第2話 西の転入生
十月に入り、ようやく暑さのやわらいだ風が、からだの熱を冷ましてくれる。大神のすがたは──あった。部室棟に背を向け、テニスコートを見つめたまま微動だにしない。
その背から漂う気迫は、同級である倉持すらも気圧される。が、杉山は気にならないようで無遠慮に大神の肩に手を回した。
「オーガお待たせやで」
「遅ェよ」
「おまえが速いねん。なんや、カリスマ部長は汗の匂いまで花の薫りなんか。ッカァ~羨ましい」
「大神、鍵閉めたよ」
「ああ。よこせ」
大神は蜂谷から鍵を受け取った。
嗅ぐな、と迷惑そうに杉山を押しのけて、鍵当番である彼は職員室の方へと歩き出す。今日は始業式ゆえ、ほかの四人はこのまま体育館へ直行するところだが、なんとなく大神のあとにつづく。
三年生が引退した今、レギュラーメンバー八名のうち二年生はこの五名が選ばれた。選出は部内のトーナメント戦による。なにかと大神の存在ばかりが取沙汰されるが、この四名も実力は高く、先年の関東大会で才徳が準優勝を勝ち得たのも、一年生ながら健闘した彼らの存在も大きい。
いわゆる、才徳学園テニス部黄金世代なのである。
この仲間で全国優勝を狙う、と大神が宣言した日から、四人はなにかと大神のあとにつづく癖がついた。決して媚びているわけではない。それが自然の理のように感じた。ただそれだけの理由である。
大神の背中はすごい。
口にこそ出さないが同級のレギュラー陣はみな思っていることだろう。しかし、だからこそ越えたい壁でもある。とくに倉持は、この在学中で大神に一勝を挙げることをひそかに目標としている。
(じゃあ大神は)
倉持は先ほどの会話を思い返した。
実際、才徳のレギュラー陣のなかで大神の実力に敵う部員はいない。くやしいが、倉持もあと一歩及ばぬのが現実である。
テニスに限らずスポーツというのは、得てして強者と練習することで上達するものである。それを思えば、大神にとっていまの環境が物足りないだろうことは想像にかたくない。無論、この男はひと言だってそんな愚痴を溢したことはないが。
渡り廊下をゆく。
職員室前に着いたとき、これまで沈黙していた大神がくるりとチームメイトに顔を向けた。
「今度の県抽選会は明日だ。コートには顔出さねえから、そのあいだ部長代理たのむぞ、倉持」
「あ、もうそんな時期か──」
さっきは、と大神の目が嘲るように細められる。
「部室でぐだぐだとくだらねえこと話してたみてえだが、せいぜい出てきた反省点の改善でも試みるんだな」
「だッ、て、てめえ」
と、突っかかる倉持の肩を蜂谷が抑えた。しっかり者で頼りになると評判の倉持だが、煽られると途端頭に血がのぼるタイプなのである。
ともあれ一年以上ともにテニスをしていれば慣れたもの。大神は素知らぬ顔で職員室へと入っていった。
姫川がホッとため息をつく。
「沸点氷点下かよ、おまえ」
「うるせー」
「キレやすいと禿げるらしいで。気ィつけや」
「マジかよ!」倉持が頭を抱えた。
「うちの家系ヤバいんだよな──」
と、姫川までえりあしを指であそぶ。
おまえは?
と三人の視線が蜂谷に向くのと同時に響いた、失礼しました、という大神の声に反応して、蜂谷は「それより」と話題を変えた。
「ななうらってヤツの話」
職員室から出てきた大神の眉がピクリと動く。
「誰のことか分かった? 才徳に来るって話だったみたいだけど」
「ああ」倉持が拳を打つ。
「うちに来るってどういう意味だろうな。インハイから今まで、練習には誰も来てねえけど」
「ななうらってなんの話?」
杉山と姫川が目を見開いた。
そこからかよ、と倉持はあきれた顔をする。
「桜爛の如月さんが言ってたろ、自分のお墨付きで、大神のテニスに足りねえものを持ってるヤツが才徳に行くからって」
「テニス……ななうら?」
ムッと唇を尖らせて、杉山は天井をあおいだ。
「そんなん言うたら一人くらいしか思い浮かばへんな」
「一人思い浮かぶのかよッ」倉持がさけぶ。
「まだオレが大阪おってよ、関西ジュニア大会出とった頃にな。向こうで大会総嘗めにしとったヤツがおったんやんか。バケモンかってくらい強うて、関西やと右に出るもんおらんかったて噂」
「杉山はやったことあんの?」
「あるわけないやろ! 顔も知らんわ」
「え」
「おい」
どんな男だ、と大神が食いついた。
男ォ、と杉山はわらった。
「ちゃうねんちゃうねん。七浦って女や、女テニの七浦。
「お──女?」
「にしても如月さんが七浦と知り合いやったんは意外やな。バケモンの周りにはバケモンが集まるっちゅーことか、これぞ類友」
「しみじみ言ってる場合じゃねーぜ──」
と、姫川が浮かない顔をする。
その視線の先、拳を握りしめる大神のすがたがあった。肩はわずかにふるえ、いまにも叫び出しそうなようすである。それはそうだ。自分のテニスにないものを教えてくれる選手が、まさかスタミナやパワー面で劣るであろう女子など、如月に虚仮にされたと思っても仕方ない。
「おい──」
と、こんな状態の相手にも声をかけようとする倉持は、いいヤツを通り越して空気が読めないだけなのかもしれない。その指先が大神の肩に触れた瞬間。
「クク、ククク──」
と。
大神はおおきな手のひらで顔を覆い、笑いをこぼした。
「クハ、ハハハハ。ハーッハッハ!」
「お、大神──?」
どん引く蜂谷のうしろ、職員室の扉が開く。
それじゃ七浦さん、と体育教師の声が響いた。瞬間、大神以外の四人が同時にそちらを見る。
「始業式のあいだに校内案内するから、一緒についてきて」
おねがいします、と返事をする女生徒がひとり。
制服は見慣れぬキャメル色のブレザーと、ワインレッドのチェックスカート。見るからに才徳生ではない。
唖然とする一同のなか、大神だけはいまだに肩をふるわせ、笑いが止まらないようす。あの試合以来見なかった満面の笑みを浮かべて、つぶやいた。
「転入生だとよ。さっき職員室のなかで聞こえた……」
「ちょっと関西訛りやったで。まさかホンマにあの七浦愛織か!」
「やったじゃねえか大神、女子だってのはちと気が引けるけど──これで如月さんの言った意味も分かるかもしれねえな」
「ククク、クハハハッ」
可笑しいのか嬉しいのか。
ふたたび高らかに笑いあげた大神に、職員室から「笑ってないではやく始業式に行けッ」という教師のツッコミが入る。が、当人は聞いているのかいないのか。
姫川と杉山があわてて大神の手を引き、体育館へと向かう。校舎中に響き渡らんばかりの笑い声を聴きながら蜂谷は、
「お前が嬉しそうで何よりだよ──」
とつぶやいた。
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