最終話:未来と今
「シロ助、あの本、見つかったって? いったいどこにあったんだよ?」
佐藤津貴子が過去に暮らしたこの部屋に三度来訪したのは三日後、舞原昂から連絡を受けての事だった。津貴子はリビングに足を踏み入れた次の瞬間、少しだけ身体を硬直させた。そこにいたのは昂ではなく、かつての恋人・内海陽菜だったからだ。津貴子は別れて以降、彼女とは会わず、連絡も取らないようにしていたし、今晩ここにいるのも昂だけだと聞いていた。
「久しぶりだね、津貴子ちゃん。元気にしてた?」
「あ、ああ……。陽菜の方は?」
「まあまあかな。でも、二年も二人で暮らしてたから、一人きりの夜はまだちょっと静かで寂しいよ」
そう言って陽菜はソファから腰を上げ、東を向いた窓を開ける。八階のこの部屋からは身を乗り出すと、東京湾岸の夜景を眺めることができた。
「綺麗だね、ベイブリッジ。そう言えばベイブリッジが見えることも、ここを借りることに決めた理由だったね」
陽菜の開けた窓から、初夏の夜風が部屋の中に舞い込む。津貴子はこちらに背を向けたままの彼女に声を投げかけた。
「先週、婚活イベントに行ってきたんだ。なんだか肩が凝ったよ」
「……それは、男の人が相手の?」
「うん。恋愛を意識して男性と対面するのは初めてだから不安だったけど、良い人たちばかりで助かったよ」
「それは……、津貴子ちゃんは女の子と恋愛するのが嫌になったってこと?」
陽菜の問いに、津貴子は数秒だけ沈黙する。本心を口にするか彼女は悩んだが、結局話すことにした。
「アタシが好きなのは今でも女の子――」途中で言い止まり、津貴子は首を横に振る。「今でも陽菜だよ。同じ空間にいて頭が上手く働かなくなり、身体がポワッと熱くなるのは陽菜だけだ」
陽菜はまだ窓の外を眺めたままで、津貴子の方に顔を向けない。津貴子もまた彼女の背中から目線を外し、フローリングに落とした。
「でも、不安に耐えられない」
「……不安?」
「二十八歳になって、昔の友達や職場の人たち、仕事で顔を合わせる人たちの結婚報告を聞く機会が増えた。その人たちはみんな普通の――、男性と女性同士の結婚だった。
アタシより四つも年下の陽菜にはわからないかもしれない。三十歳を目前にして『普通』を生きていないアタシの不安は。今が『普通の人生』に乗り換えられる最後の時期なんじゃないかって考えてしまうアタシの不安は。
そして、アタシが君への好きを止められないまま、君が『普通』の側の人生を選んで、一人ぼっちで取り残されるかもしれないっていう不安は」
少し長い台詞を言い終えて、陽菜からの返答はない。津貴子は小さく息を吐き、帰ろうと一歩を踏み出す。その時だった。
「じゃあ、あたしはこう言えばいいのかな」陽菜が口を開いた。「『あたしの気持ちは変わらないよ。ずっと一生、津貴子ちゃんの事が好きなままだよ』って。
――でも、そんなの意味のない事だよね。だって、全然本心じゃないし、あたしには『将来を考えて生きる』っていうのがよくわからないから」
窓が閉められ、部屋に流れ込んできていた夜風が途絶える。陽菜は津貴子の方を振り返り、微かかな笑みを浮かべて言った。
「あたし、その時々で生き方を決めてきたんだ。高校は好きだった女の先生が転勤したからって決めたし、大学の学科は不登校になった昔の友達の力になりたいと児童心理学科に決めた。それに今の仕事も、大学時代に見た作品が素敵だなって感じたからアニメを作る仕事に決めた」
真っ直ぐに見据えられた陽菜の瞳。そこに一片の曇りもない。
「でも、今これが最適だと思って決めてきたこれまでに後悔はない。それはもちろん、津貴子ちゃんと恋人同士になって、二人で過ごしてきた時間も含めて。
もし、今の津貴子ちゃんと同じ年齢になって、『普通』と外れた自分を不安になる未来が待っていたとしても、あたしはあなたとの過去と今は大切に想う」
言い終わるタイミングで、ソファの上に置かれた陽菜のスマホが震えた。歩み寄り、陽菜はその画面を確認した。
「あたしには『将来を考える』ってことは出来ないから、代わりに、懸命に考えた『今』と『過去』についての想いを話したよ。
……ごめん、作画修正の段階でトラブルが起きたみたいだから、ちょっと会社に行ってくるね。鍵は合鍵で掛けておいて」
言い残し、内海陽菜は部屋を後にする。残された津貴子はその姿を見送った後、かつて暮らした部屋のソファに腰を下ろした。
* * * * *
「嘘つき」
陽菜が会社からの呼び出しで部屋を去ってから五分ほど経っただろうか。今までどこにいたのか、入れ替わりに舞原昂が姿を見せた。
「家中をひっくり返しましたが、津貴子の言う本なんて出てこなかったですよ。それどころか、ネットで検索しても『形而上データベース群の情報同一性保持理論』なんてタイトルは引っかからなかったです。この家の上がり込むための口実に、適当な事を言ったのですね」
「……とっさに思い付いたにしては、何だかそれっぽい書名だっただろ」
ソファの上で、佐藤津貴子は自嘲する。
「そんなに自分からフった相手に未練があったですか?」
「あるさ。決まってる。これまでの人生で、彼女ほど好きになった相手はいないからね」
「昂は陽菜ちゃんのお嫁さんだから、あなたには一切同情しません。……陽菜ちゃんが可哀想です」
昂はテーブルの上に残された飲みかけのグラスを脇にずらし、布巾で卓上を拭きながら話を続ける。
「佐藤津貴子。現世に生を受けてたかだか十年の昂がこんな事を言うのは差し出がましいのは承知です。でも、言わせてください」
津貴子は少し頭をもたげ、昂を見る。
「食事は栄養を得るために食べるものです。これから活動をするためにどれだけのカロリーが必要か、健康な身体を保つために栄養素に過不足はないか。料理を作る立場として、昂はいつもその事を考えています
けれど、です。食事はまた同時に、楽しんでするものだとも思います。いくら栄養が摂れたとしても、砂を嚙むような味の料理では意味がありません。食べたことでお腹が膨れて、さらに心も満たされなきゃダメです」
静かに語る昂の横顔。それは津貴子の目に、年齢以上に大人びて映る。
「今の津貴子にも同じことが言えるのではありませんか?
