一寸の虫にも五分のなにか・後編


母の胎から生まれ落ちたわたしを見た瞬間、人々は一様に青ざめた。

布に包まれ人の手に手に渡されていたわたしは、まだへその緒を切られたばかりの赤子だった。

最後に「旦那様」と呼ばれる男の手に渡されようとしたところを、その男自身が拒んだ。かわりに赤子を包む布を持ちあげ、その身体を一瞥するなり、呪わしいと言わんばかりに歪められた顔。


――昔の話だ。

男にしては足りない身体。女というにも歪な肉体。

男でも女でもない奇妙な命を、あるがまま受け入れてくれる場所を、世界はまだもたなかった。その狭量を責める者もまたおらず――事態を憤る者と、嘆く者だけがあった。


「――物の怪だ」


それがわたしの肉の父が、わたしを呼んだ名となった。最初で最後の名前。

もっとも彼は己が、物の怪と呼んだモノの父であるとは認めたがらなかったが。


「お前っ……正直に言え! 何と目合まぐわいおった!?」

「ち、ちが、う――きっと、水に混ぜ物が……それでこんな……私は、何も」

「寝所で気味の悪い男を見たと、下女が申しておったのだぞ――っ嘘を吐くな!」


そう喚きたてる父に殴られて、産みの母は死んでしまった。正しい主張は一顧だにもされず――かわいそうに。

けれどもどのみち命はなかったろう。彼女は出産で力を使い果たしていたから。


「それで旦那様……いかがなさいますか?」

「――捨てろ」


――虫けらも同然だったのだろう、と思う。


下女は旦那様の言いつけに従った。

「捨てろ」という以外には何も命じられていないから、一息に殺してやることもせずに放り出した。

屋敷から離れてさえいればいいと考えたのだろうか、人里を外れた山道に入るなり、ほとんど無造作に赤子を地面に置いた――それで逃げるように踵を返した。

山奥にまでは入りたくなかったのだ。もう夜更けだったから。あとは山犬が喰ってくれる。残りを鳥がつついて、それでおしまい。


夜に、月が白々と昇った。

ついに誰にも祝福されることのなかった命は、害をなす虫けらのように邪魔にされて捨てられた。身を包む布も取り去られた素裸で、尊厳など欠片もなかった。

その悲惨をくむ者などいない――かに思えた。


「どうしたことだ――こんな夜更けに」


かつて赤子であったわたしは見た。

夜に丸く口を開けたかのような月が、形を歪めるのを。

そこから、吐き出されるようにして現れた男を。

わたしは夢中で手を伸ばした。まだ赤々とした醜い手を。


――実のところ、しかと覚えているわけではないけれど。

(あの人がそう教えてくれたから)

わたしの記憶はあの人でできているから。


果たして、月から降ってわいた男は赤子のそばに立って、伸ばされたその手をつかまえた。

そして笑った。つかまえた手があんまり小さかったので。


「ずいぶん酷い目をみたんだねえ、まだこんなに小さいのに」

ことだ、と続けた男はちらりと人里の方を一瞥し、わたしを抱き上げた。

ついで着ていた上衣を脱ぎ、風前の灯を両の掌で守るようにして包む。


「名前を、考えなくてはね」

男は相手が赤子であることなどには頓着していない様子で言って聞かせた。歌うような調子の声で。

「ああそうだ、とっておきのがある――『    』」


物の怪でも、虫けらでもない。

あの人がくれた名前。

それが――それこそがわたしなのである。









いつものように住処である屋敷が気まぐれにその姿を変えようとする、一瞬のことだった。

緩んだ境界――幽世と現世を隔てているそれが、常になく大きく形を変えた。


「子猫ちゃん、ひっさしぶり~」


異常を察知するのと同じくして耳を撫でる不快な音は、まさに猫なで声。

視線をやった先、いるはずのない姿が目に入る――久しく見ていなかった、見たくもなかった存在がなぜ、今ここにいる。


「誰が子猫ですか――立ち去れ凶会くえ

「うっせえよ弱者の虫ケラが。テメェに指図されるいわれはないんだっつの」


さっきまでの猫なで声はどこへやら。突如として現れた招かれざる客は、己が邪悪と凶暴を隠そうともしない。


(最悪だ。コイツがやって来るなんて)


ほぞを噛む思いでいるところへ、さらに追い打ちがかかった。

のん気そうに手を振ってやってくる姿に呻きをあげそうになる。


「うおーいっ、ヒス子~。あのさーちょっと確認やねんけど――ってあれ、来客中?」

「どいつもこいつも――誰がヒス子ですかっ」


――本当に最悪だ。彼らが顔を合わせるなんて。



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