

「お電話、代りました」亜里沙は、丁寧に応対をする。

「あら、ご無沙汰してます~」知人のようである。会話は、明るい挨拶からだんだん深刻な内容に変わっていっている様子であった。

「では、あした紗月さんのマンションで直接伺いますね」亜里沙は、暗い表情で電話を切った。

馬車道にあるクラブ『エンジェル』時代の同僚の母親からの依頼であった。

母親によると、数日間娘の紗月と電話連絡がつかないため心配になり、部屋を直接訪ねたが姿を見つけることは出来なかったという事であった。紗月は亜里沙より二歳年上であり、容姿が似ているところから姉妹のようだと言われていた。

母親は、亜里沙が探偵事務所勤めであることを思い出し、調査依頼をしに来たのであった。警察に『捜索願い』を出すほどの緊迫した状況であるとは感じていなかったのだろう。

 

1 紗月の失踪


 翌日の午前中、約束通り亜里沙は桜木町駅前にある紅葉坂を少し登ると右側に見える『横濱紅葉坂ヒルズ』に向かっていた。左隣に『県立音楽堂』があり何回か前を通った記憶があった。少し早めに着いたが、駐車場には契約車しか入れないようである。

亜里沙は仕方なく、音楽堂の駐車場に愛車のミニクーパーを止めた。急いでマンションの玄関前に戻ると、すでに母親の姿があった。

厳重なセキュリティの玄関扉であるが、母親が暗証番号を打ち込むと呪文のように開きエントランスに入ることが出来た。亜里沙は内心ホットしていた。

ここは母親の記憶力に感謝である。考えてみれば、まだ六十をいくつか越えたぐらいであろうか。これが杞憂というものである。

八階にある紗月の部屋の扉の前に立つと、母親は鍵を差し込み当たり前のように

扉を引いた。第二関門突破である。

二人で顔を見合わせると、用心深く部屋に入る。別段、変わった様子はない。


「亜理紗さん、こういう状態なんですよ。私には、全く訳が分からないわ」

確かに、部屋の中は何一つ乱れてはいなかった。今すぐにでも、住人が戻って来そうな気配である。

「お母さん、二、三日鍵を預からせてもらえませんか?時間を掛けて調べて見ますので……」 部屋の中が乱れていれば、それが突破口となり調査のヒントになり得るのである。それがないとすれば、さらに細かく調べていく必要性があった。

母親にはあまり見せたくない現場調査である。母親の知らない娘の真の姿があからさまになる可能性もあったからであった。

「お母さん、お母さんはお帰りになって構いませんよ。私がきっと、捜し出してあげますからね」

「そうですか、では亜里沙さんよろしくお願いします」

亜里沙は、心配そうな母親の後ろ姿を見送ると、午後からの本格的な調査に備え一旦事務所に戻ることにした。

「所長、一旦戻りますけど、お昼どうしますか?」いつもの他愛無い確認である。

「亜里沙に任すよ」毎日昼飯を考えるのも、面倒な話である。

 亜里沙は赤いミニクーパーを駐車場から出すと、中華街の路地裏店『福楼』に寄り二人分のランチセットを携えて事務所に戻った。


 昼食を食べながらの報告である。

「まったく部屋の中が乱れていないんですけど、所長どう思います?」

「自分の意思でという事になるかな。持ち出したものが何かは、分からないのだから、逆に残されている物を細かく調べた方が良いかな。そこにヒントが隠されている場合もあるからね」

「はい、先輩。分かりました」

「とりあえず、僕は事務所に待機しているから何かあったら連絡をくれ・・・」

「了解です!」

亜里沙は、昼食が終ると再び『紅葉坂ヒルズ』を目指した。


 調査を再開した亜里沙は、まず最初にウォーキング・クローゼットに入ってみる。て

想像していたホステスドレスが一枚もない。しかし、亜里沙がホステスを辞めた直後、後を追うようにして紗月も辞めたのだから、全て処分されていたとしても不思議な話ではない。

しかし、服と靴の多さをどう解釈したらいいのだろうか。ホステス時代に揃えたとしても亜里沙と同じくらいの収入だったことを思えば、無理があるのだ。

むしろ、やめた後に揃えたと考える方が自然である。


2 貸金庫の中


 幅2mは、ありそうなドレッサーの前に立ってみる。化粧品がすべて「ランコム」で統一されている。高級化粧品で有名な「ロレアル」の傘下にあるとはいえ、高級品であることに間違いはないであろう。                   そして、幅3mはありそうなキャビネットが左横に並んでいる。

下段から開けていくと、男物のパジャマやガウンが入っている。紗月も健康な女性であるからして、別段不思議な事ではない。中段には、高級下着が丁寧にたたまれて並んでいる。まるで、高級ショップの陳列棚のようである。すべてに、「オーバドゥ」のネームが付いている。                           亜里沙は、収入が少ないとはいえ、最近「しまむら」専門の自分が少し恥ずかしく感じてしまったのである。おんなは、普段使いと気合が入る時を使い分けているのが普通であるのに対して、これでは気合の入りっぱなしではないか?、と疑問が湧いてくる。

