第9話 化け物は?
『続いてのスポーツ日本、元世界ランク十三位を記録した如月選手が、電撃引退を発表してから一ヶ月。日本に帰国してからの苦労と──』
ラジオから流れるスポーツニュース。
流れた瞬間、大将はチャンネルを切り替えた。まもなくはじまる野球中継のチャンネル。ビール瓶を抱える禿げ親父が「今日は勝てよォ」とうつろな顔でつぶやいた。
如月プロって、と倉持はとなりに座る杉山に目を向けた。
「桜爛の如月さんの親父だろ。急に引退したよな」
「もうええ歳やったしな、高校生の子どもがおるのにまだ現役やったんもすごい話や」
「ヘイお待ちィ!」
器が置かれた。味噌チャーシュー麺と塩バターラーメンである。
「あっ、俺の」
「塩バターラーメンってうまいんか?」
「ちょっと譲さん、匂い嗅いでないでこっち回してくださいよ」
「なんや明前のか。洒落たもん食いよるわー」
続々と出来上がるラーメンを前に、学生たちは歓声をあげた。すっかり親父の強面にも慣れたのか、満面の笑みでいただきます、と手を合わせる。
そんなかわいい子どもたちを見て、大将が強面の顔を伊織に近付けた。
「よかったなオメー、皆さんに迷惑かけてねえか」
「なに言うてんねん。今日が初日やでおっちゃん、かける迷惑もないやろ。なあ」
と、カウンター越しに倉持を見る。
彼女はいま餃子をあげる手伝いに入っているのである。
いやおまえ、と倉持は即座にツッコんだ。
「昼飯みっつとデザートふたつ、大神に奢ってもらったのをもう忘れたか」
「や、あれはほら。神様からの施しみたいなものやし──」
「やっぱりか伊織。そのオオガって子はどこのどちらさんだよ、エッ?」
と、一列に並ぶテニス部員をなめ回すように見つめる親父。姫川は「いまそいつ待ってんすよ!」と眉をしかめた。
蜂谷がちらと時計を見る。
「ここで待ち合わせてるんです。そろそろかな」
「道分かるでしょうか──」天城が眉を下げた。
「子どもじゃねえんだし、人に聞きながら来るだろ!」と、倉持は気にしない。
「あ、……」ふいに杉山が閉口した。
「ブッ──人に道を尋ねる部長とか、めっちゃウケるッスねそれ! ダセェ~!」
「だれがダセェって?」
と。
手を叩いてわらう星丸の背後から、声。この重厚な声音は、とおそるおそる振り向いた星丸が「ギャッ」とさけんだ。
「部長ォ!」
「ずいぶん楽しそうじゃねーか」
大神。
才徳の制服とラケットバッグを持っているのは同じなのに、こうも場末のラーメン屋が似合わぬ男もいないだろう。先ほどまでラジオに集中していた親爺どもも、彼のオーラに目が釘付けになる。
愛織は、と伊織がきょろりと周囲を見た。
帰った、と大神は肩にかけたラケットバッグをおろす。
「なーんや。で、どうやった? 愛織強かったやろ」
「ああ。いい腕だ」
「大神が勝ったか」
「俺をだれだと思ってやがる。負けねーよ」
と言うと、カウンター奥で大神をねめつける大将に向かって深く頭を下げた。
「才徳学園テニス部部長の、大神と申します。うちの部員が世話になってます」
「おう、兄ちゃんがオオガってのか。伊織がずいぶん世話になったみてえだな」
「こちらこそ──伊織さんは丁重にうちのテニス部へ迎えますから、ご安心ください」
「エッ?」
伊織の声が裏返る。
どういう意味だ、とレギュラー陣も目を丸くした。副部長の倉持でさえなにも聞いてはいない。
大神は伊織に視線を向けた。
「テメーには明日から、うちのマネージャーになってもらう」
「エッ!?」
「才徳に入る条件として、七浦伊織本人がテニス部に入ること、ってのが提示されているらしいな」
ざわついた。
伊織も、レギュラー陣も、なぜかビール瓶を抱える禿げ親爺も──みな息をつめて大神を見つめる。ただひとり大将は炒飯を皿に盛るため背を向けた。
「な、なんの話や。うち聞いてへん!」
