第25話 重力の底へと

 砲弾が向かう先はロンドン上空、壮絶な冷気と熱風逆巻く戦艦の上。

 戦場の様相はつい先ほどまでのダンスホールとは違い、激しい爆音が支配していた。


 空からは砲弾の雨が降り注ぎ、甲板近くで2回目の爆発。

 エヌは氷の壁を作って爆風を阻み、グレーは自身から熱風を吐き出し飛来する破片を弾き飛ばす。


 二人に等しく降り注ぐ攻撃ではあれど、戦闘の趨勢は先ほどより大きく変わっていた。


「其方のあるじ様はなかなか大胆だな。自身の大切な稚児ごと私を討たんとするとは」


「いいえ!エヌは理解しましたよ、あるじ様が何を考えているのか!」


 少女はそう言って音を頼りに、砲撃の隙間を縫うように滑べるように飛び、そのまま勢いに任せて怒涛の突き蹴りをグレーに向かって連続で放つ。

 先ほどまでのグレーならば剣の盾でエヌを近づけさえしなかったであろうが、今のグレーではレイピアを取り出しその攻撃を逸らすまでの距離にいた。


 それもそのはず、グレーは周囲にいくつもの剣を集めて盾を作ると、自身の船に当たらず眼下へ落ちようとする砲弾の全てを防いでいる。

 何度も鐘を鳴らしては複雑に盾を操作し、エヌとの戦闘を繰り広げながら一つも砲弾の防ぎ漏らしを許さない。


 どちらも精緻極まる人外の絶技。しかし二つ同時に行えば、たとえグレーであっても僅かに隙が生まれる。

 事実、エヌの地を這うような低姿勢からの蹴り上げは遂に、グレーの軍服を掠めた。

 到底ダメージには結びつかない、されど初めて届いたエヌの一撃。しかしてそれは確かに一筋の光であった。


「ここまで来たか!愛い!愛いぞ!さあ次はどうする!首か?心の臓か?腸を叩いて破るか?己が強さを私のこの眼に焼き付けてくれ!」


「いきなり目を見開いてなんなんですかもう!こっちに来ないでください!」


「来ないのか?それなら私からいくぞ!」


 その言葉とともに、グレーは深く深く足を踏み込み、音を置き去りにするかのような神速の刺突。


 エヌは脚の大剣から咄嗟に冷気を逆噴射すると、両の腕から鎖を伸ばし、蜘蛛の巣のように編みレイピアを絡めとる。

 接触面から冷気を這わせ、氷で鎖ごとレイピアを密封しようと試みた。

 ここからは単純な力比べ。エヌが進ませんと押し返す力とグレーが押し貫かんとする力、否、もはや意地と意地のぶつかり合い。

 甲板をゴリゴリと食い込んだ大剣が削りながらも、グレーの猛進を止めるには至らず。


 レイピアがエヌの体内2mmを食い破り、そのまま深く深く切り裂いていく。食い込んだ刃はブチブチと代謝性アラミド繊維一本一本を千切る感覚が伝えられ、辺り一体を潤滑液で彩色した。

 細剣を振り抜いたグレーの手によって袈裟斬りにされたエヌは、その右手が分断され、遥か地面へと落ちていく。


 エヌは目尻に涙を浮かべるも、下唇を強く噛んで、そのまま鎖を引き寄せグレーのレイピアを絡めとった。

 そのまま不意をつくように細剣ごとグレーを引っ張ると、勢い任せにヘッドバット。

 お互いビリビリとした振動が体を駆け巡るが、事前に心構えができていたエヌが一瞬早く立ち直れる。


「【氷雪ッ、機巧ァ!」


 エヌは痛みを堪えながら、脚、背中を問わず排気口を展開。来るべき衝撃に耐えるため、ゴウと台風の如き大風を吹き荒らせた。

 自身とグレーの体に莫大な加速度の負荷を掛けながら、エヌは迷いなく前進する。


「―まずいっ」


凍土不偏の剣デッドエンド・フロストバイト】!」


 刹那、エヌの体が後ろに吹き飛んだ。

 それは放った本人さえ目で追えぬほどの高速で放たれた水平蹴り。

 自身と空気の間に生じる莫大な摩擦熱、それをさらに氷雪機巧で冷却し繰り出す一撃。

 グレーでさえ目を見開いた一撃、しかしそれには当然反作用も存在する。

 エヌの体はゴム毬のように甲板を跳ね、そのまま地面を擦過した。やや遅れて、折れたエヌの左脚が首筋を掠めて地面に突き刺さる。


 そうしてエヌの放った攻撃の、その威力は如何程か。

 そこにあったのは、切り開かれた艦橋ではない。折れた艦砲でも、事切れたグレーの姿でもない。

 そこには、ただ英国の空があった。視線を遮る一切全てはそこになく、ただこの日のロンドンの、晴れ空だけが見えた。


「やってくれたなァァァエヌよ!良い!それこそが我らだ!何者にも阻まれぬ地獄のうちに生まれた力こそ我らだ!」


 瓦礫の下からグレーが炎を巻いて立ち上がる。純粋な笑顔を浮かべ、獰猛な狼のように口角を上げる。

 彼女とて無事では無い。何百本ものレイピアの盾は皆一様にひしゃげており、それでもなおそらし切れなかった攻撃の余波はグレーの右肩から先が消し飛んでいた。


 しかしグレーはタダでは転ばず、エヌの攻撃を逸らすついでに少女の右肩を千切り取っている。

 それをポイと船外に捨てると、腹から大声を張り上げた。


「ハハ、ハハハ、ハハハハハ!これで終いか!?まだ私は立っているぞ!まだ貴様を機関に変えようとする、厚顔無恥で傲慢で尊大な貴様の敵はまだ立っているぞ!」


 遥か上空に飛んで行った戦艦の艦橋へ向け、グレーは強く鐘を鳴らす。赤く色づいた熱風が巨大な構造物を取り囲むと、巨大な質量の弾丸として回転を加え、放たれるのは今かか今かと待ち構えていた。


 普段のエヌなら避けられる鈍重な一撃。されどエヌは動かない。動けない。

 脳震盪か、不整脈か、原因はもはやここに至ってはさほど重要では無い。ただそこには意識を失い、ただ本物のように物言わぬ人形が一体あるのみ。

 クルクルと地へ落ちていく腕だけが、悲しく空を彩った。

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