ブラジャー列の下に手を入れてみると、何か触るものがあった。取り出して見ると、

小さな『鍵』である。

密かに隠されていた様子から、余程大事なものに違いないのだろう。

「所長、鍵の写真送りますので、調べてもらえませんか?」 亜里沙は、スマホで写真を撮ると待機している野島のPCに送る。

野島は送られて来たデータを拡大する。便利な世の中になったものである。   (なんて、若者が言う訳がない)


「これはもしかして、隠し金庫の鍵かも知れないな・・・」 「亜里沙、『セイフティ・ボックスカード』が近くにあるはずだから、よく探すように」と、野島は指示を出した。

こんどは、同じ中段の花園にしか見えない小さな布切れの中を丁寧にさらっていく。

男であれば、照れてしまう場面である。

固い小さな板に指が触れる。取り出して見ると、まさに目的の『カード』であった。

『みずき銀行貸金庫カード』と読み取れる。

「所長、在りました! とりあえず、金庫の中身が何なのかこれから調べて見ます」

「了解! また、連絡をくれ」


 亜里沙は、この近辺にある『みずき銀行』を一通り回ってみることにした。

紗月のマンションから一番近い支店だとしたら、中区本町にある横浜支店であろうか。亜里沙は、この店から始めることにしたのだ。

銀行に入ると、早速案内係が寄って来た。

「すみません。貸金庫は何処でしょうか?」

初老の案内係は、先に歩き出したが亜里沙の不安さを感じ取っているようである。

「こちらで、ございます」

亜里沙は、声に出さず黙礼をして感謝を伝えた。

貸金庫ブースに立った亜里沙であったが、思わぬことに気付くことになる。

カードの挿入と共に暗証番号の入力が必要であったのだ。

生活の中に貸金庫のある日常など、遠い世界のことである。どちらかというと、手元に置きたいタイプなのだ。

亜里沙は、依頼主に連絡を入れると、挨拶もそこそこに聞いた。

「お母さん、紗月の普段使っている暗証番号知らないかしら? 例えば生年月日とか、車のナンバーとか、いい国造ろう(1192)鎌倉幕府みたいな語呂合わせの…」

「そうね~、紗月が前に使っていたのは、私か父親の誕生日だったと思うけど、  それなら【12**】か【02**】かしらね」

「ありがとう、お母さん。とりあえず、だめもとで、やってみる」

結果、【02**】がビンゴであった。案内係の不審そうな目に構っている場合ではない。貸金庫の個室に入ると、金庫が自動で運ばれて来た。30cm四方のもので、それほど大きくはなかった。鍵を差し込むと、蓋は難なく開いた。

中には、マンションの権利書と一枚のマイクロSDカード、そしてこんどは、一本の小さな鍵が入っていたのだ。

これらが、紗月の失踪の原因を解くカギになるのであろうか。(洒落ではない)

亜里沙は、権利書を残して、あとは持ち帰ることにした。


3 ラウンジ・バー『ロイヤル・アスコット』


 紗月が隠していたとも言える貸金庫に入れていたものであるから、かなり

重要なデータの入っているSDカードであることに違いなかった。

「所長、microSDって、普通スマホの写真の保存何かに使いますよね~!」

「よし、開いてみるか」野島は、早速SDアダプターに入れPCに差し込むと、フォルダをクリックをした。数十枚の旅行写真の後に、紗月の自撮り写真が続く。

「亜理紗、紗月さんていい女じゃないか!」

「まぁね、兄妹のようだって言われてたけど……」複雑な女ごころである。

数枚の映えようの料理写真に続いて、三人の人物が写っている一枚に目が留まった。

これを、野島は拡大してみる。

左に紗月、中央に六十がらみのタフそうな男、そして右に八十歳に近いが厳格そうな人物が写っていた。画像がややブレていて顔がはっきりしない。                しかし、前に並んだ料理や人物の後ろに映っている店内の様子からして、かなり高級そうな店である。

