終わりと始まりはチョコレートとともに

終わりと始まりはチョコレートとともに




「誕生日おぼえてない、ってさ! おぼえてないってさ!? ありえる!? 付き合ってる相手のよ!? 『うっかり忘れた』とかじゃなくそもそもちゃんとおぼえてくれてなかった、とか…………あーもームカつくー! しかも二年連続よ!? 二年連続スルー! ありえないでしょっ!? ねえっ!」


「あーうん、そうねー、ありえないわねえ」


 怒りに打ち震える私の目の前で、友人であり同僚である孝美たかみは慣れた風情で雑誌のページを繰っている。


 休日の昼下がり。

 いつもの喫茶店でいつものホットチョコレート。

 貴重な癒しのシチュエーション……であるはずなのに、なんだか今日は怒りでチョコ味まで微妙に感じる。

 なぜだろう? 香りはこんなにいいのに。


「だからフってやったんでしょ、あんたは。もう忘れなさいよ」


 もう何度も同じ愚痴を聞かされては孝美の反応がこうなるのもムリはない。

 それはわかるし申し訳ないと思ってもいるのだが。

 もう少し同情してほしい。

 ……って、我ながらメンドクサイな。


「それだけが理由ってワケじゃ……ないけどさ」


 ため息を吐きながら、力なく背もたれに体を預ける。


 デート中、同僚(男)から仕事の電話がかかってきても不機嫌になるし、街中で見知らぬ人(男)に道を訊かれて答えても半ギレされる。

 それでいて双方休みで会えるとわかっていた日に一晩中待っても音沙汰なく、つい心配で連絡すると「束縛すんな」…………って。

 何っっだそりゃ?!(しかもゲームに夢中になりすぎて存在を忘れられていただけ、という……。しかも開き直って「遊ばせろ」とかほざきやがった)


 爆発したくなるのも当然ではないのか。


 誕生日だって、向こうのは私どこにも何もメモってもないけどおぼえてるぞ。しっかりと。

 そういうものじゃないの?

 ちょっとひどくないか?


 物覚えがどうこうっていう問題ではないと思う。

 好きなら、もっと――


 ふっ、と。

 なぜか唐突に思い当たってしまった事実。


「……そっか」


 そこまであいつに好かれてなかった……んだ。きっと。

 ただ単に、それだけのこと。

 もうとっくに別れているし、気付いたからといってどうということもないのだが。


「ん、鈴音? どしたの?」

「あ、ううん、何でも。大丈夫。……けど今日はもう帰るね。なんか映画っていう気分じゃなくなっちゃった。ごめんね、またね」


 挨拶もそこそこに席を立ち、店を出た。


 物悲しさはなかった。当然か。

 呆れ果て、何もかもいやになって、ヤツの前から消えてやったのだ。

 番号やアドレス、仕事場も変え、引っ越しまでした。


 悲しくはない。ヤツに対して未練なんてこれっっっぽっちもない。

 怒りは……こうしてまだ度々顔を覗かせはするけれど。


 なんだろう?

 虚しい、という感じが一番しっくりくるのかもしれない。


 おぼえてもらえない。

 忘れられる。

 でも。

 それはきっと、自分のせいでもあるのだろう。

 相手にとってそこまで大きな存在になれていなかったのだと……。

 思い知らされる。

 その程度なんだな、私って。いつも……いつも――


 家路についていた足が、ふいに立ち止まる。

 何かが気になった。

 とたんに目隠しをほどかれたように、辺りの視界が開けたような感覚。

 が、自身をとりまく空気のモヤモヤはずっと晴れない。足も重い。

 相変わらずチョコレートのいい香りは漂っているのに。


 ……ん?

 チョコレート? 何を考えてるの、私……?


 襲いくる違和感に、思わず周囲を見渡す。

 見知った街並みに人影はない。


 ――――え。人が、いない? 誰も?


 こんないい天気の日曜の午後なのに? 一人も出歩いていないなんて……ありえない。

 しかもこんな街中で――……え?


 気付くと、立っていたのは街中ではなかった。

 駅からそう離れてはいないが、繁華街とは逆方向の静まり返った細い通り。

 しかも陽が落ちて辺りはもうすっかり暗くなっている。


 どうして? 店を出たのは昼過ぎのはず……。

 それに、どうして私……こんなところを歩いているの?


 というか……そういえば帰り際、孝美はどんな顔をしていた?

 あれ?

 そもそも……映画?

 何の映画を観ようとしてた?


 どくりと鼓動の速度が上がった。


 ここは、知っている。

 この場所を知っている。

 引っ越す前の、まだヤツと付き合っていた頃に住んでいた町。

 そう……あの角を曲がると、私が借りていたアパートがあって。あいつも何度か来たことがあって――


 意思に反して、足は再び動き始める。

 イヤなのに。そっちには行きたくないのに。

 だってそっちには――


 角を曲がって暗がりから人影が現れる。異様に足音を響かせて。

 パーカーのフードを目深にかぶったあいつだ。


 近付きたくないのに足は止まらない。

 自分を呼ぶ遠い声。

 やめて。止まらない。

 もう関係ない。声。来ないで。どうせ好きじゃないんでしょ。消えて。

 パーカーの腕がゆっくりと持ち上げられて近付く――


「!?」


 肩をつかまれて悲鳴をあげた……つもりだった。




「鈴? どうした?」


 目が覚めた……ここは、自分のベッド。

 私の部屋、だ。今の。

 もちろん引っ越したあとの。


 そして心配そうに顔を覗き込んで肩をさすってくれているのは、あいつではない。別の男性。

 去年付き合い始めた、今の恋人――。


「夢……」


 安堵とともにじわり、涙が浮かんだ。


 どうして今さら、あんなヤツの夢なんて……。

 別れてからもうすぐ二年になるのに。

 しかも、なんだってこんな……ヤツに怯える、みたいな夢を……?

