一寸の虫にも五分のなにか・前編


マメ知識をひとつご披露しよう。

Gことゴ〇ブリは漢字で書くと「蜚蠊」である。ふつう読めない。

ところがぼくはこれを読めるし、書ける――じ、自慢とちゃうで!

なんでかっていうと、それはぼくの苗字に理由がある。

ぼくの苗字、「蚕豆さんとう」の読みはもうひとつあるのだ。


――「そらまめ」である。


ソラマメ。まじでソラマメ。野菜の。

緑のぶっといサヤに、開くと白いワタ、そしていわく言い難い独特のかほりを放つデカいマメ。あれね。

一般的には平仮名カタカナまたは「空豆」という表記がなされることが多いが、「蚕豆」とも書くことができる。へー、と思ったあなたは今、新たに一つ賢くなりました。


ぼくが自分の苗字のもう一つの読み方を知ったのは、小1の時だった。

「お、めっずらしい苗字やなあ。これで『さんとう』って読むんか」

ピカピカの一年生として入学した4月、初めての登校日、初めての出席を取る段になって担任が教えてくれやがったのだ。ぼくの番の時に、わざわざ。

「お前知ってるかー? これ『そらまめ』って読むこともできるんやで」

そう言ってあっはっはと笑った担任は自身のデリカシーのなさが全く笑えないレベルであることにとうとう気付かなかった。そして小学校初の一時間目は終わった。

(変なあだ名つけられたらどうしよ……)

休み時間を知らせるチャイムを聞きながら、ぼくは震えていた。幾人かの不躾な視線が自分に向けられているのを感じていた。

自分の今後の六年も、このチャイムとともに終わる――かに思えた。


授業が終わるなり小1にしては身体が大きめな男子たち悪ガキがぼくの机を取り囲んだ。

「なーお前の名前そらまめやってー? 変な名前」

「オレめっちゃソラマメ嫌ーい。くっさいもん」

「ちょ、まってえ! そういえばなんか変な匂いしてけえへん?」

「うーわほんまや~」

「うーわくっさ~」


「やめいや!」


その一言。たった一言が、ぼくを救った。

声の持ち主は女子。左手を腰に当てた委員長っぽいポーズで、右手にはなぜか棚にしまったはずのランドセルをぶら下げていた。

男子たちは一瞬ひるんだが、すぐ乱暴な叫びをあげた。

「女はどっか行け!」

「うっさいんじゃボケ!」

――言うが早いか。

その女子はボケと威勢よく吐き捨てた男子に向かって、ランドセル片手に飛びかかっていった。

「ソラ、マメの、どこがっ――悪いねん! 名前っ、なんか、なあ! 選ばれ、へんやろ――っ、この子に謝れ!」

音節を区切るごとに、ランドセルが猛威をふるった。ボコされる男子たち。圧倒的な強さだった。ぼくはただ呆然として震えているだけだった。

最終的には、騒ぎを聞きつけて飛んできた担任にまで食ってかかる始末。

「先生ほんまに先生なん? あの子の名前のこと面白がったりしてさあ――先生が笑うからコイツらも笑ってええんやって勘違いするんやんか。ちゃんと謝って!」

小1女児とは思えないちゃんとした「批難」だった。

担任は明らかに狼狽えていたが、何だかごにょごにょと言い訳がましいことを口にしただけで、謝罪はなかった。

が、ぼくにはそんなことはもう、どうでもいいことだったのだ。


「あ、ありがとう」

それ以外に言えることが他に何かあっただろうか。

まるでヒーローのように助けてくれた彼女に送りたい賛辞はまだまだたくさんあったけど――凄い勇気だと思った。憧れた。ちょっと暴力的すぎるきらいはあったけれども――ぼくは全部ちゃんと言葉にできるほど達者ではなかったのだ。

拙すぎる感謝。

ようやくそれだけ口にすると、ぼくが見事に初恋を捧げることになった女子は、にかっと白い歯を見せて笑った。前歯がまだ不揃いだったが、それもかわいかった。

「下の名前なんて言うん?」

「刑。け、刑事さんの刑って書くんやって」

「めっちゃかっこいいやん。なあもううちら友達やんな? けーくんって呼んでもええ?」

「えっ――ええで! そっちは? 名前……」

「ちよやで!」

「ちよちゃんかあ……」


こういう体験のおかげで、ぼくは今もって「ちよ」という名前にはいいイメージしかないわけである。

――だからってに同じ名前をつけるのはどうかって?

いやちゃうねんて。

女の子の名前の中で最高のもの=「ちよ」っていう印象やったからさ、こう……悪気なく、ね? 変な意味は決してなかったんやで。初恋の人の名前やけども!

