第7話

冷静になって思い返してみると、

よく取り乱さないでいられたなと思う。

驚きの連続で、体が強張っていたらしく、

レインがサービスだと言って入れてくれた紅茶が

心と体に沁みた。

目的と行く先がはっきりしたことで、

ようやくこの状況が腑に落ちて、

目が覚めたような感覚があった。

最初よりもずっと、

地に足がついたような気がする。

俺の命を吸い取っているという“繭”は、

黄昏時に現れるのだという。

今は昼時にも至らない、朝日が照らす時間帯だ。

祈り場へ行くにはまだ早いという魔女の判断で、

まずは、

この世界のことを知るところから始めることになった。

「この世界は、大樹を中心に広がっている。祈り場があるのは大樹のある場所。世界の真ん中だ。」

魔女が言うには、

今俺がいるこの世界には九つの空があって、

それを、九つの星が守っているのだという。

「空は一つずつ生まれていった。

なんというか、気付けばそこに在ったな。

それに伴って、星も一つずつ生まれていったよ。」

星は一つの空に一つずつ生まれ、

それぞれの空をそれぞれの星が守っている。

そして、

最初に生まれた空から数えて、

ここは九つ目の空らしい。

想像すると、途方もなくて不思議な話だなと思うけど、

一番不思議なのは、教えてくれる魔女が

それをまるで実際に見てきたように話しているということだった。

「それって、宇宙の成り立ち、みたいなものですか?」

「うんまぁ、そんな感じかな?

理論を聞かれても答えられないけどね。」

とぼけたようにしれっと話す口調が、ちょっとだけベルベットに似ていると思った。

「どっちかというと、神話みたいなものじゃない?」

ふいに、濃いバターの香りがふわりと飛び込んくる。

気付けばレインが、厨房から焼き上がったばかりのクッキーを持って戻ってくるところだった。

「科学的に詳しく研究してる人もいるけど、あんまり深く考えない方がいいわよ。」

そう言ってレインはニヤニヤと笑う。

「目、焦点が合ってない。」

「え?」

思わず、目を瞬かせた。

レインが楽しそうに人差し指を俺に向けて

くるくる回してみせる。

「クセ、みたいね。それ。」

たしかにちょっと考え込んではいたけど、

そんなクセがあったなんて自分では気がつかなかった。

入ってくる情報が多くて、考えることが多くて、

思考回路はずっと全力で回転したままだ。

「ざっくりわかっていればいいよ。なんせ伝えられる物語が多いからな。私にもよくわからないんだ。」

レインが味見と称して出してくれたクッキーを頬張りながら、魔女が言った。

「うん、美味い」と嬉しそうに顔を綻ばせる姿は本当にただのお婆さんにしか見えない。

だけど、壮大なお伽話のように聞こえる世界の話も、このお婆さんから紡がれると、妙な説得力があるから不思議だった。

「君は、一番目の空からここにきたんだよ。」

「そうなんですか?!」

また突然何気なく、

しれっと投下された事実に、

思考回路が活発に回り出す。

目の焦点が合っているかをちょっとだけ気にしながら、俺は魔女を凝視した。

心臓がドキドキしている。

自分がどこから来たのか、知りたかったことだ。

そこはきっと、俺が帰る場所でもあるはずだから。

「空は大樹を中心に、円を描くように広がっているんだ。」

魔女は相変わらず穏やかに微笑みながら、

ゆっくりと、九つの空を刻むように

指先で宙にくるりと円を描いてみせた。

「起点となる最初の空と、最後の九つ目の空は重なり合ってるんだよ。」

俺の向きから時計回りに見えるように、

九つ数えながら円を描ききったところで、

小さく囲うように、もう一つ円を描く。

俺が居たという一番目の空が最初の空で、

九番目の空が、最後の空というわけだ。

「重なってる、けど、同じじゃないんですよね?」

「そう。別の世界だよ。」

そう言うと、魔女は落ち着いた様子でコーヒーのおかわりを口に運んだ。

ふぅ、と小さく息をつきながら

俺は知り得た事実を飲み込んだ。

近いのか近くないのか、遠いのか遠くないのか、

よくわからないけど、

自分の居た場所がたしかに在って、

俺はそこから、別の世界に来ているんだ。

どうしたってやっぱり、途方もない話だけど、

今はそれだけわかっていれば充分だと思った。

「そうだ。大事なことを忘れていた。

君の名前を決めよう。」

ふいに、思いついたようにパッと顔を上げて、

魔女が俺に向けて言った。

歯切れの良い声に、思わずポカンとしてしまう。

「俺の名前、ですか?」

魔女が微笑んで頷いた。

「記憶も名前も持たずに次元をウロウロするのはそれなりに危険なことなんだ。だから、ここに連れてきてもらったんだよ。」

何か名乗りたい名前があればそれでいいぞ。

と言いながら、魔女はコーヒーを飲み干した。

突然の提案に戸惑いつつ、たしかに名前はあった方がいいなと納得する。

でも、名乗りたい名前なんて今のところ何も思い浮かばない。

考えてはみるものの、たぶん、俺はそういうセンスがない。なんとなくだけどそんな気がしている。

「じゃあ“キュウ”は?」

煮詰まった思考回路に、レインの声が朗らかに響いた。

「九つ目の空に来た記念に。それにあなたとてもキュートだし。キュートなキューちゃん。ね、どう?」

そう言って、

楽しそうに、そして満足そうにレインが笑った。

相変わらず、笑顔がとびきり可愛くて眩しい。

キュートなのは俺なんかじゃなくて、レインの方だと痛烈に思う。

「キュウ」

試しにそっと、言ってみた。

正直、ちょっと安直な気がしなくもないけど、

声にしてみると、思いの外違和感なく口に馴染んでいて言いやすかった。

「決まりね。」

レインの圧倒的な可愛さと勢いに押されて、

俺は思わず頷いた。

その様子を楽しそうに眺めながら、

魔女がニヤリと笑って頬杖をついた。

「ようこそ九つ目の空へ。キュウ。」

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