未来が不安な気持ちはわかります。でも、将来の安定のために意に添わぬ今を生きても、きっと幸せは訪れないと昂は思います」
肘を膝の上に乗せて両手の指を組み合わせ、それまで黙って聞いていた津貴子は、ここでやっと口を開く。
「小娘のくせに、随分と達観したことを言うんだな」
「ふふん、敵に塩を送るというやつです。泥棒猫のことは気に喰いませんが、陽菜ちゃんが悲しい想いをしているのは嫌ですからね」
津貴子の声色は明るく軽やかなものだった。付きまとっていた重い泥をやっと洗い流せたような、そんな感じの声だった。
* * * * *
「あ、美味しい! スバちゃん、お味噌汁のお味噌変えた?」
「西京味噌です。父様の故郷の味を使ってみました」
朝食の席の会話。佐藤津貴子との対話から一週間。あれ以降、陽菜がツラそうな様子を見せることはなく、舞原昂は安心する。
しかし――。
「なんでその女がしれっと上がり込んで、一緒に朝食を食べてるんですか!」
リビングに置かれたダイニングテーブルには、陽菜、昂、そしてなぜだか、佐藤津貴子も着いていた。
「なんでって……、また同棲を始めるからだよ」
「な、なんですって!」
「うわぁい、津貴子ちゃんが戻ってきてくれて嬉しいよ!」
喜ぶ陽菜と、不服そうな昂。
間髪入れず、津貴子の前に椀を乱暴に置く昂。
「なんだこれ? 茶漬けか? アタシ、朝はクロワッサンにスクランブルエッグと決めているから、茶漬けなぞ食わんぞ」
「ぶぶ漬けです! 意味は『とっとと二人(昂と陽菜ちゃん)の愛の巣から立ち去れこの野郎』です!」
がぶがぶ噛み付いてくる昂を涼しい顔で躱す津貴子。
「おお恐い恐い。そんなに心配しなくても、アタシと陽菜の娘って位置付けでシロ助のことは可愛がってやるよ」
「なにぉ! お前こそ泥棒猫に相応しく、昂と陽菜ちゃん夫婦のペットとしてにゃあにゃあお情けで飼ってやるです!」
「それはどうも。ペットフードはカリカリだけじゃなく、ちゃんと缶のやスティックタイプも用意してくれよな」
騒がしくしている昂と津貴子を微笑ましく眺めている陽菜。と、そこにスマホに着信が入ったようで、こっそりと離席する。
「ま、でも、残念だ。シロ助は後二週間でロシアに帰るんだろう。陽菜の事はアタシがしっかり守るから安心してくれ」
「へん! 二週間もあれば充分です。どっちが陽菜ちゃんの嫁に相応しいか、充分にわからせてやるですよ!」
「あー、その事なんだけどね」
電話を終えて戻ってきた陽菜が、二人のじゃれ合いに口を挟む。
「お姉ちゃんの海外出張、期間が二年に延びちゃったみたい。それまで、スバちゃんの面倒を見てくれってさ」
それを聞き、ガッツポーズをする昂と、唖然とする津貴子。
「おいおい、このやかましいのと後二年も暮らさなきゃいけないのか」
「母様、バリショーエ・スパシーバ! この昂に時間を与えるなんて、伴侶勝負はもう決まったようなものですね!」
横浜市、本牧。中心街から近くて遠い、海と港と歴史の街。
再び交際を始めた二人の女性と、許嫁を自称するロシアの童女。
風変わりな三人の同居生活は、今しばらく続く。
(了)
本牧、角部屋、お嫁付き!(幼女) 春菊も追加で @syungiku_plus
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