「おかしいと思ってた。才徳高等部は基本的に転入生は認められねえって決まりがあるはずなのに、ってな。テメーの担任に聞いたぜ。七浦の親父さんがその条件を提示してきたと」
「────」
すると、伊織がぎろりと大将を睨む。
餃子をカウンターに置いた大将は「バカ、俺じゃねえだろ」とつぶやいた。そうやけどそうやない、と伊織は地団駄を踏み、
「うちイヤやで!」
と叫んだ。
「顧問の天谷先生は、すでにそのつもりだったみたいだぜ。ついでにさっき、テメーの入部届も出してきた」
「お、鬼──悪魔ッ」
「その代わり」大神はカウンター席に腰かける。
「三日に一度くらいは昼飯を奢ってやってもいい。もちろん好きなだけな」
「ぐ、…………」
「イヤそこ揺らぐんかい」
杉山は冷静にツッコんだ。
しばしの沈黙。ラジオからスリーランホームラン、と興奮したようすの実況放送が流れる。禿げ親爺は静かにガッツポーズした。
伊織がちらと大将を見る。大将はゆっくりうなずく。伊織はうつむいた。
「二日に一度──」
「フ、構わねえよ」
大神が、余裕綽々に微笑んだ。
────。
その日の夜。
大神は自室のベッドに寝転がり、今日の試合を反芻していた。無論、七浦愛織とやった試合である。
彼女は
繰り出されるサーブは強い回転がかかり、左に大きく跳ねる。おまけに速さもコースも的確で、外角に飛ぶサーブは大神でさえ慣れるのに数ゲームかかった程である。
とはいえ、正直大神の負ける相手ではなかった。
大神対愛織の試合はいやにあっさりと終わる。試合時間こそ短いが、ゲームカウントは6-4。
互いにサービスゲームをキープし続けた末、勝鬨をあげるは大神であった。
(七浦愛織、たしかに強いが──)
大神は瞳を閉じてその後の会話を思い出す。
愛織はゲーム終了後、
「強いなぁ、大神くん」
とわらった。
「俺から4ゲームとれたことを誇っていいぜ。関西一と言われるだけのことはある」
「おおきに」
と、ベンチに座り上品にタオルで汗をぬぐう。
そのとなりにゆっくりと腰をおろした大神は空を仰ぎ、顔にタオルをかけた。さすがに熱闘を二試合続けてやると熱が昂ってしょうがない。
日が暮れるにつれ少し肌寒くなった風が、心地よく熱を冷ました。愛織はフッとわらった。
「私と試合して、なにかわかった?」
「────いや?」
大神がタオルをわずかにずらす。
「わかったのは、アンタのテニスが俺とおなじだってことくらいだ」
「そう。残念やったね」
「でもねえさ」
「伊織のテニスは見た?」
「いや。アンタには勝てたことがねえって話だけ聞いたがな」
「あの子がそう言ったん」
「ちがうのかよ」
「──ううん、たしかにそうやな。でもあの子本気でやってくれへんから」
「…………」
大神はタオルをとり、ゆっくりと愛織を見た。
凛と伸びた背筋をすこし前にかがめて、汗をぬぐったタオルを握りしめる彼女の目の奥には、緑の炎が宿る。
「七浦愛織が関西一? 冗談やない。私は一度だって本気で戦うてもろたことなんかないんや。あの人も千秋も、みんな知っとる。ホンマにテニスが強いんは、──」
ホンマの化け物は、と。
つぶやいて彼女は立ち上がった。
「千秋が君を選んだの、分かる気ィする」
「なに?」
「伊織のことよろしゅう」
深々と大神に一礼して、七浦愛織は立ち去った。
(化け物は、七浦伊織──か?)
ごろりと大の字に寝返りを打つ。
かたくなにテニスをしようとしない伊織の態度も気にかかる。とはいえ、うまくテニス部のマネージャーとして引き入れることが出来た。
焦る必要はない。彼女のテニスを見る機会はこれから、山ほどあるのだから。
「クク、ククク──」
大神は右手の甲で視界を隠し、肩を揺らす。やがて屋敷中に轟くほど高らかにわらった。
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