第35話 なんだってあんないいにおいがするんだ。
──30分後。
「うっかりなんだ。ちょっとした不注意と、自宅という気のゆるみが生んだ事故だとも。悪意なんてあるはずがないし、劣情もないことを保証する」
俺は一気に閉めた引き戸の裏でガタガタ震えて神に祈っていた。
そう、すでにことは起きてしまった。
ああ、神様仏様読者様……これはラブコメにありがちなお色気イベントであって、死亡フラグではないはずだろ?
でなければ、俺がこんな凡ミスを犯すはずがない。
……そうだろ、諸君?
「誰に向かって話しているのです?」
「彼方にいる誰か、に?」
「もう開けてもいいのです」
「フッ……開けた瞬間フルパワーだろ? わかってるぞ、勇者め」
少しの沈黙。
この沈黙が怖い。
「……日月?」
「蒼真が不注意な破廉恥を引き寄せるのはいつもの事なのです」
「いやいや、そんなにいつもではないだろう。ごくまれに引き当てるだけだ。だいたいピックアップガチャくらいの確率だろ?」
「0.3%なのです?」
「……渋いな。どんなゲームだ……」
おそるおそる引き戸を引くと、すっかり可愛いふわもこパーカーに着替えたすばるがちょこんと立っていた。
妹の部屋着らしいが……着ているのを見たことがない。
まぁ、これは妹が着てもちょっと似合わないかもしれないな。
「猫だな」
「可愛いのですけど、ちょっと恥ずかしいのです」
猫耳フードがついた、モコモコとした上下。
なかなか似合ってる。
「それで……見たのです?」
ここは正直に行くべきところか?
それとも、さくっと誤魔化すところか?
「記憶が消えるまで光の波動で頭をかき回した方がいいのです?」
「ハハハ、当然見ていないに決まってるじゃないか。俺は紳士だぞ?」
「本当なのです?」
実際はばっちりだったし、脳内にがっつり焼き付いてるけどな。
しかし、それを正直に白状なんてすれば、末路は一つ。
つまり、死だ。
「あら、上がったのね? じゃあ、蒼真も入っちゃいなさい」
奇妙な緊迫感を打ち崩したのは、キッチンから顔をのぞかせた母である。
「俺はいいよ」
「あんたもずぶ濡れだったでしょ。いいから入ってきなさいな。その間に母さん、もう一品増やしちゃうから」
魔王ボディとなった俺は、ほとんどの病気にかからないし……なまじ罹患したとしても、魔法を使えばものの数秒で全快だ。
雨に濡れることによるデメリットはちょっと寒いってだけである。
「入ってくるといいのです」
「いや、しかし……」
「家族には内緒と聞いたのです。疑われるのはよくないのです」
「うぐ」
このうっかり勇者に諭されるとは何たる不覚。
というか、お前が恐ろしい秘密を口走らないかと不安になってるんだよ、俺は。
「大丈夫なのです。ちゃんと気をつけるのです」
耳元ですばるが囁く。
ふわりといい匂いがして、イケナイ映像がフラッシュバックするが……平静を装って頷く。
「わかった。じゃ、ここ座って、テレビでも見てなさい」
「他人行儀な上に妙に優しいのです」
「俺はいつだって紳士だ」
すばるをリビングのソファに座らせて、気付かれぬように小さくため息をつきながら風呂場へと向かう。
色んな意味でしくじった。
その意味では、風呂にでも入って少し頭の中を整理した方がいいかもしれない。
今日はイレギュラーが多すぎて、混乱気味だ。
このままじゃどんな凡ミスをかますかわかったもんじゃないからな。
「やれやれ……」
独り言ちながらシャツを脱いだところで、思わず動きが止まる。
回る洗濯機、湯上りの残り香、使用済みのバスタオル……。
そして、肌色成分の多いフラッシュバック映像。
……やばい、やばいやばい……!
深呼吸だ!
いや、深呼吸はまずい!
息を止めるか?
待て、何を意識してる。
おかしいだろ。すばるは
落ち着け、ちょっとばかり刺激的な映像に心が躍らされてるだけだ。
そう、ほら……俺って高校生だし。
健康優良な男子は、そう言うのに興味があるわけだし。
すばるは美少女だし。
ほら、おかしくない。おかしくないな?
全体的にセーフだろ?
『すばるだから』ってわけじゃない。
「……心頭滅却すれば、火もまた涼し……!」
ちなみにこの言葉を使った坊主は、あっさり炎に撒かれて死んだ。
はっきり言って、やせ我慢の言葉に他ならない。
どうにも落ち着かないまま、風呂場へ足を踏み入れた俺だったが、そこでもまた固まってしまった。
床を濡らす水滴が、湯気を立てる浴槽が、普段と違う位置に配置されたバスチェアが、俺の平常心をかき乱す。
さっきまでここに、すばるがいたと考えてしまうと、どうにもしがたい思考が湧き出てしまうのだ。
まさかあの事故がこうも俺を揺さぶるとは予想外であった。
(これではそこらの色に浮かれた陽キャみたいじゃないか)
そんな自嘲に苦笑いしつつも、俺は湯船につかる。
「まったく落ち着けねぇ……」
すばるの気配が残る風呂場。
さっきから一瞬のうちに焼き付いた肌色の映像がちらついて、まったくリラックスできない。
「ああ、もう……いいか」
しばし入浴して、いくぶんすっきりした心持で風呂を出る。
やっぱり、気の迷いだった。
ああ、排水溝に潜むスライムどん。風呂の掃除をたのんだよ。
スッキリとね。
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