「所長、このお爺さん達に見覚えありますか?」亜里沙にとっては、皆お爺さんであるらしい。

野島は、画像修正ソフトを使ってみることにした。人物だけを切り取ると、露出とフォーカスを上げていく。やがて、人物がはっきりと浮かび上がった。

野島は、中央の人物を認識することが出来た。まさしく、宿敵ハマのフィクサーと呼ばれる小谷光秀であったのだ。

「小谷がどうして、ここにいる?」野島は、単純な失踪事件で終わらない予感に心が震えた。

「私、このレストラン、紗月と行った気がする!」 亜里沙が大きな声を出した。

「本当か?」

「紗月のマンションから、紅葉坂を100m程登った左側にあるの。たしか、『リストランテ・ウミリア伊勢山』って言うのよ。ランチで何回か利用したことがある…」

野島は、「俺以外の男と行ったんだろうが・・・」と突っ込みたくもなったが、

辛うじて抑えた。

「所長、調査のために行ってみましょうよ」亜里沙は甘えた声で提案をした。

「分かった。あくまで調査だからな。当然必要経費から出すことになるな」

「ケチね~!」亜里沙には、野島の性格からして本気でないことはわかっている。


 野島は、その前に調べておきたいことがあると言い、加賀町署の古畑刑事に連絡を取った。

「古畑君、前回の新横浜銀行の失踪事件の時はお世話になったね。熊田組の連中は、結局不起訴となった・・・」

「そうなんです。考慮されたのは、やはり被害者の告訴がないことが大きいですね。

黒田の脅迫行為を実証するのが難しい事、また万が一捕まったとしても早期の解放による減刑など公判の維持が難しいとの上の判断なので、致し方ないですね」

古畑は、悔しそうであった。

「古畑君、立て続けで悪いんだが、ある人物の素性を知りたいのだが・・・」

野島は、切り出した。


 二人は、ロイヤルパークホテルの二階にあるバーラウンジ『ロイヤル・アスコット』で五時に落ち合うことにした。英国式バーで、照明は暗く抑えられている。


密会には、好都合であった。時には顔を合わせて労を労うことも必要である。

野島と古畑は、挨拶もそこそこに本題に入った。野島は、紗月の失踪の件、また調査の中で知り得た情報などを詳しく話した。

野島は、大きくプリント・アウトされた写真を見せると説明を加えたのである。

「この中央にいるのが、例の小谷光秀に間違いないと思う。この右側にいる人物と小谷との関係性が知りたいんだ」

「了解しました。判明次第部長の携帯に送りますので・・・」古畑は、写真を内ポケットにしまうと、一般客に紛れ足早に出て行った。


 亜里沙からmailが入っていた。

【お疲れ様です。19時に『ウミリア』のリザーブ取れてます。私は、少し遅れるかも知れないです。オシャレして来てください。それと、今日は車で来ないでね。

よろしく💛 】


4 亜里沙と耕介のデート


 野島は、一旦事務所に戻った。亜里沙の希望通り着替えるためである。

スーツは、濃紺の『トムフォード』一着しか持っていない。したがって、迷うこともないのだ。靴は『ロブス』のローファーを合わせることにした。何とか二足はある。

タクシーを拾うために路上に出た野島であったが、自分の姿とこの古いビルの不調和に愕然とする。逃げるようにタクシーに乗り込むと、『ウミリア』に向かった。

久しぶりのデート気分である。野島は、調査が無駄に終わっても構わないと思っていた。実質、二人の久しぶりのデートなのだから・・・。


 野島は、五分前に着きリザーブであることを告げると、予約席に案内をされた。

見回すと、内装はまさに写真に写っていた通りであった。

亜里沙が五分遅れでテーブルに着いた。いつもと違うコロンの香りに顔を上げると、

写真に写っていた紗月がいる。まさに、姉妹と言われていた所以であった。

「紗月に全部、借りて来ちゃった」亜里沙は、屈託なく言う。

「紗月に成りきると、何か見えてくるものがあると思ったのよ。これも調査活動の

内の一つね」

紗月を装う亜里沙に、野島は素直にきれいだと感じていた。

料理は、満足のいくものであった。

食事も終盤に差し掛かったころ、野島は二人を注視する視線に気が付いた。

さりげなくウエイターに聞くと、当店の支配人だという。

四十をいくつか越えた優男である。こういう視線に気が付くのも、刑事であった習性の名残かも知れなかった。


 胸のバイブの振動が身体に伝わった。mailは、古畑からの調査報告であった。

野島は、食事中にも関わらず文字に引き込まれていた。

【中央の男は、推察通り小谷光秀六十二歳、仕手集団濱新総裁、右隣の老人は、

陳宇航(チン・ウーハン)表向きは、信用組合中華銀行会長であるが、中華マフィアの首領の可能性もあることから、加賀町署も追っている人物である。要注意 】

明らかに野島の顔色が変わった。ワインの酔いが引いていく。

これは底の見えない大きな沼なのかも知れなかった。二、三十万の調査費に見合う仕事を越えていたのだ。。

ドルチェを楽しみに待つ亜里沙が、野島の様子の変化に気が付いた。

「耕介、少し顔色が悪そうだけど……飲み過ぎた?」

「いや、大丈夫だ!」ワインを飲み過ぎたと、言い訳したかったのだが・・・

野島は、亜里沙とのデートを台無しにはしたくはなかった。最後まで堪えた。

亜里沙のドルチェを見届けると、追い立てるように『ウミリア』を後にしていた。

タクシーに乗り、事務所に帰る道すがら亜里沙は、甘えた口調で言った。

「もう少し、ゆっくりしたかったな~、」

二人は、三階の事務所には戻らず五階の野島の自宅(?)に直行する。

野島は、亜里沙の艶めかしいドレスを衝動的に剝ぎ取りたいと手を掛けたのだが、

意に反して抵抗をされてしまう。

「耕介だめ! これ借りものだから……」

亜里沙は、ドレスを自ら脱ぎ捨てると、耕介の胸に飛び込んでいった。


5 鍵の持つ秘密


 二人は、昨夜の余韻を振り払うかのように、早朝から古畑のメールの解析を始めていた。

「古畑君によると、『ウミリア』は最近、濱新に買収されているんだ。という事は、オーナーは、小谷光秀という事になる。食事に客として来た紗月と、それを歓待するオーナーとの写真があったとしても、不思議な話でもない。問題は、なぜ紗月がその写真を貸金庫に隠してまで、秘匿したかったのかだな。もしかしたら、陳宇航との関係だろうか・・・」

