第8話 味楽の大将
日暮れの早まった秋空は、午後五時をすぎてうっすらと茜色に帯びてきた。
ゆとりの森公園にたどり着いたのは、午後五時半をまわった頃。テニスコートまでの道を辿りながら姫川がなぁなぁ、と空を仰ぐ。
「今日の夕飯さ、遅くなりそうだしみんなで味楽で食ってかねえ? おれもうすっかり中華の腹」
「たまには朝陽も気のきくことが言えるじゃねえか、俺もラーメン食いてえ」
「オレもラーメンの腹やってん!」
と、倉持や杉山が盛り上がるうしろで、一年レギュラー陣は互いに顔を見合わせたが、すぐに各々の親へ連絡をいれるべく携帯を取り出す。
そのあいだに蜂谷は、大神に対して味楽の説明をした。伊織の世話になっている店と知るや大神は「ちょうどいいじゃねーか」とほくそ笑む。
(ちょうど?)
と、蜂谷が首をかしげる。
しかしその疑問は伊織の「すげーッ」というよろこびによって、あっという間にかき消された。
「こないお客さん連れてったらおっちゃん嬉しすぎて心臓止まるんちゃうん──ありがとう!」
「あれ、でも杉山おまえ財布ないんじゃ」
「ええねん。もう今日は潔く大神に借金することにしてん。明日返すわ、ぜったい」
「また大神頼みかてめー。どうせ食い終わったら奢りにしてくれ、とか言うんだろうがッ」
「いやホンマにホンマにッ」
と、倉持と杉山の追いかけっこが始まらんとしたとき、ふいに天城がアッと声をあげた。視線の先には、黒鳶色のブレザーとチャコールグレーのスカートを身につけたショートヘアの女子高生がひとり。足元には赤いラケットバッグ。
顔立ちは伊織と瓜二つだが、佇まいが妙に大人っぽく落ち着いている。伊織の髪をショートにしたとしても、その違いは一目瞭然だろう。
「愛織ーッ」
伊織がパッと駆け出した。
駆け込んできた妹をやさしく受け止め、愛織と呼ばれた女子はゆっくりと視線を才徳テニス部に向ける。
「ごめんな、待った?」
「いま来たとこ。さすが伊織やね、もう仲良うなったん」
「ん? ンフフフ、才徳えらい楽しいで。学食がホンマにスゴいねん。ビステッカなんちゃらとか、パトゥルドゥなんちゃらとか、メニューが和名とちゃうねん!」
興奮する妹に「スゴいやん」と姉は微笑んでうなずいた。
「それぜんぶ食べたん?」
「ううん、カレー、スタ丼、唐揚げ定食にした」
「えらいベタな──三つも、お金どうしたんよ」
「神様に転入祝いで奢ってもろてん」
「神様て。私が試合するのはどの人?」
「せやからその神様や。──大神謙吾」
と、伊織が大神に視線を向ける。対戦相手の名前を聞いた愛織の目の色が変わった。
「ああ、」
「──強いで」
「そらそうやろ」
含み笑いを浮かべた愛織が、ゆっくりと大神の前へ歩む。一瞬流れた妙な緊張感に大神を除くレギュラー陣は閉口した。
「どうも、七浦愛織です。妹がお世話してもろたみたいでおおきに」
「いや?」大神は眉をひそめてわらう。
「構わねえよ。転入祝いだからな」
「千秋とはずいぶん競ったとか」
「ああ」
と、どこかそっけない大神を横目に、倉持は「ていうか」と目を見開く。
「如月さんと知り合いなんだな──妹の方は知らないっつってたのに」
「伊織が?」愛織はちらと妹を見た。「フフフ」
彼女は一年レギュラー陣のなかに混じって、味楽でなにを食べるかメニューを考えている。愛織は微笑ましげにそれを見つめてから、大神に視線を戻した。
「試合しましょうか。更衣室はむこうです」
「ああ」
「ほなオレ審判入ろか」
とはりきる杉山に、大神は「いらねえ」と言った。
「それよりてめえら、先に味楽とやらへ行ってろ」
「えっ」
レギュラー陣はどよめいた。
日に二度も大神の試合が見られると期待してついてきただけに、その申し出は受け入れがたい。真っ先に倉持がなんでだよ、と抗議する。
