第3話:今昔、相まみえる
「なんだ。シロ助、お前またいるのか。小学校はどうしたんだ?」
合鍵を使ってアパートに上がり込んだ佐藤津貴子は、リビングでまた雪色の髪の少女――舞原昂と鉢合わせた。彼女の顔を見るのは二日ぶりだった。
「今日は開港記念日だからお休みです。……というか、『また』を言いたいのはこちらです。平日の午前十時なのに、泥棒猫は無職なのですか?」
「フレックスタイム制だよ。コアタイムに会社にいれば、何時に出社してもいいの。それより、『形而上データベース群の情報同一性保持理論』って本知らない? 結構重くて、堅そうで、高そうなやつ。仕事で使うんだけど、どうもこの部屋に忘れてきちゃったみたいでさ」
「知らないです。ご自分で勝手に探してください」
テーブルに座って算数ドリルに鉛筆を走らせながら、津貴子の方は見ずに昂は言う。そんな彼女に背後からそっと近付き、両の頬っぺたを津貴子はぷにと摘まんだ。
「ふぉっ! な、何するですか!」
「あんたさ、陽菜の許嫁だって言ってたじゃん」
「そ、そうですけど、陽菜ちゃんと別れたお前に何の関係があるっていうんです!」
「ん? 別に何にもないよ。でも、元恋人としては何だか腹立つなって思ってさ」
くにくにと頬を揉みしだいてくる津貴子の手を強引に退け、昂は目を吊り上げて彼女を睨み上げる。ぽわぽわとしていてどこか子供っぽさのある陽菜とは対照的に、佐藤津貴子はスラリと背が高く、キリっとした凛々しい顔つきをしていた。
「勝手なことを……。後から嫉妬するなら、別れたりしなきゃよかったじゃないですか」
当然の問い、と昂は思う。けれど言い終わった後、彼女は戸惑った。それを聴いた津貴子の顔がほんの少し、悲し気な色を帯びた気がしたからだ。
「シロ助は陽菜のこと好きか?」
「何を分かり切ったことを……。昂は陽菜ちゃんを愛してますし、陽菜ちゃんの妻として最も相応しいのは昂だと自負しています」
「そっか。アタシも、陽菜のことは今でも好きだよ」
「だから、だったら何で……」
言葉を遮るように、津貴子の手が昂の肩に置かれる。
「シロ助は今、何歳だ?」
「? 十歳ですけど」
「アタシは今年は二十八歳だ」肩の上の津貴子の指先に、わずかに力が入る。「歳を取ると、好きだけで一緒にいるのが難しくなるんだよ」
* * * * *
「ええっ! とんかつ侍、陽菜ちゃんの会社で作っているですか!」
「そうだよ。でも、あたしは制作進行だから、絵を描いてるわけじゃないけどね」
リビングでの夕食後のひと時、テレビでは子供向けのアニメ番組が流れていた。画面に映る豚鼻の侍を見ながら、舞原昂は驚きの声を上げた。
「でも、嬉しいな。スバちゃんがあたしたちの作ってる番組を見ててくれてたなんて」
「見てるに決まってるです。ソースで良し、味噌で良し、揚げたて御免の『とんかつ侍』はロシアでも人気ですから」
腰に帯びた包丁を抜刀し、悪に染まった食材と対峙するテレビの中の侍。昂はそういえばと思い出した感じで、テーブルの向かいに座っている陽菜に話しかけた。
「陽菜ちゃん、データベースがどうとかってタイトルの本、家の中で見かけませんでした?」
「データベース?」
「午前中、またあの泥棒猫がその本を探してるとかで現れたです。まったく、昂と陽菜ちゃんの愛の巣にズカズカと……」
「ああ、津貴子ちゃんの本か。といっても津貴子ちゃん、私物はほとんど持ってっちゃったはずなんだけどなぁ。……どこにあるんだろう?」
「さっさと見つけて、もう来ないようにしましょう。陽菜ちゃんのお嫁さんは昂だというのに、周りをチョロチョロ鬱陶しい!」
「あはは、スバちゃんは津貴子ちゃんの事、嫌いなのかな?」
レモンジャムを乗せたティースプーンをゆっくりと紅茶の中で回しながら、内海陽菜は苦笑する。
「ぷっぷくぷーです! 一時の気の迷いとはいえ、陽菜ちゃんはあんな女のどこを好いたですか?」
別に一時の迷いじゃないよーと否定の言葉を明るく述べ、カップからスプーンを引き上げた。
「好きになった理由かぁ……。なんだろう。ムラっときたから?」
「ムラっとって……」
「津貴子ちゃんとは地元の大学のサークルで知り合ったんだ。あたしが新入生で、津貴子ちゃんは四年生。ボードゲーム同好会だったんだけど、ほら彼女、プログラミングやってるでしょ。カタンとかバックギャモンとか人狼とか、とにかく論理的で強くてさ。
入部して三ヶ月くらい経った頃、盤の前で次の手を考えてる津貴子ちゃんの横顔を見てたら好きになっちゃった。それで思い切って告白してみたら、津貴子ちゃんも女の子のことが好きな女の子だったみたいでね。付き合うことになったの。
彼女の方が一年先に横浜に出て、後を追ってあたしも神奈川の会社に就職した。
色んな所に行って楽しかったなぁ。浴衣を着て三渓園《さんけいえん》に蛍を見に行ったり、根岸《ねぎし》競馬場の一等馬見所の前にレジャーシートを敷いてのんびりしたり、天気の良い日はクロスバイクで大さん橋埠頭の方まで脚を伸ばしてみたり」
楽し気に想い出話を語る陽菜に、昂は唇を尖らせる。
「こんなに陽菜ちゃんが幸せそうなのに、何で泥棒猫はお別れなんてしたんですかね。『陽菜はアタシとの将来をきちんと考えてくれていない』とか、あの女の言ってることは昂にはわかんないです」
「そっか。彼女はその事、スバちゃんにも話したんだね」
陽菜はテーブルの上に視線を落とすと、卓上に指先でくるりと円を描く。
「実を言うと、あたしにも津貴子ちゃんの言ってることがよくわからないんだ。あたしはあの頃、津貴子ちゃんが隣にいてくれる『今』を楽しいと思って生きていたと思う。
津貴子ちゃんはあたしの何が不満だったのかな。津貴子ちゃんの言う『将来をきちんと考える』って、一体どういうことなんだろう。
一生懸命に考えてみたけれど、あたしには……やっぱりよくわからないや」
その言葉に昂は何も返さなかった。その言葉を吐いた陽菜の表情が、これまで見た事ないほどにツラそうだったからだ。
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