「気になるのは、所長が気が付いた支配人の視線だと思うの。私一人で行った時の反応が真実を語るかも知れないわ。私、今日のお昼にでももう一度行って調べてみたいんだけど、どうかしら?」亜里沙の身を案じたが、野島にはそれを止める理由が見つからない。

結局、亜里沙の提案を実行することにしたのである。

いまさら失って惜しいと思うものはない二人の人生であった。あるとすれば、命であろう。真実を知りたいと思う信念が二人を突き動かしていた。


 亜里沙は、早速当日のランチの予約をすると、運よく一時からの席を取ることが出来た。目的は、支配人の気を引くことにあった。

代わって、野島は、紗月の母親の家に行き見逃している事実はないのか、詳しく調べてみることにしていた。

もはや、紗月の母親に請求できる金額の限界を超えているのは明らかであった。

あとは、紗月の救出が真実の追及より優先される課題となったのである。

亜里沙は、紗月のマンションに寄ると、自分の姿を鏡に映し、どうしたらより紗月に似せることが出来るかと、思案を重ねていたのである。

紗月のトレードマークである赤茶色のショートウィッグを被ると、化粧を出来るだけ似せるように施し、仕上げに『ミラク』を胸元に振りかけた。

予約の五分前には、着くことが出来た。

ランチと言っても、一万円はするものである。料理は上品で素材の味を生かしたものであり、満足のいくものであった。

ドルチェが運ばれ、食事が終わるころ支配人が現れた。

「お味は、いかがだったでしょうか?」

「いつもと変わらず、満足出来ましたわ」

「失礼ですが、お客様はよくお見えになる萩原紗月様とご姉妹でいらっしゃいますか?」支配人は、ごく自然な振る舞いで聞いた。

「分かりました? 実は、従妹同士ですの……」

驚いた様子で、支配人の言葉が途切れる・・・

「・・・そうですか。どうぞ、ごゆっくりしていってくだ・・」

最後まで言い終わらないうちに離れて行く・・・、明らかな反応であった。

食事が終わり店を出た亜里沙であったが、その後の支配人の様子を見届けるためミニクーパーの中で待機することにした。

しばらくすると、慌てた様子で店から出てくると車に乗り込み、急発進する姿を目撃することが出来た。亜里沙は、白いBMWを追う。

幸い亜里沙の追跡に気付いていない様子である。BMWは、紅葉坂を登りきると、右折し平沼橋方面にまっすぐ進んでゆく。16号を越え西平沼橋を左折し、住宅街に入るとすぐ戸建ての駐車場に車を入れエンジンを切った様子である。

亜里沙は、少し離れた死角にミニを止め監視する。

支配人が、あたりに注意深く気を配りながら家の中に入って行く姿が確認できた。

亜里沙は、住所を確認するとすぐに事務所にとって帰った。


 一方、野島は、紗月の母と会い細かな情報を聞き出そうとしていた。

「お母さん、一番最後に紗月さんに会われたのはいつですか?」

「そうね~、十日程前だったかしら…」

「ここに、来られたのですか?」 「そうなの…」

「来た理由を言ってました?」 「いいえ、特別には……すぐに帰ったから……」

「何か、持ってこられたものは、ありませんでした?」

「そういえば、何か置いて行ったみたいね」「何処にですか?」野島は、聞いた。

これが本当であれば、貴重な情報であると野島は思った。

「紗月の使っていた部屋だと、思うけれど……」

母親に案内され部屋に入ってみたが、特に部屋に変わった様子は見られない。

野島は、目に付いたクローゼットを開けてみる。そこには、ライトブルーのスーツケースがコートに隠されるように置いてあった。

野島は念のために、貸金庫にあった小さな鍵を差し込んでみた。鍵は廻り、上蓋が難なく開いたのである。中には、紙袋に包まれた札束が入っていた。数千万はありそうである。自分で汗水流して稼いだお金なら、こんなところに、こんな形で隠す必要もないだろう。