……めっちゃ脱線したな。


ぼくは小1で自分の苗字にもう一つの読みと、意味があることを知った。

そしてそれがきっかけで、初恋の人と仲良くなった。

さらにそれがきっかけで、漢字にも詳しくなったねん。

だって国語の音読でわからん漢字にちよちゃんが詰まった時、たまたまで解って教えてあげたら感謝されちゃってさ。好きな子にお礼とか褒め言葉とか、もろうたら舞い上がるやん? 男子って単純やでな。今では難読漢字もどんと来いや。


――すっかりちよちゃんとの甘酸っぱい思い出に浸りきってもうてたな。


「ちよちゃんっ」

直前に気付いて声を上げたが、むなしいものになった。洗濯物中のちよちゃんの不慣れな手から、風はあっけなく干すべきものを奪っていった。ただの手ぬぐいだが。

今目の前にいるちよちゃんは小1のぼくの初恋の人ではない。

しかしぼくの真心を捧げた存在ということにはかわりないのである。

「あ~……ごめえん、落としちゃった」

「かまへんかまへん」

しょんぼりと肩を落としたちよちゃんを慰める。初めてのことだらけで戸惑っているのは彼女ばかりではない。


(洗濯機のありがたさよ……)


ただ今のぼくらはドSことヒス子の言いつけに従って、洗濯物の真っ最中だ。

これが思ったより難易度が高く、まずこの幽世に存在するという屋敷には文明の利器というものはほとんど存在しない。したがって全てを人力かつ手動によって遂行しなければならないわけである。

といって洗濯物はそう多くない。なぜなら昨日の今日ここでの生活が始まったばかりで汚れ物がさほどないからだ。

最大の汚れ物(ぼくの服と靴)はもうこの世に存在していないともいう。ちなみにここの主人であろうヤツの着替えなどは一切含まれていないのだが、自分の洗い物はどうしているのだろう。

しかしやはり水仕事の大変さたるや、筆舌に尽くしがたいものがある。何しろ井戸から水を汲むことから始まるのだ。誰か水道を開設してくれ。


朝食ミーティングでキレたヒス子が落ち着いたあと、ぼくは一応は雇われ人であることを承知した。

これで晴れてこの世界の害虫、いや――害蟲駆除係として働くことになったわけである。どのみち寿命を盾にとられては断りようもないのだが。

それでは早速、とまたもや「庭」に放り出されることを覚悟していたのだが、上司ヒス子は「ひとまずここでの暮らしに慣れる事が先決」という判断を下した。

――その結果の現状である。


(うーんこれどうしたらええか……ヒス子に聞きにいかんとあかんかなあ)

新しい職場で初歩的な問題が生じた場合。些細なことでも質問するのがトラブル回避の鉄則! とはわかっているが聞きづらいよ~。

些細な問題。

すなわち洗濯に使った水をどうしたものやら、である。

そのままこぼしてもいいのか――何しろここはよくわからんが神様的なものが支配している世界らしいので。穢れが問題で害蟲問題が起こっていると聞いた以上、こういう排水の処理ひとつとっても下手を打てなくて困る。

「ヒス子のやつほんまレクチャー不足やっちゅうねん――あ、そういやヒス子? ヒス男? しまったなー、どっちかわからん。ちよちゃん知ってる?」

「なになに~? もしかして半神さんのこと?」

「アイツが男女どっちか知ってるんかなーと思って。ついでにこの水どうすべきか」

「知らないよー。半神さんは半神さんだよ。お水って飲むものなんじゃないの?」

この水飲めってか。思わずのけ反りそうになったわ。

ちよちゃんの知識の範疇というか、度合い? についてはかなり曖昧であると言わざるを得ない。


水は飲むだけちゃうねんよ、と優しく教えてやりながら、ぼくはさらに気になっていたことを尋ねてみた。知っているとは期待していないが。

「その『ハンシン』ってひょっとしてあれ? 半分神様やで~的な意味での半神?」

「ん~? それも知らない。半神さんはー「半神さん、なんやねオッケー」

やはりちよちゃんは詳しい事情に通じてはいないようだ。

(けど多分正解やろ。それ以外の漢字変換思いつけへんもん)

阪神、は論外であるようだし。


う~ん、とぼくは両手を腰に天を仰いで思案する。

横でマネをしてくれるちよちゃん。この子はなんでもぼくのマネをすることで学習していくようなのだが、それがいちいち可愛いので困る。

足元に置いた洗濯物用具(これは用意してあって物を渡された。自身の洗濯物はないらしいのに、どうしてそんなものがあるのやら)を見下ろしてまだ思案。

ちよちゃんもう~ん、と唸っている。意味を理解してはいないだろう。


(しゃあない)

ここが新しい職場なのだ。職場には職場ごとのルールがある。自己の判断は禁物。マニュアルがある場合はまずチェックすることが大前提だが、そんなものがない以上……。


「よっしゃちよちゃん。その半神さんにちょっと質問しにいこかー」

「よっしゃ、行こかー!」

ぐっと片方の拳を前につきだすちよちゃんはやっぱり可愛かった。












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