 さすがに暴力的なことなんて何もなかったのに。


「大丈夫? ずいぶんうなされてたけど」

「あ……うん。ちょっと怖い夢を、ね。……あ、ごめんね。私寝坊?」


 見ると、スマホの時計表示は6:08。

 肩をさすって優しく髪を撫でてくれる彼がとっくに起き出し、しっかりワイシャツまで着込んでいたので、もっと遅い時間かと思ったのだ。

 これは遅刻ギリギリに二人して出掛けるパターンか、と。


「まだ大丈夫。寝直してもいいよ。朝飯できるまでまだ少しかかるし」


 そう笑う彼が、よく見ると菜箸を手にしている。


「え、作ってくれてたの!? ご……ごめんね! 今、私も」

「いいよいいよ。今日は特別だし」


「え」


 特別?

 あわてて飛び起きたところを軽く制されてキョトンと彼を見る。と。

 あー……しまった……と、なぜか彼はこめかみを掻いて苦笑いしている。


 リビングのテーブルには見たこともない淡いラベンダー色のクロスが掛けられ、サラダにスープ皿、まだ空だがグラスが置かれている。

 ふんわり漂っているこの匂いから察するに、あの空いた中央にはおそらくスクランブルエッグ、そしてホットサンドあたりが加わるのだろうか。


 準備されつつあった二人分の朝食。

 茫然と、でもあたたかなものを胸に感じながら、立ち上がった彼を見上げる。


「……ホントは全部できてから起こして、びっくりさせようと思ったんだけど。俺どうもキマんなくて……ごめんな?」


 ため息まじりに彼は笑った。


「夜はほら……今日は俺、前から言ってた接待あるし。でも絶対今日のうちに!って思ったらやっぱり朝しかなくて」

「……」

「誕生日おめでとう」


「知っ……てたの?」

「孝美ちゃんに聞いた。鈴が教えたくなさそうだったから」


 じゃあ、もしかしたら……その理由まで彼はもう知っているのかもしれない。

 小さい女だ、とガッカリはされなかった……ということか。

 こんなことまでしてくれる、ということは。


「ごめん……ね。前の、ことは言いづらくて私……」

「言わなくていいよ。眼中ないもん、前の野郎のことなんて」


 ニカッと笑って彼。

 起きるんなら作っちゃうよ?と菜箸を手にキッチンへと戻っていった。


 外ではわりとおとなしめで、感情を表すこともなく、口数も少ない方らしいのだが。

 私にだけこんな表情を見せてくれる。

 そんなところも好きなのだ。口にだして言ったことはないが。


 あらためて自覚すると妙な恥ずかしさが込み上げてきた。

 見られていないのをいいことに、ムダにじたばたと布団の中で暴れてしまった。




 Tシャツで寝ているので、いつもはスウェットパンツだけはいて起き出すところを、せっかくなのでしっかり着替えてメイクも済ませ、テーブルに着く。


 ほわりと白い湯気を伴って、卵とホットサンドが運ばれてきた。

 そして――


「はい、これも」

「わあ……!」


 追加で私の分だけホットチョコレート。


 そうか……ずっとこの香りが呼んでくれていたんだ。

 夢の中まで。

 レンジにでも閉じ込めておいたのだろうか? 卵の香りほど漂ってきてはいなかったということは……。


「まだ、一年もたってないけどさ」


 くふふ、と小粋な演出に感動していると、やけに感慨深げな笑顔で彼が向かいの席に着く。


「鈴の好みはよーくリサーチしたつもりだよ」


 そして差し出されたのはGOD○VAの特大サイズ。


「ぶっ」


 確かにチョコ好きだけど、嬉しいは嬉しいプレゼントだけど……。このサイズをどうしろというのか。

 甘いものがあまり好きではないこの彼が手伝ってくれるとも思えない。


「い……一緒に食べて、くれる?」

「ムリ。でも見守る」


 頬をひきつらせながらおそるおそる訊ねるも、あっさり拒否られた。

 じゃあせめて見守ってもらいましょう、どんなにデブっても!

 言葉どおり。ええ。

 文句なんて言わせないもんね。


「ずっと見守って、こうやって美味しいチョコレート買ってあげるからさ……」


 特大GOD○VAの上に、真っ白でふわふわのリングケースがちょこんと置かれた。

 ぱふっと開かれたそこにはシンプルなシルバーリングが鎮座している。

 三つの小粒なジルコニアと、それに守られるようにして中央で煌めくのは深紅のガーネット。

 私の誕生石……。


「結婚しようか? 鈴音」


 ちゃんと見ててくれたんだ……。

 私のことを知っていてくれた。


 やっぱりこの人だ。


 優しい笑顔にあっという間に泣けてしまいそうだったので、まばたきは我慢した。


「は……はいっ。光栄です! よろしくお願いします、西野先輩! 頑張りますっ」


 ここは職場か……と苦笑しながら、それでも彼も心底安堵したように手のひらで額を覆っていた。

 ほんの少しだけ冷めたホットチョコレートを一口飲んで、彼と笑いあい、私はこの上ない幸せをかみしめていた。






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