公に出せない金であることは、明白である。野島は、この事実を母親に話すことなく家を後にした。


6 紗月の発見


 野島が事務所に戻ると、白いドレス姿の亜里沙が待っていた。

「亜里沙、今日は一段と気合が入っているじゃないか」

「そんな事より、いい情報があるの」

お互いの情報を交換し合うと、考察した。

まず、西平沼橋の住宅に何かが隠されているのは間違いない事。そして、紗月が手にした金は、自分の労働に対する対価ではない事、などを確認し合った。

亜里沙は、疲れたと言って化粧を落とし、ドレスを脱ぐと五階の野島のベッドに倒れ込んでいた。無理もない。初めての単独による尾行であったのだから。


 野島は、夜の街に出かけることにした。久しぶりに、中華街に行き英気を養うつもりである。加賀町署時代も、大通りにある大きな店には入ったことがなかった。

市場通りを入った、いわば路地裏店がお気に入りであったのだ。大事に店の味を守りひっそりとした昔ながらの風情が好きなのである。

そして今日は、別の目的もあった。

見覚えのある古い暖簾の前に立つ。店は、『你好』である。

「あら、野島さん、久しぶりね~」中国人のママが、懐かしいイントネーションで迎えてくれた。

「ママも、元気だったかな?」「あい、変わらずよ」

野島は、手始めに好物の青菜の中華炒めを頼んだ。変わらない味である。

一通り食べ終えたあとで、ママに切り出していた。ママは、苦労した分中華街の裏社会に精通していたのだ。

野島は、一枚の写真を取り出すと、心当たりがあるかを聞いてみた。

「野島さん、私は何かあると思ってたのよ。やっぱりね~」

そして観念したかのように言った。

「野島さんの性格だから無理だと思うけど、深入りしちゃだめよ。もう警察じゃないんだからね。野島さんは知ってると思うけど、真ん中が濱新の小谷、右は陳宇航ね」

ここまでは、古畑から聞いていた情報の通りであった。

「ママ、陳のことを詳しく知りたいのだけれど・・・」


「陳は、表向きは中華銀行の会長だけど、裏では何かをやってるみたいね。でも、中華の世界では、彼のことを悪く言う人間はいないわね。彼のいることで、この街の平安が保たれている面もあるのは確かね。中華銀行のお陰でどれほど中小のお店が助けられたことか。日本に古くからある『無尽講』みたいなものよ。       でも、問題はこの写真の通り小谷が近づいて来たことよ。小谷は日本人の中でも本当の悪党。中華銀行の金目当てなのは明らかね……いま私の言ったこと、忘れて欲しいよ」

「ありがとう、ママ。絶対迷惑はかけないから・・・」

野島はそれだけ言い残すと、事務所に戻った。五階の灯りはすでに消えていた。


 早朝から、野島と亜里沙は西平沼橋の一軒家を張り込んでいた。まだ、白いBMWは、止まっている。間違いなく、支配人はいるはずである。

しばらくすると、玄関から男が出て来て、車に乗り込む気配がした。二人は、駆け寄るとドアの前に立ちふさがった。

「何なんですか?あなた達は?」

「支配人、少し話を聞かせてもらえませんか?」野島は、きわめて穏かに話した。

「私たちは、ある女性を捜してくれと母親から頼まれている探偵です。あなたに危害を与えるつもりはありませんので、安心して下さい」

支配人は、納得した様子である。

「私は、千葉達也と言います。推測の通り中にいるのは、紗月です。僕たちは恋人関係にあるのです。よく僕の店に来てくれていた紗月に声を掛け、ふたりの交際が始まりました。そんな中、ある事件をきっかけに紗月が追われることになり、命の危険もあったので、私が匿うことにしたのです」

それを聞いた亜里沙は、家に駆けこんでいた。

「紗月いるの?亜里沙だから、安心して!」

その声に導かれたように、紗月が顔を出した。

「良かった!無事で!」亜里沙は思わず、大きな声で叫んでいた。

二人は、涙を流しながら抱き合った。

「お母さんから頼まれたのよ」亜里沙は、依頼主の名前を出した。

「黙っててごめんなさい! お母さん」紗月は泣きながら、母に謝っていた。

紗月は、母親に被害が及ぶことを極端に恐れていたのだった。


 詳しいことは、家の中で話すことにした。

「支配人の達也と恋人関係になる前は、実は小谷光秀の愛人だったのです。それは、贅沢な暮らしをさせてもらっていました。でも、こんな暮らしがいつまでも続く程

世の中が甘くないのは十分分かっていたつもりです。そんな時期に、達也とめぐり会ったのです。最初は遊ばれているかも知れないと思っていたけれど、達也は誠実な人でした。私は、全てを打ち明けたのです。これで、嫌われたら仕方がない事と開き直ってもいたのです。でも、達也は、二人が知り合う前のことは、全て忘れるから信じて付いて来てくれないか、と言ってくれたのです。本当に、嬉しかった。


 達也は、オーナーである小谷の性格をよく知っていましたから、二人の関係は絶対知られてはいけないものだったの…」 紗月はここまで一気に話すと、さらに続けた。


「小谷に、私もいい歳になったので、そろそろこの関係を終わりにしたいと伝えました。すると、小谷は烈火のごとく怒り私の頬を強く叩いたのです。

誰のおかげでこんな暮らしが出来るのか考えてみろと罵られましたが、一度決めた

私の決心が揺らぐことはありませんでした……達也仕事でしょ…」

千葉は、紗月の言葉に頷くと、野島らに後を託し仕事場に向かった。


 一呼吸置くと、紗月は失踪に至った理由を明かした。

「小谷には、ベッドの下に置いてあるトランクの中に現金を詰めておく癖がありました。私は、これを某所に隠したのです。もちろん、別れを承知してくれれば返すつもりでいましたよ。また、暴力的な仕事を引き受けている中華マフィアとの関係証拠を示す写真も持っていると、書き残して来たのです。             でもこれが、きっかけで命まで狙われるようになるとは、夢にも思っていませんでした。一回目は、偶然にも直前に気付き、近くの商店に逃げ込んだのが功を奏したのです。結局、達也に相談し身を隠したのが、この場所だったの。昨日、達也が慌てた様子で私にそっくりな従妹がお店に来たと仕事中にも関わらず、伝えに来たのには驚きました。それが、亜里沙の作戦だったとは……」


