第13話 空落ちる鳥
夜の空を落ちていく。
瞬く間に戦艦が小さくなっていき、風がゴウゴウと少女の体に叩きつけられた。
「すっっっっごい寒いですね空って……!」
エヌは悪態をつきながらどうにか残った片足で体のバランスを取ろうとするが、奮闘虚しく徐々に体の制御を失っていく。
ただでさえ薄ぼんやりとした夜明け前の暗い空、上下感覚が掴みにくい状態での決死行はあまりにも無謀だったのだ。
頭の上下、暗い空と燦然と灯る都市の街頭たちが何度も入れ替わり始め、自身がどこから風を受けているかの感覚が分からなくなっていく。
「不味いですっ…こうなったらパラシュートでも開いてみるしかないですね!」
エヌは片方のみの脚を大きく曲げると、そこから細い氷の蔦を爪先から作り出す。
それがパラシュートをしまっているバッグのピンに絡み付き、ガクンと彼女の体が上に強く引っ張られた。
エヌが釣られるように視線を上に向けると、そこには開いたパラシュート。
少女はほっとため息をつくが、それもすぐに焦りに変わる。一旦安定したかに見えてはいたものの、やはり徐々に体の軸がブレ始めた。
落ちる速度は遅くなったものの依然無事に着地するには至らず、きりもみ回転さえし始めていく。
「不味いです不味いですよっ!なぁぁっ目が回りますっ!」
みるみる地面との距離は縮まり、それと同じくして彼女の顔色がどんどん青白くなっていった。
地面にぶつかると直感し思わずギュッと目を瞑るエヌ。来るべき衝撃に備えて身を強張らせるがその直前、とても聞き慣れた声が聞こえて来る。
「ッ―――【偽典・氷雪機巧】!!!」
唸る自動車のエンジン音と、急ブレーキのゴムの匂い。そして透き通るような雪の冷香。
彼女の身にやってくるべき衝撃は無く、ボスンという間の抜けた音と共に柔らかい雪に埋もれていった。
ズブズブと雪の深みへと沈んでいくが、それもいっときの事。雪を掻き分け伸びてきた手に首根っこを掴まれると、勢い良く外へ引っこ抜かれる。
「エヌ!早く乗って!」
「あるじ様!?どうしてこんな危ない所に!」
あるじ様は崩れて塵と化していく人形の手を放り投げると、口を挟む余裕な様子は無いまま勢い良くエヌを手繰り寄せる。
「質問は後!今はとにかくこの場から逃げるわよ!」
まだ薄暗い未明の空、シャープな形の自動車から身を乗り出す彼女は、エヌを掴んで強く引っ張る。
そのまま少女を助手席に詰め込むと窓を閉め、素早く周囲に人影がないか確認する。
尾行の気配がないのを確認すると、日が昇る前なのにライトを切ったままあるじ様は素早くアクセルを踏み込んだ。
エヌが暗い中目を凝らしてスピードメーターを見ると、速度は100kmを超えているのに針はまだ最高速度の半分ほども出ていない。
速度と車の代金、二つの意味でぎょっと目を剥いた彼女は一も二もなく運転手の顔を見る。エヌの様子に気づく事なく車を走らせる彼女は、目の下に深いクマを刻み、髪の毛もボサボサで生気がない。
だが、それはエヌも同じだった。興奮し切った様子で息を荒げている。
「あるじ様大変だったんです!空でグレーに捕まって、軍人が沢山いて!」
「大丈夫よ、分かったから落ち着いて」
「それで砲弾が飛んできたからたまたま逃げられて、そして空を落っこちて!それになんですかそのマネキンの腕は!」
「エヌ!深く息を吸って、落ち着くのよ」
少女は興奮冷めやらぬなか、言われた通りに何回か深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻した。
二人とも口を閉ざし、車のエンジン音だけが車内に満ちる。重く淀んだ空気の中、疲れ切ったエヌは身体からフッと力を抜く。
「…あるじ様、シートベルトが締められません。なにせ、手が足りなくて」
「ごめんね、すっかり気が動転してて忘れてたわ。今すぐに付けるからね」
「別にそんな今すぐじゃなくて大丈夫ですよ。事故に遭ったって綺麗に受け身取れますし」
少女は少し戯けた調子で顔を綻ばせるが、あるじ様は強張った表情を崩さずキッパリとした口調でエヌに異をとなえる。
やや急ブレーキ気味に車を停めながら、チカチカとハザードランプが光った。
「ダメよ、絶対にダメ。ちゃんと怪我の手当てをしなきゃだし、もう決して危ない目に合わせたくないのよ」
「そこまで言うならお願いしますけど…」
エヌは胸にチクリと微かな違和感を覚え、なんとはなしに主人の顔を見上げる。
カチリとエヌのシートベルトを閉めたあるじ様は、ボサボサになった少女の髪を手櫛で整えた。
エヌはただ頭に手が伸ばされる光景を見ていたが、ふわりと優しく撫でられるとその相好を崩した。
「それにしてもあるじ様、実は結構お金持ちだったんですね。この車だって結構な値段するんじゃ無いんですか?」
「エヌを助けるためならお金に糸目はつけないわ。現金一括払いで買ったのよ」
「それじゃあしばらく貧乏生活ですね…」
「あのボロアパートに住んでるおかげでまだヘソクリは残ってるわ。私たち旅行とかそういう贅沢もしないし」
「それなら良いですけど…仕事の無理はしないでくださいね」
エヌは心配そうにそう告げるが、あるじ様は肩を竦めて笑ってみせた。
「っと、それより早く街中に逃げ込まなきゃね。それに腕だって付けなきゃだし」
「そうですよ。食べ物も一人で食べれないから大変だったんですからね」
「それなら私も一回くらいは『あーん』ってしてあげようかしら」
薄明るい声でそう揶揄うあるじ様だが、雲がかった月明かりではその顔を覗くには至らない。
「他人事みたいに言わないでください。自分のペースで食べられないしグレーはいるし、結構ストレスなんですよ?」
「確かに、エヌは子どもっぽく扱われるの嫌いだもんね」
そう告げると運転のためか少女から目線をはずし、表情が暗がりの向こうに行って見えなくなった。
やがて自分が見られていることに気づいあるじ様は、片手でポンポンとエヌの頭を撫で付ける。何日も緊張状態だったエヌは暖かい手つきに目を細め、すぐにこっくり、こっくり、と船を漕ぎ始めた。
「んぅ…あるじ様が運転してるのに、エヌが寝る訳には…」
「別に寝てても気にしないわ?私そんなに器、狭そうに見えるかしら?」
「あるじ様の運転が不安で…せめてライトは付けて…くぅ…ぷぅ…」
エヌは少しづつ下がってきた目蓋を支えきれず、やがて小さく寝息を立て始める。あるじ様はその姿を横目で見届けると、重くため息を吐いた。
「…寝た、わね。感情に聡いのはあの子譲りかしら」
「…まぁ…あるじ様ぁ…ぐすっ…」
エヌが深く眠ると、彼女の湿った寝言があるじ様の耳朶を打つ。それでも車はラジオひとつつける事なく、粛々と夜の道を進んでいく。
そんなおり不意に月が晴れ、照らされた彼女の表情は重く憂いを帯びた花のようだった。それでも、瞳の中にはドロドロとした決意が淀んでいる。
「エヌが自分のことに気付くのも時間の問題ね。どうしたものかしら」
視線を道路より遠くに向けながら、今はただただ車を運転するのみだった。
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