第17話 愛の礼参り?

 偵察結果を聞きに行こうぜ、という姫川の提案により、才徳テニス部レギュラー陣は河川敷の道をとおって味楽へと向かっていた。次の道を右へゆけば柳葉高校方面への道に出るというところで、目の良い天城がなにかを発見する。

 寂れた一面のクレーコート。片面にひとり、膝をついて項垂れる制服姿の男子生徒──青峰学院の犬塚顕広である。

「アイツ!」

 認識した瞬間、星丸の眉がつり上がった。

「あんなとこで何やってんだヤロー」

「なんか様子おかしいで。試合しとったんちゃうか」

 と、杉山がクレーコートへと走り出す。

 ほっとけよ、と姫川は叫んだが、こういうときに放っておけない性分なのが杉山譲という男である。先ほどまでさんざん馬鹿にされたことも忘れ、杉山はフェンスの扉からコート内へと駆け込んだ。

「おい犬塚、どうしたんや」

「!」

 犬塚の肩がびくりとふるえた。

 ゆっくりと顔をあげて、それが杉山だと気が付くや「チッ」と安堵したように舌打ちをする。

「また関西訛りか──」

「制服泥だらけやないか。何があった?」

 という質問には答えなかった。

 犬塚が、フェンスの外で傍観する他の才徳レギュラー陣に気が付く。そのなかで何者かの影を探すように目を泳がせ、ふたたび安堵のため息をついた。

 てめえ、と犬塚は小さな声で杉山を呼んだ。

「さっそく馬鹿にし返しに来たのかよ。いい趣味してんな」

「馬鹿に? なんで?」

「…………」

「テニスコートん中でひとりガクーッ項垂れとるヤツ見かけたら、どないしたんか誰でも気になるやろ!」

 と言って、杉山は犬塚の手をぐっと引っ張って立ち上がらせると、いま一度コートの惨状に目を向けた。

 シングルス試合をしたのであろう、コートに幾筋もボールの跡が見える。それはかなり激しいものだったようで、ベースライン、サイドラインともに荒々しい靴跡でところどころかき消されていた。不思議なのは、残る靴跡がひとつしかないことだった。シングルスの試合をしたのならチェンジコートでふたりぶんの足跡が残るはずである。

 ひどく汚れた犬塚のシューズを見ればこの靴跡が彼のものであることは明白だ。では対戦相手のは──と杉山がよく見れば、わずかに残る足指の跡。

「オイオイ。裸足で試合しとるがな」

「……テーピングは巻いてたけどな」

 と、犬塚が制服の泥を払う。


「裸足にテーピング?」

 と。

 突如、杉山の背後から声がした。

 いつの間にそばに来たのか大神が眉根をひそめている。音もなくうしろに立つな、と心臓をおさえる杉山を横目に「おい犬塚」と大神がするどい視線で犬塚を射抜いた。

「テメー七浦伊織とヤったのか、シングルス試合」

「…………」

 いまだレギュラー陣でさえ慣れぬ彼の凄みあるオーラに、犬塚も例に漏れずたじろいだ。その態度を見れば事実であることは明白だが、なぜか彼は微妙な表情のまま固まっている。なおも大神が問い詰める。と、彼はようやく「そうだとしても」とぼやいた。

「てめえらは知らぬふりをしてやるんだな」

「なに」

「あの女が言ったんだよ。かならず県大会で杉山が今日の借りを返すから──自分が個人的に礼参りしに来たことは言うなって」

「ええ? でもせやったら、なんでわざわざお礼参りなんかしたんや伊織のヤツ」

「たんに胸くそ悪ィから俺の負けた面を拝みたかったんだとよ。いい趣味してやがるぜあの女」

 と、犬塚がわらう。

 どこか憑き物が落ちたかのような清々しい顔である。どうも先ほどの彼とは様子が違う、と気がついたほかのレギュラー陣も次第にそばへ寄ってくる。これまでの会話が聞こえていなかったために、なにがあったのかと大神をふり仰ぐ倉持がぎょっとした。

 端正な顔に、初めて見る表情が浮かんでいる。

「お、おい大神?」

「俺との試合を断っておきながら、あのアマ──」

「いやそこかよ!」

 いいじゃんスかァ、と星丸は頭のうしろで手を組む。

「あんなにテニス部入りたくねえって叫んでた人が、部員を馬鹿にされたからってひとりでお礼参りなんて。可愛いとこもあんじゃん、なァ天城!」

「うん。馴染んでくれたんならふつうに嬉しいし──ねえ大神部長、ここはひとつ知らぬふりでいきましょうよ」

「そんなことより早く餃子食いたいッス。いい加減味楽行かねッスか?」

 と、明前まで。

 後輩三名から畳み掛けられた挙げ句、杉山が

「オレ今日は味噌食うつもりやってん!」

 と爆音で叫ぶものだから、むっすりと押し黙っていた大神はたまらず噴き出した。

「ブハッ。──うるせーな分かったよ」

「そうと決まれば、味楽で偵察結果報告の続きだね」と蜂谷。

「あー腹減ったァ」姫川は空をあおぐ。

 レギュラー陣がふたたび河川敷の道へ戻ってゆくなか、杉山はうれしそうな笑みを犬塚へ向けた。

「今日は不甲斐ないとこ見せてもうたけどな、決勝で会うたら別人になってんから楽しみにしときや!」

「フン、期待しねえで待ってらァ。だが俺もあの女にここまで虚仮にされた以上、このままじゃ終われねえ。決勝当日は──今日の俺が相手だと思うなよ。あと十日間でいまの自分を越えてやる」