7 狙われた亜里沙


 野島は、紗月の命を狙った犯人は、小谷と繋がりのある中華マフィアであると判断を下した。小谷自身が手を汚す訳はないのだから・・・

紗月にこのまま隠れているように忠告すると、二人は事務所に戻った。

早速、亜里沙は、紗月の母親に報告をした。

「お母さん、紗月さんの無事を確認出来ましたよ。安心して下さい。再会出来る日はもう少し先になるかも知れないけど、待っててくださいね。調査料は、今日までの分としますので……」

「亜理紗さん、本当にありがとう」亜里沙の報告に、涙ながらの言葉であった。


 紗月の命が狙われていることを、このまま放置することは出来ない。なんとしても阻止しなければならないのだ。二人は新たな作戦を練ることにした。まず第一にすることは、中華マフィアのドンに接触することである。

野島は午後から、中華マフィアに関する情報を得るために動いた。

『你好』に再び向かった。

「ママ、どうしても陳さんに会いたいんだ。人の命が掛かってる…」

野島の真剣な懇願に、ママは観念したようだ。

「分かったわ。まず、中華街会長の張芳然(チョウ・ファンラン)に会うといいわ。

直接、陳に会うのは難しいからね。でも、私のことは内緒よ。

野島は、店を出るとまっすぐ『中華街振興協同組合』に向かった。それは、山下町の中華ビルの五階にあった。中華街の発展に寄与する活動が主な組織である。

「約束はしていないが、張会長にお会いしたいのです。探偵業の野島と言います」

チャイナ服を着た受付嬢に面会を申し込むと、急な訪問にも関わらず許された。


「探偵さんが、私にどういうご用件ですか」張は、野島の名刺を見ながら口を開いた。六十代後半の柔和な印象の人物である。 

野島は、今までの経緯をかいつまんで話した。

「人の命が掛かっているとは、穏やかではありませんね・・・」

張は、しばらく考えていた様子であったが、話始めた。

「確かに、中華街には自警的な中華組織があることは事実なんです。しかし、この組織が暴力団まがいの行為をするなど、私には信じられません。おまけに、これを仕切っているのが『中華銀行』会長の陳さんであるなどとは・・・。陳さんも若い頃には随分と苦労をされたのですよ。日本人社会で生き残る方法は、第一に信用です。横浜中華街が今ほどの発展を見たのは、彼のこの考え方を中華社会の中でも浸透させたからなのですよ。私は、このこと以外の陳さんは、正直分かりません」


狭い中華世界の中で生きている以上、真実に触れたくはない事情も野島には分かっていた。組合としても、銀行を敵にまわす訳にはいかないのである。

「野島さん、私は陳さんに対して何の力も持っていません。でも、会える段取りだけは、とらせてもらいましょう。あとは、貴方次第です」

「分かりました。もう少し証拠を集めたら、こちらから連絡を入れます」


 中華マフィアと思われる連中は、紗月が匿われているという事実を、まだ知らないはずである。という事は、依然紗月のマンションを張っている可能性があった。

野島は、亜里沙に最後の賭けに出てもらうことにしたのである。

「亜里沙、何日か紗月のマンションで暮らして見ないか? 出来るだけ紗月に成りきって、敵を誘き出す作戦を取りたいんだ。しかし、多少の危険を覚悟しなければならないが・・・」

「分かったわ。私やる」こういう時の亜里沙の判断は早い。

「だけど、美容院行ったり、伊勢丹行ったり結構経費掛かると思うけど、大丈夫?」

「それは、しょうがないだろう・・・」野島もここを突かれると、弱い。


 現実的に考えて、昼間の街中での殺傷は考えられない話である。ましてや相手は女である。拉致行動が順当であろう。これなら何とかなると野島は判断した。

亜里沙が、高級マンション生活に慣れ始めた三日後に早くも動きがあった。亜里沙が意識的に買い物から遅く帰って来た日である。夜の十時をいくらか過ぎていた。

紅葉坂を荷物を抱え登る亜里沙の後ろから、二人の男たちが気付かれないように怪しい動きでついてくる。野島は、坂の見える植え込みに潜んでいた。

やはり、元刑事の感は衰えていなかった。約束通りのバイブレーションを送った。

しかし、荷物を抱えた亜里沙に気付いた様子は見られない。


「まずい!」思わず、心の中で叫ぶ。

マンションの少し暗がりの影になった場所で、一人の男が亜里沙に襲い掛かった!

