第4話

「あなたが…“かけづきのまじょ”、ですか?」


「そう呼ばれているよ。」


惚けたような俺の問いかけに

穏やかに答えてくれたその人は、

70代くらいに見える小柄なお婆さんだった。

白いトレンチコートを纏っていて、

濃紺のシャツに黒ネクタイ、加えて黒い脚衣という、かっちりとした格好をしている。

大きめの丸メガネと白茶色の短い髪が、

窓辺の陽光を受けてキラキラしていた。

「とりあえず、一息つきなさいな。」

レインが俺の前にホクホクと湯気の立ったカップを差し出してくれた。

ふわりとココアの甘い香りが鼻腔いっぱいに広がって、気持ちが落ち着いていく。

「…ありがとうございます。」

そっとココアを口に運ぶと、すごく好みの甘さに仕上がっていて美味しかった。

上にくるりと乗っているホイップクリームが、

ココアに溶けてふわふわと混ざり合っていく。

そういえば俺は甘いものが好きだったなぁと、

感覚的に思い出した。

それまで張り詰めていたものがふわりと解けて、身体中に安堵が染み渡っていくのを感じる。

俺は改めて、“かけづきのまじょ”を見た。

「はい。ジリはコーヒーね。メープル入れ過ぎちゃったわ。」

「いいねぇ。ありがとう。」

嬉しそうにニコニコしながら、コーヒーカップを受け取り、美味しそうに口に運ぶ。

レインがジリと呼んだその人は

穏やかな普通のお婆さんに見えた。

“かけづきのまじょ”とは何なのか、

どんな人物なのかわからないまま、

勝手に少し怖い人を思い描いていたけど、

目の前の女性からは少しも恐怖を感じない。

それどころか、どこか安心している自分がいた。

俺は思い切って、話しかけてみた。

「あの、“かけづきのまじょ”って、その、つまり、魔女なんですか?」

我ながら、格好のつかない質問だなと思った。

おまけにしどろもどろだ。

いかんせん聞きたいことが多すぎて、

何からどう聞けばいいのかわからなかった。

「そうだね。人はそう言う意味で呼んでいるから、そうなんじゃないかな。」

フッと吹き出すように苦笑いをして、

クスクスと楽しそうに笑いながら、魔女は静かに俺に向き合った。

瞳が、水のように揺らめいて見える。

初めて会った人だけど、記憶とは別のところで不思議と心が揺さぶられるのを感じていた。

「…俺は、記憶がありません。でも、誰かに、あなたに会うように言われて、俺はここに居るんです。」

聞かなければならないことが、

水底から浮かぶ泡のように溢れてくるのを、

俺は一つ一つ紡ぐように言葉にした。

「…どうして、俺には記憶がないんですか?」

その理由を、ベルベットでもなくレインでもなく、

この人から聞かなくてはならない。

そして、

それは俺自身の意志で聞き出さなければ意味がない。

そんな気がして仕方なかった。

強い確信を感じながら、俺は魔女の瞳を見つめた。

「抜き取ったからだよ。」

ゆっくりと一口、コーヒーを飲んでから魔女が言った。

あっさりと返された言葉に、思わず瞬間的に身構える。

「…あなたが?」

「私じゃないぞ。抜いたのは別のやつだ。」

一瞬少し警戒した俺に気づいて、

魔女は子どもを宥めるような表情で緩やかに微笑んだ。

「大丈夫、悪いやつじゃない。」

誰かを思い出しているのか、

魔女はちょっとだけ意味深にニヤリと笑った。

その目は楽しげに、優しく細められている。

「君を守るためにあえて抜いたんだよ。すべて終われば、記憶は戻る。」

「守る…。何から…?」

魔女は静かに目を伏せた。

「俺に、何が起こっているんですか?」

店内はコーヒーの香りと甘いココアの香りに満ちていて、穏やかな空気が流れている。

静寂な音に溶け込むように、魔女の優しい声が静かに響いた。

「君は今、少しずつ命を吸い取られて、時間を巻き戻されている状況にある。このままでは、君の命は体と共に巻き戻されて消えてしまうんだ。」

大きな水滴が水面を揺らすように、

ドクン、と、心臓が重く波打った。





燃えるような夕焼けか、灼けるような朝焼けか。

朱く染まる光の帯が、空と大地を分けている。

濃紺から青へ、青から朱へ、朱から金色へ。

美しい黄昏と夜明けのグラデーションが、

大地を包むように照らしている。

一本の大樹が、

世界の中心のように堂々と聳え立っていた。

周りを囲むように深い森が広がっている。

大樹全体からほとばしる生命力が、

金色の光となって輝きを放っている。

ピリピリと、肌が波立つのを感じた。

大樹を正面に、森を見下ろせる小高い丘があった。

光の帯に向けて、崖のように突き出すその丘で、

彼女は祈り続けていた。

憔悴しきっているはずだった。

突如として起こった事態によって、

彼女の心は耐え難い哀しみに突き落とされていた。

それでも、必ず叶うと強く信じて願い続ける彼女の瞳は痛いくらいにまっすぐで、見ている方が苦しくなる。

「大丈夫。絶対に生きてる。必ず帰ってくる。」

あらゆる可能性を探しながら、

願うことを諦めようとしない彼女を、

俺はただ見つめることしかできなかった。

もう叶わないだろうと、確信できるくらいに、

時間だけが無常に過ぎている。

視線に気づいて、ふいに彼女が振り向いた。

俺を心配させまいと、その表情は毅然としている。

「あぁ、ミズキ。そこに居てくれたんだ。」

そう言って微笑んだ瞳は、哀しい色をしていた。

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