しかし大神はその理由を答えることなく、
「試合が終わったら俺も行く」
とひと言告げるなり、愛織とともに更衣室へと入っていった。
「な、なに考えてんだあのヤロー」
「いつもなら試合見とけって言ってるッスよ」
倉持と星丸は眉を下げる。
まもなく、彼らはテニスウェアのすがたであらわれた。再度交渉する暇もなく、大神の「早く行け」という怒気の混じった声色に蜂谷は肩をすくめた。
「だめだ慎也。あのようすじゃ、俺たちが帰るまで試合をはじめない気だ」
「…………」
伊織は不服そうに姉を見るが、彼女も「あとで連絡するね」と微笑むのみ。なんとか一ゲームだけでも見たい、と樹の陰からこっそり覗くなどして粘ってみたが、大神にはお見通しなのかいつまでも試合をはじめる気配がないので、一同はすごすごとテニスコートをあとにした。
姫川が不機嫌につぶやく。
「でもまだ夕飯には早くねえ?」
「せっかく公園来たんやし、ボレーボレーでもしよか。伊織にもほら、ラケット貸したる」
「わーい」
「けっきょくテニスなんスね、俺ら」
明前が苦笑した。
────。
『味楽』は、昔ながらの雰囲気あふれる小さなラーメン屋であった。
三十分ほどボレーを打ち合う遊びを終え、腹が減ったとうるさい姫川の号令でやってきた。ガラガラとすりガラスの引戸が星丸の手で開かれ、才徳レギュラー陣がぞろりと入る。
中には、大股開きでビールをあおりながら、ラジオに耳をかたむける中年男性がひとり、ふたり。昼から飲んでいたのだろう、卓上にはビール瓶が五、六本と並んでいる。
カウンターの奥。
頬に深い傷をつけたスキンヘッドの親父が、豪快に鍋を振り、炒飯を作っているところだった。店入口には見向きもせず、ヘイラッシャイ、という怒号が高校生たちを出迎える。
ヒッ、と先頭の星丸がたじろいだ。が、
「ただいまぁ」
と、レギュラー陣の最後尾から伊織が顔を覗かせるや、親父はドンッと鍋をガス台に置き、ぐるりと振り返って、
「ようおかえり」
と強面を綻ばせた。
「学校どうだった」
「えらい楽しかったで。ほら、テニス部でこーんなに友だちできた!」
「なにィ」
親父はカウンターから身を乗り出し、才徳レギュラー陣をまじまじと見た。どこからどう見ても任侠崩れの親父である。
星丸と天城が真っ先に盾にしたのは姫川であった。こういうとき、彼ほど頼れる男もそういないことを知っているからである。
先頭に押し出された姫川は、一瞬キョトンとしたがすぐにパッと笑顔になった。
「どもッス。才徳テニス部の姫川です! ってかスゲーおっちゃんいかついな!」
「おう。伊織が世話んなったそうで、どうも。味楽の大将と呼んでくんな。突っ立ってねえでカウンター座んなよ。──学生さんはよく食うだろ、伊織の友だちってんならサービスしてやんなきゃ」
「あざーッス。よっしゃおめーら、サービスあるってよ。はりきって奥から詰めて座れ!」
「俺らがはりきる必要あります?」
と、明前が呆れ顔でメニューを手に取る。
品目数はそう多くないが、ラーメンスープの味は醤油、味噌、塩とバラエティは豊富で、学生たちはワッと沸く。
「俺、味噌チャーシュー麺!」
「塩バター」
「ここは醤油のネギ盛りやろ」
「塩チャーシューに煮卵トッピング!」
口々に食べたいものを声に出すので、蜂谷がおいと声を荒げた。
「一気に言うなよ。まとめるから──」
「ガッハッハッハ、大丈夫大丈夫。味楽の大将ってなぁ耳と記憶力がいいんだ」
作ってやるよ、と大将がおたまを手に取る。
「最初は塩のネギ盛りだったか?」
「なんで一個も当たらんねん!」
伊織は立ち上がった。
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