俺と試合しろ
第10話 県大会ドロー抽選会
いややーッ、と。
二年教室前廊下に、とある女子生徒の悲鳴が轟いた。無論のことだが七浦伊織である。
帰りのホームルームが終了した直後、B組教室から脱兎のごとく駆け出した伊織の襟首が、隣のクラスから伸びた手によって掴まれた。伊織は勢いあまって背中からスッ転ぶ。おそるおそる視線をあげると、A組廊下側一番うしろの席、ちょうど立ち上がった大神謙吾が口角をあげている姿が。
「テメー、なに帰ろうとしてんだ」
「いややーッ。うちはおうちに帰るんやーッ」
「安心しろ──ってのも変な話だが、今日はテニスをしに行くわけじゃねえ」
「エッ?」
と、伊織はもがく動きを止めた。
県の抽選会がある、といって大神はラケットバッグを肩にかけ、教室から出てきた。
「せっかくマネージャーになったんだ。抽選会の雰囲気を知っておくのも悪くねえぜ」
「県の抽選会」伊織の瞳が輝く。「賞品なに?」
「バァカ、県予選のドロー抽選会のことだ。対戦相手を決めんだよ」
「あっ、ふーん──いやだれが馬鹿やねん。関西人に馬鹿は禁句やて知らんのんかアホ! ど、ドロー抽選会のことくらい知っとるわ。それで? うちがクジ引いてええの?」
「引くのは俺だ」
「なんでやねん。うち行く意味ないやんか」
「マネージャーなら、他校のようすくらい把握しておけ」
オラ行くぞ、と大神は伊織の腕を引っ張って、昇降口へと向かった。もはや伊織も抵抗する気力はないようで、むしろ引っ張ってもらおうと大神の肩に手をかけてズルズルと引きずられる始末。
案の定、大神に蹴られたので、ぶつくさと文句を垂れながら地区予選ドロー抽選会会場へと向かった。
会場は同地区内の柳葉高校である。
ここも以前までは、地区選を突破する実力を有する学校であったが、昨年度は才徳相手に初戦落ち。悔しい思いをした学校でもある。
抽選会は講堂の一室でおこなわれるという。
案内にしたがって大神が会場へ立ち入ると、講堂に会した生徒たちが一斉にざわついた。昨年度、突如全国大会に姿を見せた才徳学園のエースであり、先日のインターハイで伝説となる試合を繰り広げた男──。
いまや才徳の大神といえば、各選手たちの打倒目標なのである。が、その背後から顔を覗かせた七浦伊織には関係ない。
どよめく生徒たちの顔をじっくり観察して、大神を見た。
「ほわぁーみんな黒々焼けとるわ。この中、大神の知り合いいてる?」
「──俺は中学の途中までアメリカにいたからな、こっちに知り合いはそう多くねえ」
「えっ、うそやん。うちもアメリカ生まれやで。五年くらいしかいてへんかったけど」
「アメリカか、如月とおなじだな」
「…………」
途端、伊織の表情が無に変わる。
あまりの分かりやすさに大神は噴き出した。クックッと肩を揺らす彼の姿を見て、周囲の生徒はまたどよめく。
試合時の、鬼気迫る大神謙吾しか知らない者にとっては、彼が笑うことすら天然記念物である。まるで芸能人の素顔を見た、とでも言わんばかりに選手たちは顔を寄せあって何事かを囁きあった。
が、そのなかの一人。
濃紺の詰襟を着た男子生徒が、肩を怒らせて大神のもとへ向かってくる。この制服はこの講堂に来る道中でもよく見かけた。
ここ抽選会開催校、柳葉高校の生徒である。
来たな、と彼は大神を指さした。
「才徳の大神!」
「よう、抽選会開催校としてのお役目ご苦労。昨年の初戦落ちは残念だったな」
「う、うるさい。今年はそうはいかないぞ、うちには粋のいいのが入ったんだ。おかげで俺はS2に格下げだが──」
「大神、だれコイツ」
「柳葉高校の部長。名前は忘れた」
「田中だッ」
「クックッ、冗談だ」
と、大神は才徳学園と記された席に腰をかけ、王族のごとき優雅な動きで長い脚を組む。ついでに、どこに座ろうかと周囲を見まわす伊織の腕を乱暴に引き寄せてとなりに座らせた。
柳葉高校二年、田中篤志は気取った顔で伊織に目を向けた。
「そちらは? 女テニか」
「うちの女子があってねえようなもんなのは知ってんだろ。コイツは──昨日から懐柔を試みている獣だな」
「だれが怪獣やねんアホか」
と、伊織が大神の足をぎゅっと踏む。
アホはテメーだ、とすぐさま伊織の丸いおでこに強烈なデコピンをかます大神。ばったりと机に伏せる獣を横目に、田中を見上げてわらった。
「ま、せいぜい初戦くらいは生き残れるところと当たるよう願ってやるよ」
「フン。あまりうちを舐めないでもらいたいな、昨年以外で初戦落ちしたことなどない。本来は代々強豪と言われる学校なのだから!」
「フーン、でも去年は初戦落ちやったんや」
「
「あー」
「う、うるさいッ」
と田中は頬を染めた。
安心しろ、と大神は抽選箱のうしろにかかった白紙のトーナメント表へ視線を向ける。
「今年うちはシードだ。初戦がシード校なのは左下Aブロックの枠ひとつ──よっぽど運がわるくなきゃ、初戦落ちの可能性はほぼねえだろ」
「ふ、ふふふ──どこまでも馬鹿にしやがって。まあいい、シードなどと舐めたことをいう学校にうちが負けるわけにはいかない。願わくばそちらとは決勝で相まみえたいものだな!」
と吐き捨てて、田中は自校の席へともどってゆく。
すごい捨て台詞やな、と伊織がわらったとき、会場の進行役である柳葉高校の教員が、マイクを手に前へ出た。
「これより、神奈川県予選テニス大会のドロー抽選会をはじめます。一同起立」
生徒たちが一斉に立ち上がる。
席を立つ所作ひとつまでうつくしい大神のとなりで、伊織は場に圧倒されたかワンテンポ遅れて立ち上がった。
「礼」
「よろしくお願いします!」
さすがはスポーツマンたちである。
みな他校に負けじと声を張り、若々しい挨拶が講堂内に響き渡った。教員は満足げにうなずき「着席」とひと声。うら若き選手たちはそわそわと落ち着かなげに着席する。これから始まる抽選会で、県予選の対戦相手が決定するのである。この大会を勝ちあがれば、全国選抜高校テニス関東予選への切符をつかむことができ、果ては全国大会まで。
正直なところ運も大きいこの抽選会。各々が唇を噛みしめて白紙のトーナメント表を見つめた。
その高揚感、緊張感は伊織にも伝わった。
「これが高校テニスか──」
「ああ。わるくねえ緊張感だろ」
「いうて大神はぜんぜん緊張してへんやん」
「この俺が、何に緊張することがあるんだよ。どこと当たったところで勝つだけだ」
「ま、大神はそうやろうけどなァ」
クジは、シード校を除く地区本戦勝利校、その他の学校、そしてシード校という順で引く。最後の方だと聞くや伊織は「えー」と不満の声をあげた。
「こないに数ある高校が引き終わるの待たなあかんの?」
「まあ見てろ。意外に楽しめる」
大神はわらった。
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