口を塞がれもがく亜里沙に野島は駆け寄った。亜里沙のスカートの裾が高く翻る。

股間を蹴られた男が石畳に崩れた。亜里沙を甘く見ていたらしい。

「警察だ!」野島が叫ぶと、もう一人の男は用意していた黒塗りの車に慌てた様子で乗り込むと、急発進した。三人組であったらしい。

亜里沙が、催涙スプレーを相手の眼をめがけて吹きかけた。野島が苦しむ犯人の右足をめがけて『6D.CELL』を打ち下ろす。これは、最強マグライトと呼ばれる警棒代わりの懐中電灯である。あくまで、警棒ではないのだ。

探偵とはいえ、武器と判断される物の携帯は許されていない。

男は、殴打された右足を抱え立ち上がれない様子であった。しかし、骨折はしていないはずである。過剰な防御は、別の問題を生んでしまう。あくまで、防衛なのだ。


「警察を呼んで現行犯で逮捕されるか、誰に頼まれたのかを言って解放されるか、 どっちか選べ! 俺はお前に個人的な恨みはないからな。素直に従った方が良いぞ」

野島は、強く迫った。

男は、まだ若かった。二十代後半であろう。男は、観念したように自供を始めた。

「俺は、中華自衛組織の人間です。女を傷つけるつもりはありません。ただ、連れて来いと命令されただけで・・・。第一この女が悪いんだ。人の金を盗みやがって!」

「誰に、頼まれた⁉」

「それは、・・・・」と、口ごもる。

野島は、マグライトを強く握り直した。

「分かったよ、組合長の宗さんです。会長の陳さんに指示されたからって・・・」

野島は、男のポケットを探ると、免許証を抜き取った。

「よし、行っていい」 男は野島の許しを聞くと、足を引きずりながら逃げるように

去って行った。

「あの人、大丈夫かしら?」亜里沙の優しさである。

「あぁ、大丈夫だ。手加減したからな。あいつにはまだ、自分の犯した罪の大きさが分かっていなのさ。本当の悪は、権力でもってそれを指示した人間だよ」


8 中華銀行会長 陳との交渉


 野島は、張に連絡を取ると、実際に襲われた事実を伝え中華銀行会長陳への面会を正式に頼んだ。

「張さん、明らかな証拠として襲った男の免許証を持っています。そして、中華自衛組織の者だと白状もしています」

「分かりました。でも、覚えておいてください。私は、告発の手助けをしているわけではないのです。あくまで、知人として紹介するのです。そこを分かってもらいたい」

張の複雑な胸の内は分からないでもなかった。

「ありがとうございます。ご迷惑は駆けませんので・・・」


 野島は気が付くと、流石に空腹を覚えていた。

陳に会う前は、中華でなくイタリア料理を食べたい気分であった。

「亜里沙、イタリアンを食べに行こうか?」

「了解です!」亜里沙も同じ気持ちであったようだ。

二人は、亜里沙のミニクーパーで、ランドマークタワーを目指した。亜里沙お気に入りの『マンジャ・マンジャ』である。窓側の席を予約すると、すんなりと取ることが出来た。席からは、コスモクロック21が光を放ちながら回転する様子が見えるのである。

「いつ、あれに乗せてくれるの?」亜里沙が頼んでも、実現したためしがない。

実は、野島は、高所恐怖症であることをひたすら隠していたのだ。

二人で気軽に食べられる食事も良いものである。亜里沙は、前回よりもワインが進み顔が上気している。

「帰りは耕介が運転だよ」

「分かってる。今日は、亜里沙の大活躍が見られたからな」

コスモクロックの電子時計は、10:05を点灯させていた。


 翌日の昼前、野島は中華街善隣門近くの星和ビルに向かっていた。加賀町署の目の前である。因果な巡り合わせであった。                   野島は事前に古畑刑事を訪れると、亜里沙が中華マフィアに襲われたいきさつを話していたのだ。

「古畑君、こいつを知ってるかな?」野島は、男から奪った免許証を見せる。

「王静(ワン・ジン)28歳ですか? いや、知りません」古畑は否定した。

所詮、捨て駒に過ぎないのだ。捕まえたところで、世の中は何も変わりはしない。


野島は、改めて考えていた。今回の目的はなんであったのか・・・

紗月を小谷から解放し、自由に生きる権利を取り戻させることではなかったのか?