 と拳をにぎる犬塚を見て、杉山はお前、と眉を下げた。

「話せばフツーにええやつやんけ。なんで初めはあんな尖ってたんや」

「ハ? 別にイイヤツとかじゃねえし。さっさと行けや」

「なんやツンデレかよ~!」

「ウゼェんだよ消えろ!」

 と。

 凄む犬塚の眼にもすっかり慣れた杉山は「ほなまたな」と肩まで抱いて、軽快にチームメイトの元へ戻っていく。

 そのやり取りを始終見守っていた大神。なにか言いたげに犬塚を一瞥し、しかしなにを言うこともなく犬塚へ背を向けてフェンスの扉に手をかけた。そのとき、

「おい大神」

 犬塚がつぶやいた。


「お前はとうぜん、七浦伊織より強いんだろうな?」


 一歩。外に出た大神の動きが止まる。

 わずかな沈黙ののち、大神は振り向きもせずに返答した。

「まだ分からねえ」

「なっ」

「いまのところ負ける気はしねえがな。ただ──負けねえと断言できるほど、俺はまだアイツの底も知らねえってことだ」

 テメーも油断しねえことだな、と。

 大神は口元を吊り上げわらいながら犬塚を振り返った。

 時刻はまもなく十八時半になる。


 ※

 味楽では、ジャージ姿の伊織がビール瓶を抱えた親爺と談笑していた。

 来店したレギュラー陣を見るや彼女は、

「あれェいらっしゃい!」

 と立ち上がる。

「どないしたんよ、みんなで」

「どうしたじゃねえだろ。お前と明前で行った偵察の結果、報告しないまま勝手に帰りやがって。わざわざ聞きに来てやったんじゃねえか」

 と、倉持が眉を下げる。

 レギュラー陣はいつもの如くカウンター席に並んで座った。もはやすっかり常連客であるが、大神だけは、彼のオーラと場末のラーメン屋の雰囲気がいまだに馴染んでいない。

「あーそっか」伊織の目がレギュラー陣をたどる。

 そのなかのひとり、すっかり元気になった杉山の姿にパッとわらって彼の肩を抱いた。

「オスギー! 元気になったん?」

「なんやピーコ──ってちゃうわ。だれがオスギやねん。ていうかいつの話しとんねん。世界はつねに一分一秒と先を進んどんねんで」

「やははははは! えらい元気やん、さては大神に奢ってもらう気やな」

「お前やないねんから──そんなことで簡単に元気になるかアホ」

「てかさぁ」伊織はくるりと明前を見た。

「薫クンが報告してくれたら良かったのに。わざわざうちまで来んでも」

「伊織さんがさっさと切り上げちまったんで、オレまだ水沢さんとD1の奴らくらいしか偵察できてねえッスよ。だから責任とってもらおうとおもって」

 飄々とした顔で明前が言う。

 が、伊織は「それで充分やんか」ととぼけた顔をした。

「S1の水沢、D1の速水と山本、ほんでS2の──犬塚とかいうヤツさえどないなもんか知っとけば、ほかの情報はいらんやろ。まさかうちのテニス部が青峰に一戦でも負けてD2まで回るわけないもん」

「ははっ。伊織ってばずいぶん俺たちのこと信用してくれてんだな」姫川がキャッとよろこんだ。

「ホント、その観察眼でそう言われると嬉しいよな」蜂谷もノートをめくってうなずく。

「や、べつに信用とかそういう──」

 と。

 伊織が口ごもったのをきっかけに、一同は顔を見合わせてにんまりとわらった。

「またまたぁ。オレたち知ってンスよ」星丸が言った。

「伊織先輩、さっそくうちのテニス部好きになってくれたんですね!」と、ほほ笑む天城。

「ホンマにこちらこそやで、伊織」

 ありがとうなぁ、と。

 杉山は包み込むように伊織の手を握った。

 そのぬくもりにいよいよおののく伊織が「なんやねん!」とさけぶ。

「なんで、みんなそんな今日……」

 妙にあたたかいんや──とつぶやくと、始終沈黙していた大神が片眉をつりあげてわらった。


「才徳テニス部、悪くねーだろ」


「…………」

 その一言で、伊織は勘づいた。

 パッと視線を杉山へ向けると、彼が「おおきに」と笑顔で首をかしげる。

 伊織はりんごのように頬を染めて、

「あのトンガリヤロー──」

 と毒づいてから杉山の手を振り払った。

「アホ、勘違いせんといて。うちが腹立ったからやっただけや。まあでもおかげで次の県大会が楽しみでしゃーないわ。どうせ水沢サンにも啖呵切ってもーたし、もはや実現するほかないやろ。ええか、可愛えマネージャーがこう言うてんねん」

 自分ら一回でも負けたら許さへんで、と。

 彼女はふっ切れた笑みを浮かべて、レギュラー陣に人差し指を突きつけた。

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