「古畑君、僕は今回紗月さんを小谷から解放させるためだけに陳に会ってくる。君の目的と違ってくるが許してくれないか」

「部長、何をおっしゃいます。部長に対しては感謝しかありません。どれだけ頂いた情報が捜査の役に立ったことか・・・どうか無理をしないでいただきたい。

捜査ではなく、調査で十分だと思います。我々の願いは、部長と亜里沙さんの安全な日常なのですから」古畑の本心であった。

「ありがとう。古畑巡査部長」野島は、新たな決心をしたのである。


 野島は陳会長への面会を申し込むと、最上階にある応接間に通された。張からの紹介が通っていたようである。

陳はまさに、八十近い老人と言える人物であった。しかし、眼光の鋭さは衰えていない。

最初に野島が口火を切った。

「私は、山下町で探偵業をやっている野島耕介と申します。今日は、陳会長にお願いがあって参りました」

「ほぉ、何でしょうか?」

野島は、一枚の写真を取り出すとテーブルの上に置いた。

「この写真に写っている女性の身の安全です」

「この女性と私に、どういう関係があるのですか?」

「会長、写真をよく見て下さい。この女性が誰なのかあなたなら知っているなはずです」 陳は写真を手に取ると言った。

「綺麗な女性だ。確か、小谷さんから紹介されたのを思い出しましたよ」

三人で写っている以上、言い逃れは出来ないはずである。


「会長と小谷さんが、この写真に一緒に映っているのは偶然ではありませんよね。

小谷さん、いやハマのフィクサーと呼ばれている小谷は違法なM&Aを繰り返し、

真面目に働いている従業員の心に沿うこともなく、利ザヤを稼ぐことだけが目的の

決して企業人とは呼べない人物なんです。そして資金源として会長の信用組合中華銀行がバックアップをし、邪魔な人物の排除に自警団とは仮の姿の中華マフィアが加担をしたのです。これが小谷と会長の隠れた関係なのは明らかです。そんな二人の会食の時にサポート役として同席したのが紗月さんだったのです。それがこの写真から伺える真相なのです」野島は、躊躇することなく一気に真相に迫っていた。



「昨晩、この女性が何者かに襲われたのです。これがその証拠です」

野島は、一枚の免許証を陳に手渡した。

「王静(ワン・ジン)のですね」陳は静かに言った。

「会長は、小谷からこの女性の拉致を頼まれたのではないですか?」

「なぜ、私が頼まれなければいけないのですか?」

陳の眼光が鋭く光った。

「小谷から紗月さんを紹介された当時、二人が愛人関係にあったことは、ご存じですよね。真面目に自分の将来を考えた紗月さんは、身分の保証もない愛人生活から抜け出したいと考えても不思議な事ではありません。しかし、小谷はそれを許さなかった。本当に相手を愛していれば、相手の幸せを第一に考えてあげるのが真の愛情ではないでしょうか?小谷にはそれが出来なかった。自分の私欲を優先したのです。

小谷なら、十分贅沢な暮らしをさせているのに何が不満なのだと、言い切るでしょうね。それが小谷の人間としての限界であると、私は思うのです。


心の豊かさは、そんなところにはないはずです。物で買った愛情など、長くは続かない。長く生きてこられた会長なら、愛することの意味を知っているはずです・・・」

「野島さん、貴方って人は・・・」陳は、深くため息をついている。

「野島さん、それで私に何をしろと・・・」陳の心が動いた。

「小谷に、紗月さんとの愛人関係を終わらせ、身の安全を保障させることです」

野島の今回の目的であった。

「信じてもらえないでしょうが、私は深くは知らなかったのです。今回の小谷さんの依頼はすべて組合長の宗に任せていたのでね・・・」

野島は、続けた。

「もちろん、紗月さんにも小谷を怒らせた行為があったことは、正直謝らなければいけません。別れを承諾させるために、止むにやまれず奪ってしまったお金を小谷さんに返すことを約束します。そして、 この三人が写った写真も・・・」


 小谷は、所詮フィクサーである。闇の勢力を利用しているつもりが、見方を代えれば逆に躍らせれている場合もあるのではないか、と野島は考えていた。

「野島さん、分かりました。小谷さんには伝えておきましょう。あなたは、元警察官であると伺っていますが・・・。私が今回あなたの依頼を承知したのは、あなたの人間性に打たれたからなのです。私も人の心の痛みは、分かっているつもりです。

若いころから、随分と日本人社会には苦労をさせられましたからね・・・・・。

最後にあなたにアドバイスを送りましょう。

これ以上、この世界に立ち入らない事です。誰にでも、分相応という領域があるのですから。陳は、野島に釘を刺すことを忘れてはいなかったのだ。


9 エピローグ


 翌日の午後、事務所に小谷からの使者の姿があった。

陳に約束した通り、紗月の母親の家から運びこまれたライトブルーのスーツケースを渡したのである。そして、『紅葉坂ヒルズ』の鍵も同時にである。

紗月は小谷から買い与えられたすべての物を惜しげもなく、マンションに置いて来ていた。新たに始まる生活には必要がないとの判断であった。

紗月と千葉の将来に約束されたものは何一つないのである。千葉は遠からず職を追われるのは明らかであった。しかし、二人は強い愛の力を持って未来に夢を追ったのである。ただ、二人の幸せを願うばかりである。


 数日後、野島と亜里沙は、二人の新居となった西平沼橋の千葉の家を訪ねていた。事案の無事解決の報告であった。

二人の喜び合う姿に、癒される野島と亜里沙である。

母親からは、調査料と成功報酬を合わせて50万円の振り込みがあった。亜里沙は多額であると母親に伝えたところ、母親の感謝の気持ちと紗月からのお礼が含まれているとの説明があり、ありがたく頂くことにしたのである。


 今回の亜里沙には感謝しかないと野島は、回想をしている。

ドレスアップした亜里沙の美しさと、股間けりの上手さも感動ものであった。

亜里沙を喜ばせるために、『コスモクロック』に乗せてあげようと思うのだが、

未だに言い出せていない。



おわり


この短編を小説ファンである@JUNKOさんに捧げます  

 

 





 








 





 




 


 



 



 

 

 


 



 




 








 









 

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